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見えない閾値 ─ 僕の存在は毒だから ─  作者: 灯屋 いと
第3章 相転移の苦み

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#6 定義不能な状態

 暁の熱は下がらなかった。

 桐生がコンビニから戻って、ポカリスエットのペットボトルを開けて暁に飲ませた。暁はベッドの上で半身を起こして、桐生に支えられながら水分を摂った。冷たい液体が乾いた喉を通っていく。甘い。暁はその甘さを処理したが、昨夜のカルアミルクの甘さとは全く異なる種類の甘さだった。身体が必要としている甘さ。身体が足りないと言ってるかのようにすぐさま染み込んでいく。自分の舌が甘さの違い、水分の違いを区別できるようになっていることに、暁自身は気づいていなかった。

 暁の涙は止まった。桐生が戻ってきて、手が暁の頬に触れて、桐生がここにいることを暁の身体が確認してから、涙は止まった。しかし、暁の身体の不調は涙とは別の問題だ。頭が重い。こめかみのあたりが鈍く痛む。首の後ろが熱を持っていて、枕に触れている頬も熱い。胃の中がまだ気持ち悪い。

 桐生が暁の額に手のひらを当てた。じっと動かない。体温を確認している。

「熱あるじゃん。結構高いよ」

「……なぜ、こんなに頭が痛いんですか」

「それは二日酔いもあるかな。酒飲みすぎた翌日になるやつ。あと疲れだよ。昨日神保町歩き回ったし、暁、体力ないのに酒まで飲んだし」

「ふつかよい」

 暁はその言葉を初めて聞いた。口の中で転がすように繰り返すが、金平糖の時のような甘さはない。二日酔い。暁の語彙に新しい単語が加わった。

 桐生に言われ暁は普段よりも回らない頭で原因を推測した。古書街で五軒歩き回った疲労。暁の身体はまだ外の世界に適応しきっていない。施設の空調管理された環境から出て数ヶ月しか経っていない身体が、一日中歩いて、知らない刺激を大量に受け取って、その上にアルコールを入れた。暁の身体にとっては、処理すべき情報量が限界を超えている。二日酔いと、身体の疲労と、暁の脳が大量の新しい経験を処理しようとして発生した熱。全部が重なっている。

「頭痛い以外にしんどいとこある?」

「……身体が重くて、胃が気持ち悪いです。あと……水分を摂ったのに……」

 暁は事実を報告した。声はかすれていたが、声の形は保っている。けれど、語尾が迷って消えた。

「のに、どうしたの?」

 桐生に訊かれても暁は困っているとは言わなかった。困っているという状態と言葉の定義がまだ暁の中で曖昧だからであり、現状が暁にとって困っているとは恐らく違うことも認識したからだ。暁は事実を述べている。事実だけを報告している。だが、同時に正確に自分の状況を伝えられないことにもどかしさを感じた。暁の中に言葉が少ない。経験したことのない状態を伝える語彙がない。先ほど、身体に染み込む甘い水分を飲んだのに、まだ乾きがあるのに、暁はその状態を上手く言語化できない。

「水分……ああ、まだ喉乾いてる? 足りなかった?」

「……はい……」

 暁の言葉から予測して訊いてきた桐生の言葉に、暁はほっとするように小さく掠れた返事をした。

「二日酔いに熱出て脱水症状もおまけについてきたかな」

「だっすい、とは」

「暁。いまは考えなくていいよ。わかんないままでいい。熱、下がってから理解すればいいから。ポカリ、自分で飲める? 起き上がれる?」

「大丈夫、です」

 やんわりと桐生に思考を止められた暁は慎重に身体を起こそうとしたが、結局、桐生の手に支えられた。常温になった液体をゆっくりと飲み、身体の渇きを潤していく。半分ほど残していたポカリスエットを飲み干すと、身体に水分が行き渡り喉の渇きも感じなくなった。

 この少し甘い水は普通の水ではない。暁が施設を出て水と食事に飢えていた時に飲んだ水とは違う染み込み方をしてきた。しかし、暁には僅かに甘いという味覚の差異しかわからない。わからないが、いまは考えなくていい。さっき、桐生がそう言った。

「まだ足りない? 飲む?」

「いいえ。もう、大丈夫です」

 返事した暁の声は先ほどよりも掠れていない。背中を支えたまま、ベッドの端に座っていた桐生がほっと息をついた気配がした。

「じゃ、もう少し寝なよ。寝たら、寝た分だけ全部よくなるから」

 桐生に布団に仕舞われながら、暁はその言葉の根拠を訊こうとしてやめた。肩まですっぽり布団でくるまれると、桐生の手が暁をそっと撫でた。

「寝ても大丈夫だよ。ここにいるから」

「はい」

 重ねて桐生に言われたが、暁はなかなか目を閉じられなかった。眠って起きたらまた一人になっているかもしれないと思ってしまった。それは「不安」と呼ぶべきものだが、暁には初めて感じた気持ちがなんであるかの理解が追い付かない。「不安」という言葉は知っていても、その状態において判断力が低下することも、熱がある状態で更にぼんやりしていることも影響している。

