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見えない閾値  作者: 灯屋 いと
第1章 外の世界

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#1 空白

 朝九時、正面玄関。

 暁は指定された時刻の三分前にその場所に立っていた。手袋をはめた手には何も持っていない。持っていくものはないと昨日答えた通り、暁の両手は空のまま体の横に下がっている。足元は施設が用意した靴。身に着けているのは規格品の白いシャツと紺のズボンだけで、そのどれも暁が選んだものではなかった。

 正面玄関を通るのは初めてだった。施設の中で暁が知っている導線にこの場所は含まれておらず、天井の高さも壁に嵌められた窓も、居室にはなかったものばかりが並んでいる。窓の外には光がある。暁はそれを見たが、特に何も思わなかった。

 九時ちょうどに、施設の職員がひとりと見たことのないスーツの男がひとり、玄関に姿を見せた。スーツの男が暁を一瞥して職員と言葉を交わしたけれど、暁には聞き取れず、聞き取る必要も感じない。

「〇四七番、こちらへ」

 職員の声に暁は「はい」と返して歩き出す。

「荷物は」

「ありません」

 職員はそれ以上何も訊かなかった。暁の両手が空であることを確認して、歩く方向を顎で示しただけだった。自動ドアが開いた瞬間、外の空気が流れ込んできた。四月の朝。施設の廊下よりも温度が低く湿度が高い空気が暁の肌に触れるが、快でも不快でもない。温度と湿度が変わったというだけのことだった。

 車寄せに黒い車が一台停まっている。スーツの男が後部座席のドアを開け、暁は指示を待った。

「……乗れ」

 短い声だった。暁は後部座席に座る。外からドアが閉められた。

 スーツの男は助手席に乗り込み、運転席にはすでに別の男がいた。施設の職員は車には乗らず、玄関の前に立ったまま車が動き出すのを見ている。暁は窓越しにその姿を捉えたけれど、視線を合わせるという発想がなかった。

 車が走り出す。窓の外で施設の建物が遠ざかっていく。暁はそれを見ていたが、十八年間を過ごした建物が視界から消えても暁の内側に生じるものは何もない。見えなくなったという変化だけが残る。

 車内は静かだった。助手席の男は一度も話しかけてこなく、暁も口を開かない。窓の外を次々と流れていく建物、道路、信号、歩いている人間、自転車。施設の中にはなかった情報量が桁違いに暁の中に押し寄せてくるが、暁はそれに目を向けようとしなかった。必要のないものだ。目的地に到着すること、それだけが暁に与えられた手順であり、経路の途中の景色は手順の外にある。


*****


 車は一時間ほどで停まった。

 薄いベージュの外壁をしたマンションの前だった。五階建てで、周囲には同じような建物がいくつか並び、敷地の中に植えられた木が四月の風に揺れている。スーツの男が先に降りて暁の前を歩き、エントランスのオートロックを開け、エレベーターで四階に上がると、廊下の奥の部屋のドアを開けた。

「ここだ。鍵はテーブルの上にある」

 男はそれだけ言ってドアの前から退いた。暁は「はい」と返して部屋に入る。背後でドアが閉まり、男の足音が遠ざかっていく。

 ひとりになった。

 玄関から短い廊下を抜けた先に八畳ほどの部屋がある。左手にキッチン、奥に窓。窓の外には隣の棟のベランダが見えていた。ベッド、テーブル、ソファ、机と椅子、冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機など。家具も家電もすべて揃っていて、すべて新品で、壁は白く、床はフローリング。施設の居室と同じ程度に清潔な空間ではあったが、窓から差し込む光の色が違う。

 暁はソファに腰を下ろした。テーブルの上に封筒が二つと薄い冊子が数冊。暁は手袋をはめたまま封筒を開けると、中には銀行口座の通帳とキャッシュカード、暗証番号の記された紙と現金の入った封筒が入っている。もうひとつの封筒には大学の入学案内が入っていた。東京大学理科一類。冊子は近隣の地図とゴミの分別ガイドとマンションの管理規約だった。

 暁はそれらを順に読んでいった。大学、入学、四月、講義、単位、試験。言葉の意味は理解できる。施設で与えられた教材の範囲で大学という機関の存在は知っていたが、行ったことはない。手続きはすべて施設が済ませており、暁がやるべきことは書類の指示通りに動くことだけである。施設の中でやっていたことと、何も変わらない構造だ。

 書類を読み終えると、暁はソファに座ったまま動かなくなる。

 施設ではここにいればすべてが来た。食事は決まった時間に配膳され、教材は定期的に届き、入浴の時間は放送で知らされる。暁がすべきことは来たものに応じて行動することだけであり、それ以外の手順を暁は知らない。

 だから暁は待っていた。

 スマートウォッチの画面を見る。十二時を回っている。施設であれば正午に食事が届くはずだったから、暁はソファに座ったまま食事を待った。

 食事は来ない。

「……来ない」

 暁は声に出していた。独り言という概念を暁は持っていない。ただ観測結果を口にしただけだった。

 十三時。十四時。暁はソファに座っている。喉の渇きを感じ始めていたけれど、それを問題として捉えることはない。喉が渇いているという身体の変化は受け取っているが、施設では水も食事と一緒に出されていたのだから、自分で水を取りに行くという手順が暁の中にはなかった。

 キッチンの蛇口をひねれば水が出る。知識としてはある。ただ、その知識と「喉が渇いたから水を飲む」という行動のあいだに、施設の中では必要のなかった接続がひとつ欠けている。すべての行動は外部の指示で始まるものだ。指示がなければ暁は動かない。

