#1 通告
A棟第三実験区画、被験者〇四七番。
天井のスピーカーから流れた音声を、暁は三秒で処理した。自分の管理番号と指定区画、それに移動命令という三つの情報を受け取ると、膝の上に広げていた数学の教材を静かに閉じてベッドの上に置いた。
部屋は八畳ほどの広さがあり、施設の居室としては恵まれている方だろう。コンクリートの壁に白い塗装が施され、天井には蛍光灯が据えられ、清潔なリネンの敷かれたベッドと小さなデスク、それに椅子がひとつ。デスクの上には数学の教材が三冊と使い古したシャープペンシルが一本あるだけで、それが暁の部屋の全てだった。
窓がないことを、暁は不自然だと思ったことがない。
立ち上がり、デスクの横に掛けてあった薄手の手袋を取って両手にはめる。白い布地が手首まで覆うのを確認してからドアに向かったが、そのドアには鍵がなかった。内側からも外側からも施錠できない構造になっているけれど、それは暁の自由を意味しない。廊下に出ていいタイミングは、呼び出しがあったときと食事の時間と入浴の時間だけだった。
廊下は長く、白い。
蛍光灯の光が等間隔に並んでリノリウムの床を均一に照らしており、壁にも床にも埃はなく、空気はかすかに消毒液の匂いを含んでいる。窓はここにもない。暁の足音だけが規則的に響いて、それ以外の音は聞こえなかった。
すれ違う人間はいない。この時間帯にこの区画の廊下を歩くのは暁だけであり、他の被験者がいるのかいないのかも暁は知らなかった。知る必要がなかったし、必要のない情報を取得する手段を暁は持っていない。
角を二回曲がり、突き当たりの扉の前で足を止める。対話室、と簡素なプレートに記されていた。暁はドアノブに手を掛けて、いつもと同じ力加減で押し開いた。
*****
対話室は暁の居室よりも狭かった。
部屋の中央をガラスの壁が仕切っている。透明で、厚い。暁がガラスのこちら側に置かれたパイプ椅子に腰を下ろすと、向こう側にも同じパイプ椅子がひとつあり、そこに男が座っていた。
所長だった。五十代の半ばか、それよりも上に見える。白衣ではなくスーツを着ていて、表情には何も浮かんでいない。暁に対して所長が感情を見せたことは、暁の記憶にはなかった。敵意もなければ好意もなく、管理する側と管理される側がガラスを一枚挟んで向かい合っているだけの構図である。
「〇四七番」
ガラスの向こうから所長の声が届く。スピーカーを介さない肉声は少しだけくぐもって聞こえたが、暁は背筋を伸ばしたまま「はい」と返した。
「明日からここを出ることになった。住居は用意してある」
所長の口調は報告書の読み上げに似ている。事実を伝えているだけで、それ以上の情報は含まれていなかった。
暁は所長の言葉を順に処理する。「明日」は時間軸の指定であり、「ここを出る」は場所の移動であり、「住居は用意してある」は移動先が確保されているということだった。三つの情報を結合しても、暁の中に発生する反応は特にない。驚きも不安も安堵も生成されず、所長の言葉は常にこうだった。指示があり、暁が従う。それ以外の手順を暁は持っていない。
「はい。わかりました。そうします」
暁の返答は定型だった。所長はそれを確認するように一度だけ頷いてから、手元の書類に視線を落とす。ボールペンの先が紙の上を走る音が、ガラス越しにかすかに聞こえた。
「転居先は都内のマンションだ。大学への通学に支障のない立地を選んである。生活費は口座に振り込まれる」
「はい」
「通院も不要だ。経過観察はリモートで行う」
所長の視線が書類から上がり、暁の左手首に一瞬だけ止まる。手袋の上からでも、手首に巻かれたものの輪郭がわずかに見えていた。
「手袋は外すな。理由はわかっているな」
所長の声に抑揚はなかった。念を押しているのではなく、確認事項を読み上げているだけの声である。暁にとってもそれは確認以前の問題であり、身体に刻まれた手順にすぎない。手袋は外さない。素手で何かに触れない。素手で誰にも触れない。十八年間、一度も破ったことのない規則を明日からも暁は守る。それに疑問を持つ回路はない。
「はい」
即答した。暁に間は要らない。
所長はもう一度だけ頷いて、書類のページをめくる。紙の擦れる音がガラスの向こうで鳴った。
「持っていくものはあるか」
所長の視線は書類に落ちたままで、質問というよりもチェックリストの最後の項目を消化しているような口調だった。
暁はふと自分の部屋を思い浮かべた。ベッド、デスク、椅子、数学の教材、シャープペンシル。どれも施設の備品であり、暁のものではない──少なくとも暁の認識では。教材は施設から支給されたもので、シャープペンシルも同じ。衣服は施設が用意した規格品であり、暁が選んだものは一着もない。