 桐生はいまは考えなくていいと言ったが、考えないことがもどかしい。矛盾している。

 暁が目を閉じれないまま桐生を見ていると、桐生は暁の机の椅子を引っ張ってきてベッドの横に置き、座った。桐生は帰らなかった。鞄から文庫本を出して読み始めている。

 暁はそのままベッドの上から桐生を見ていた。桐生が暁の部屋の椅子に座って本を読んでいる。暁の部屋の、暁のベッドの横で。朝起きたら桐生がいなくて、暁は泣いた。いま桐生がまだここにいる。

「桐生さん」

「ん?」

 ちらりと本から顔を上げた桐生が暁の声に反応した。

「……なぜ、帰らないんですか」

 暁は訊いた。桐生はポカリスエットを持ってきて、水分を与えてくれた。布団をかけ直してくれた。処理は完了している。施設の手順であれば、ここで退出するはずだった。

「具合悪い時にひとりは心細いでしょ」

 桐生は少しだけ顔を暁に向けたまま答えた。

「……心細い、とは」

 暁はその言葉を受け取ったが、結合できない。心細い。暁の語彙の中にその単語はない。施設では体調不良のとき一人でいることが当然だったから、一人でいることを「心細い」と感じた経験がない。しかし、暁の身体は、今朝桐生がコンビニに行って部屋からいなくなったとき、何が起きたかを覚えている。涙が出た。理由がわからないまま泣いた。桐生がいない状態に暁の身体が耐えられなかった。暁の意識はそれを「心細い」とは呼べない。しかし暁の身体は、桐生がいない状態といる状態の差を、もう学習している。

 いまは考えなくていいと言われても、暁は自動的に桐生から受け取った言葉を検索してしまう。自分の中にないものを言葉にするのは難しいが、受け取った言葉ならば分析可能だ。

 桐生は本を読み続けている。暁はベッドの上で桐生を見ていた。桐生の横顔。文庫本のページをめくる指。椅子の上で少しだけ前かがみになっている姿勢。暁はそれを見ながら、瞼が重くなっていった。

 眠い。身体が重い。熱が暁の意識を引きずり下ろそうとしている。暁は目を閉じかけて、開けた。桐生がまだいることを確認した。いた。椅子に座っている。本を読んでいる。暁は確認して、また目を閉じた。今朝のことが暁の身体に残っている。目を覚ましたら桐生がいなかった。あの瞬間に暁の身体が出した反応。暁は桐生の存在を確認しなければ眠れなかった。

 暁の意識が薄れていく。眠りに落ちかけている。施設では体調が悪くても一人で眠った。暁の部屋には暁しかいなかった。暁が眠りに落ちるとき、部屋の中に暁以外の人間がいたことはない。いま、桐生がいる。暁のベッドの横で、椅子に座って、本を読んでいる。暁が眠りに落ちようとしているこの瞬間に、桐生がここにいる。

 暁は眠った。


*****


 目を覚ましたとき、部屋が暗くなっていた。

 窓の外の光が消えている。夕方を過ぎたのだろう。暁は何時間眠っていたのかわからなかった。頭痛は少し引いている。身体の重さも、朝よりは軽い。

 椅子に桐生がいた。

 まだいた。暁が眠っている間も、ずっとここにいる。文庫本はデスクの上に置かれていて、桐生は椅子の背もたれにもたれて、暁の方を見ていた。暁が目を開けたのと、桐生の視線が合ったのが同時だった。

「……桐生さん。まだ、いるんですか」

 暁の声は朝よりも出た。かすれはまだあるが、言葉が形をなしている。

「いるよ」

 桐生は短く答えた。桐生の声がいつもよりゆっくりだった。暁にはその速度の変化を検知する基準がないが、桐生の声の響きが、講義室で数式の話をしているときとは違うことは暁にも感じ取れる。

 椅子から身を乗り出した桐生が暁の額に手のひらで触れた。

「熱、だいぶ下がってんな。解熱剤は飲まなくてもよさそうか。暁。腹は減ってる?」

 暁は桐生を見て首を横に振った。桐生が椅子に座っている。暁がベッドに横になっている。その距離。一メートルもない。暁の手を伸ばせば届く距離に、桐生がいる。暁は手を伸ばさなかった。しかし暁の身体は、桐生がこの距離にいることに対して、明確な反応を返していた。呼吸がゆっくりになっている。肩の力が抜けている。撫でられているときと同じ反応が、触れられていないのに、出ている。桐生がそこにいるだけで。

 暁にはまだ名前のない状態だった。暁の語彙の中にその言葉はない。暁は「安心」を知らない。しかし暁の身体は、桐生がいると呼吸がゆっくりになることを覚えている。桐生がいると肩の力が抜けることを覚えている。桐生がいることを確認してから目を閉じたことを覚えている。暁の意識がまだ追いつかない場所で、暁の身体が覚えていた。

 暁は桐生を見て、それから、目を閉じた。桐生がいることを確認してから、目を閉じる。暁は何も言わなかった。ありがとうとも、嬉しいとも。暁の語彙にはそれらの言葉の重みを支えるだけの経験がまだ足りない。暁が返したのは、桐生がいることを確認してから目を閉じるという、その動作だけだった。

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