 十八時。暁はまだ座っていた。


 翌日の昼。暁はベッドに横になっている。ソファから移動したのは身体が重くなったからであり、水を一滴も摂っていないことの帰結としてかすかな頭痛があり、口の中が乾いていた。

 食事は来ない。水も来ない。

「……来ない」

 同じ言葉がもう一度、暁から零れた。前日と同じ発声、同じ音量。暁の声は部屋の壁に吸い込まれて、返事はない。

 暁はそのことを異常とは捉えなかった。施設が管理を終了したという情報は昨日の所長の言葉で受け取っている。しかし「管理が終了した」と「食事が供給されなくなった」が暁の中で繋がるまでに一日以上を要していた。食事は外部から供給されるもの、という前提そのものが暁の中にあり、それが停まるという想定がなかったからだ。

 さらに半日が経つ。二日半。頭痛は強まり、手足の先が冷えている。胃が収縮する感覚があり、口唇の皮が乾いて剥がれ始めていた。

 暁はベッドの上で天井を見ていた。白い天井に蛍光灯。施設と同じ景色が広がっている。

 このままでは身体に支障が出る。

 感情ではなかった。身体の変化を積み上げていった先に、水と栄養の不足が限界に近づいているという結論が出ただけのこと。暁を動かしたのは不安でも恐怖でもなく、論理だった。

 水と食料を確保する必要がある。

 その結論に至って、暁は初めて自分の判断で立ち上がる。


*****


 外に出た。マンションのエントランスを抜けると四月の午後の光が暁の視界に入り、施設の中にはなかった直射光に目を細めたが、それは反射でしかない。暁は周囲を見た。マンションの前の道路が左右に延びていて、右手に交差点、左手はカーブの先が見えない。交差点の方には人が歩いているのが見え、暁は右に向かった。

 交差点に出ると視界が開ける。看板のついた建物がいくつも並んでいた。「クリーニング」「不動産」「歯科」。文字は読めるけれど、それらが自分の行動とどう繋がるのかがわからない。暁が探しているのは水と食料を供給する場所であり、それが施設の外のどこにあるのかは暁にとって未知だ。

 交差点の角に、ガラス張りの建物がある。自動ドアから人が出入りしていた。暁は足を止め、その動線を観察した。入る時は手ぶらで、出る時はビニール袋を持っている。七分間で十四人。法則は明確だ。中で何かを受け取っている。

 自動ドアに近づくと「ファミリーマート」と表示がある。暁はその名称に覚えがなかったが、中に入ることにした。冷房の効いた空気が流れてくる。

 棚が整然と並び、商品が陳列されていた。暁は棚の間を歩きながら他の客の行動を追う。棚から商品を手に取り、カウンターに持っていく。カウンターの向こうの店員に何かを渡すと袋に商品が入れられて戻ってくる。渡しているのは紙幣だった。暁はカウンター付近でひと組のやり取りを注視して、それを確認する。金銭と商品の交換。購買行動。概念としては知っているが、実行したことはない。

 暁は飲料の棚の前に立ってみた。水、お茶、ジュース。ペットボトルが並んでいてラベルに容量と価格が記されている。暁は水を一本手に取った。五百ミリリットル、百十円。

 次に食料を探す。パン、おにぎり、弁当、菓子。名称は読めるが、暁には選択の基準がない。味の好みというものが暁にはなかった。施設の食事には選択肢がなく、食べ物を「選ぶ」という行為そのものが暁にとっては未知のものだ。

 栄養補助食品の棚で、暁の足が止まる。カロリーメイト。箱の側面に栄養成分表示がある。カロリー、タンパク質、脂質、炭水化物、ビタミン、ミネラル。すべてが数値で記載されていた。

 数値なら暁にも読める。

 暁は二種類の箱を手に取って成分を比較した。カロリーあたりのタンパク質含有率、脂質の比率、ビタミンのバランス。大差ないけれど、プレーン味がわずかに脂質が低い。暁はプレーン味を二箱取った。

 カウンターに水とカロリーメイトを持っていくと、店員が金額を読み上げた。

「六百三十円になります」

 暁は施設が用意した財布から一万円札を出す。店員が釣り銭を数えて差し出した。

「九千三百七十円のお返しです。袋はご利用ですか」

 暁は答えなかった。質問の意味は理解できるけれど、答える必要性が判断できなかった。店員は少し間を置いてから袋に商品を入れた。

「ありがとうございましたー」

 暁は袋を受け取って店を出た。店員の声は暁の背中に届いていたけれど、暁はそれに応じなかった。応じる必要のある声ではなかったから。


*****


 部屋に戻った。

 テーブルの上にカロリーメイトの箱を二つと水のペットボトルを並べてから、まず水を開けて飲む。乾いた喉を水が流れ落ちていくのを感じながら、暁はその感覚に名前をつけなかった。喉の渇きが収まった、それだけのことである。

 カロリーメイトの包装を開けて、四本入りのブロックを一本齧る。口の中に粉っぽい感触が広がった。施設の食事とは異なる食感だったが、施設の食事がどんな味だったか暁は正確に覚えていない。食事は栄養を摂る手段であり、暁には味を記憶する習慣がない。

 一本を食べ終え、二本目を齧りながら、空腹が遠ざかっていくのを感じる。三本目には手をつけず箱に戻した。必要な量はおおよそ摂れている。残りは次の食事にすればいい。

 暁はソファに座ったまま、テーブルの上のカロリーメイトの箱を見ていた。

 生存は確保された。それ以上のことは、暁の中に浮かばない。

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