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見えない閾値  作者: 灯屋 いと
第1章 外の世界

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3/13

#2 大学

 書類に記されていた日付の朝、暁は大学に向かった。

 通学経路は地図で確認してある。マンションから最寄り駅まで徒歩八分、電車で三駅、駅から大学の正門まで徒歩十二分。暁はその導線を事前に一度計測し所要時間を頭に入れており、講義開始の三十分前にマンションを出ればいいと判断していた。暁は予定通りに動く。

 電車の中は人が多かった。施設では同時に視界に入る人間は多くて三人だったが、車内には数十人がひしめいている。暁は手袋をはめた手でつり革を握りながら周囲との距離を保ち、人が近づいてくる方向からは身体をわずかに引いた。他者に触れないようにする。それは暁の意思というよりも身体に刷り込まれた回路のようなものであり、考えるよりも先に身体が動いていた。

 東京大学の本郷キャンパスは広い。正門をくぐると銀杏並木が続き、その両側に古い建物と新しい建物が混在しているが、暁は建物に目を向けなかった。書類に記された講義棟の番号と教室番号を確認して、最短経路で移動する。

 前期教養課程の数学の講義は、百人ほどが座れる階段教室で行われた。暁は最後列の端、壁に近い位置に座る。左右のどちらかに壁があれば、人間が接近してくる方向を限定できるからだ。

 教員が入ってきて講義が始まった。

「行列Aの逆行列が存在する条件は何か。行列式がゼロでないこと、すなわち――」

 教員の声が教室に響いている。暁はノートを開いたが、書くことがなかった。

「……知っている」

 暁は声に出さず唇だけ動かした。すべて知っている。施設で与えられた数学の教材には学部三年程度の内容まで含まれていて、暁はそれを十五歳の時点で理解し終えていた。その後の三年間は教材の問題を繰り返し解くか、自分で問題を作って潰すかして時間を消費する日々だった。

「――したがって、正則行列の積もまた正則であることが示される」

 教員がホワイトボードに式を書き終えた。暁の視線は式を追ったが、ペンは動かない。

 九十分。暁のノートは白紙のまま講義が終わった。


 翌週、暁はシラバスを確認した。

 入学案内の冊子に記載があったウェブサイトにアクセスし、理科一類の必修科目と選択科目の一覧を見る。数学、物理、化学、英語、第二外国語、体育。数学の科目をすべて確認したが、前期教養で開講されている範囲はどれも既知だった。

 知っていることを繰り返す意味がわからない。暁にとって教育とは知らないことを知ることであり、既知の情報をもう一度受け取ることには何の意味も見出せない。

 シラバスの上位科目を辿っていくと、理学部物理学科に数学系の専門講義があった。群論、微分幾何、関数解析。暁はそれらの名称と概要を読み、自分がまだ学んでいない領域があることを確かめた。知らないことがある。暁はそちらへ行くことにした。

 履修登録で物理学科の上位科目を申請。一年生が上位科目を取ること自体は制度上可能だが、前提科目の履修が推奨されている。暁は前提科目の内容を確認し、すべて理解済みだと判断して申請を出す。申請は通った。


*****


 昼休みになると、周囲の学生が一斉に動き始める。暁は最後列の席から立ち上がり、人の流れを観察する。多くが同じ方向に歩いていくのを見て、暁はその流れに距離を置いて付いていった。

 行き先は学食だ。広い空間にテーブルと椅子が並んでいて、壁際に券売機が設置されている。学生が列を作っていた。暁はその最後尾に立ち、前の学生の動作を観察する。硬貨を入れて、ボタンを押して、出てきた紙片を受け取っている。

 暁の番が来た。

 券売機の画面にメニューが並んでいる。カツ丼、カレーライス、ラーメン、うどん、日替わり定食。写真が添えてあり、暁はその写真を見た。

 カツ丼の「カツ」が何なのかがわからない。茶色い衣に覆われた何かが白米の上に載っていて、衣の中身は見えなかった。施設の食事は常に同じ形式で提供されていたが、それぞれに名前がついていることを暁は意識したことがない。