持っていくもの。自分のもの。その二つの言葉を暁は処理したけれど、結果は即座に出る。該当なし。
「ありません」
暁は事実を述べた。声に寂しさは混じらないし、混じりようがない。「自分のもの」という概念が暁の中に形成されていないのだから、その不在を嘆く回路も存在しないのだ。十八年間ここで暮らして、暁が所有したものは何もなかった。
所長は書類から顔を上げない。ボールペンで最後の項目にチェックを入れる音だけが聞こえる。
「以上だ。明日の朝九時に正面玄関に来い。担当が迎えに来る」
「はい」
それで対話は終わった。所長は書類を纏めて立ち上がり、暁に背を向けてガラスの向こう側のドアから出ていく。足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
暁はしばらくの間、ガラスの向こうの空になった椅子を見ていた。見ていた、というよりも視界にそれが映っていただけで、暁は立ち上がるタイミングを計っていたわけでも何かを考えていたわけでもない。入力が途絶えたから次の入力を待っている、ただそれだけの状態だった。
数秒か数十秒か、時間の経過に意味を見出す機能は暁にはない。やがて暁は椅子から立ち上がり、入ってきたドアを押し開けて廊下に出た。
同じ白い廊下、同じ蛍光灯、同じリノリウムの床。行きと帰りで景色は逆順になるが、暁は帰路を間違えたことがなかった。角を曲がる回数と方向を記憶しているから逆に辿ればよく、地図は必要ない。この施設の中で暁が移動する経路は限られていて、それはすべて暁の頭の中に入っている。
廊下の途中で、ふいに足が止まる。
左手首のスマートウォッチに視線を落とした。手袋の上から巻かれたバンドの小さな画面に、十七時四十二分という時刻が表示されている。夕食は十八時からだったから、部屋に戻ってから十八分ほどの空き時間がある。数学の教材の続きをやるには短いが、何もしないには長い。
けれど暁はその時間の使い方を計算しているのではなかった。時刻を確認すること自体が暁の日常の手順に組み込まれた動作であり、移動の前後、食事の前、就寝の前には時刻を見る。いつからそうしているのか暁は覚えていないし、覚えている必要もなかった。
歩き出す。
廊下の壁面が途切れて、一か所だけガラスの嵌め込まれた区画がある。向こう側──外が見えるわけではない。ガラスは磨りガラスで、その先に何があるのかは暁も知らなかったが、磨りガラスには暁の姿がぼんやりと映っていた。輪郭だけの、曖昧な像。黒い髪と細い体、手袋をはめた両手。顔があるはずの場所には、ぼやけた肌色の面が浮かんでいるだけだ。
暁はそこに自分の表情を確認しようとはしなかった。確認するという発想がない。表情とは他者に向けて発信するものであり、暁には発信する相手がいない。十八年間、一度もいなかった。ガラスに映る自分に表情の有無を気にする理由を暁は持っていない。
だから暁は知らない。磨りガラスに映ったその顔に何も浮かんでいないことを。喜びも悲しみも怒りも不安も、どこにも存在していないことを。それが異常であることを暁は知る手段を持たなかったし、気づく理由も、気づいたところで比較する対象もない。
暁は磨りガラスの前を通り過ぎた。足音はいつもと同じ間隔、同じ重さで白い廊下に反響しながら消えていく。
明日、ここを出る。
その情報は暁の中で処理済みだ。処理済みの情報に再びアクセスする必要はない。明日の朝九時に正面玄関に行く、担当が来る、都内のマンションに移動する、大学に通う、手袋は外さない。それだけのことだ。
暁にとって、今日がこの施設で過ごす最後の夜だということに特別な意味はない。「最後」という概念は、その前の日々に価値を認めている者だけが使える言葉だろう。暁はこの場所に価値も愛着も見出していないし、見出すための回路が発達していない。
居室のドアを開けて中に入ると、ベッドの上に置いた教材がさっきと同じ角度で同じ場所にある。暁はそれを手に取ることなく、ベッドの縁に腰を下ろした。
天井の蛍光灯が、いつもと同じ色温度で暁の手袋をはめた手を照らしている。
十八年間を過ごした部屋で、暁はいつもの日常を終える。明日からは場所が変わるけれど、それだけの変数の入れ替えにすぎない。暁の中の定数は何も変わらない。手袋は外さない、素手では触れない。誰にも。何にも。
夕食の時間まで、あと十三分。暁は数学の教材を手に取り、中断していたページを開いた。
暁は知っている。自分が特定の虚弱体質の人間に対して以外は毒性を持っていることを。