 カレーライスの写真に目を移す。黄土色の液体が白米にかかっている。カレーという単語は知っていたが、知識と写真が結びついても、どのボタンを押すかという判断には至らなかった。

 何を選べばいいのか。

 暁にとって食事は選ぶものではなく与えられるものだった。選択肢の存在するシステムに、暁は対応していない。味の好みがない。食材の知識が足りない。価格の高低に基準がない。栄養成分の表示もない。カロリーメイトの箱には数値があったが、券売機のボタンには価格の数値しかない。最低限、栄養成分の数値がなければ暁には選べなかった。

 暁は券売機の画面の前で止まった。画面を見てメニューを読んで写真を見ているが、指はボタンに触れない。

 後ろに人が増え始めていることに暁は気づいていなかった。

「すいません、まだですか」

 背後から声がかかり、暁は振り向いた。学生がふたり、暁の後ろに立っている。ひとりは暁を見ていて、もうひとりは手元の端末に目を落としていた。暁を見ている方の顔には苛立ちとまではいかない程度の不満が浮かんでいる。

 暁はそれを受け取る。自分が滞留していることで後ろが詰まっている、と理解した。

「すみません」

 暁は列から横に出た。声の主に対して何かを感じたわけではない。ただ、自分を除けば流れが戻るということを把握した。それだけのことだった。


 暁はキャンパスを出てコンビニに向かった。大学の近くにもコンビニがあることは初日に確認してあり、マンションの近くの店と同じ構造だった。

「……水、カロリーメイト」

 暁は棚の前で購入対象を口に出していた。確認作業の一環であり、独り言という意識はない。水とカロリーメイトを手に取り、会計を済ませて大学の構内に戻る。

 講義棟の裏のベンチは人通りが少なく木陰になっている。暁はそこに座ってカロリーメイトの封を開け、一本齧りながら水を飲んだ。粉っぽい塊を咀嚼して嚥下する。味についての判断基準が暁にはなく、味覚的評価は生まれない。一箱四百キロカロリー、タンパク質八・四グラム。数値でなら把握できる。

 それ以上を暁は求めなかったし、求めるということを暁は知らない。


*****


 日々が積み重なった。

 暁の行動はルーティンとして固定されていく。朝、同じ時刻にマンションを出て、同じ電車に乗り、同じ経路でキャンパスに入って講義に出る。昼はコンビニでカロリーメイトと水を買い、講義棟の裏のベンチで食べてから午後の講義に出て、同じ経路で帰る。部屋でカロリーメイトを食べながら数学の問題を解き、それから眠る。

 施設と同じだった。場所が変わっただけで暁の行動の構造は変わらない。決まった手順を繰り返す。その繰り返しを退屈だとも苦痛だとも暁は思わなかった。退屈とは、いまと違う状態を知っている人間が覚えるものだろう。暁には比較するものがない。

 物理学科の上位講義に一年生は暁だけだった。周囲は三年生か四年生で、年上の学生ばかりが座っている。暁がそこにいることに向けられる視線はあったが、暁はそれに気づいていない。他者の視線を感知するには他者の存在をひとりの人間として認識している必要があるが、暁にとって周囲の学生は環境の一部であり、個別に認識する対象ではなかった。

 暁は毎日同じ時間に同じベンチでカロリーメイトを食べ、毎日スケジューリングされた講義に出て、誰とも話さなかった。ベンチに座ってカロリーメイトの包装を開けるとき、暁の唇がかすかに動く。

「……四百キロカロリー」

 数値の確認。それだけが暁の発する言葉だった。いつもの表情のまま、いつもの手順を繰り返す。施設にいた頃と同じように、暁の顔には何も浮かんでいない。

 暁はそのことを知らなかった。知る手段もなければ、知る理由もない。

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