表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
見えない閾値 ─ 僕の存在は毒だから ─  作者: 灯屋 いと
第3章 相転移の苦み

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/41

#5 検証実験と身体反応

 古書街からの帰り道、暁の隣で桐生が言った。

「飯食ってく?」

 丸ノ内線の車内。暁は桐生の隣に座っている。窓の外の暗いトンネルの壁面がぼんやりと流れていく。暁の膝の上には古書街で買った本が一冊、紙袋に入っている。ガロア理論の古い証明集。桐生が「買ったら」と言ってくれて、暁は初めて本を買った。

「はい」

 暁は頷いた。桐生と食事を取ることは暁のルーティンに含まれている。学食で隣に座って食べる。定食屋に行く。居酒屋に行く。暁にとって食事は桐生と一緒にするものになっていた。それがいつからそうなったのかを暁は把握していない。

 暁の自宅の最寄り駅で降り、駅から歩いて五分ほどの場所に桐生が選んだ店があった。のれんの向こうに木の引き戸がある。桐生が開けて、暁を先に通した。店内は薄暗く、カウンターの奥に半個室の小さな区画がいくつか並んでいる。木の壁と暖簾で仕切られた空間。前に行った居酒屋よりも静かで、隣の席の声が聞こえにくい構造になっている。

「奥、空いてますか」

 桐生が店員に訊いて、奥の半個室に案内された。テーブルを囲むようにL字型のソファ席が据えてある。桐生が奥に座り、暁がその隣に腰を下ろした。木の壁と暖簾に囲まれた小さな空間に桐生と暁だけが収まっている。暖簾の向こうに他の客の気配はあるけれど、視界には入らない。視界に入る情報量が少ないと、暁は落ち着く。

 メニューがテーブルに置かれている。壁にもいくつか短冊が貼ってある。暁はメニューの文字を目で追った。前に居酒屋に来たときは、メニューの文字列が暁にとってほとんど意味を持たなかった。桐生が全部選んでくれた。今は違う。枝豆。出汁巻き卵。焼き鳥。暁はそれらの文字と、自分が口にしたときの味覚を結合できる。文字が味に変換される。その変換テーブルが暁の中に蓄積されている。

「桐生さん。これ食べてみたいです」

 暁がメニューの一品を指差した。鶏の南蛮漬け。暁はその料理を食べたことがない。しかし「鶏」の味と「酢」の味を暁は知っていて、その組み合わせがどうなるのかに関心が向いている。「これは何ですか」ではなく「食べてみたい」と言っている。桐生はそれを聞いて、一瞬だけ暁を見た。暁は気づいていなかった。

「いいね。他にも気になるのある?」

 桐生がメニューを暁の方に寄せた。暁はメニューの上を目で追って、指が止まった場所が二つあった。

「……これと、これは、前に食べたものと似ていますか」

「たこわさはわさびだから暁は嫌かもな。こっちの焼きおにぎりは食べたことないでしょ、頼んでみる?」

「はい」

 桐生が注文を済ませた。料理が運ばれてくるまでの間、暁は紙袋から本を出しかけて、やめた。食事の場で本を読むのは適切ではないということを、暁は桐生との食事の経験から学んでいる。明文化された規則ではなく、桐生が食事中に本を読まないという観察から帰納的に導かれた行動規範だった。

 飲み物が先に来て、料理が来た。桐生が他に頼んだ料理と、暁の選んだ鳥の南蛮漬け。暁は鶏の南蛮漬けを箸で取って口に入れた。酸味が先に来て、鶏の脂の甘みが追いかける。暁の予測と実際の入力が近かった。暁は二切れ目を取った。

「おいしいです」

 暁は言った。この言葉も、前は暁の語彙になかった。暁が食べ物に対して最初に使った評価語は「不快ではない」だった。それが「おいしい」に変わっている。変化の過程を暁自身は意識していない。だが、暁が感覚を出力する言葉が増えている。

 しばらく食べていると、暁が桐生のグラスを見た。桐生はときどき唐揚げをつまみながらビールを飲んでいる。琥珀色の液体と白い泡。暁はそのグラスを三秒ほど見てから、口を開いた。

「桐生さん」

「ん?」

「前回の状態を再現して検証したいので、同じものをください」

 桐生の手が止まった。

「……前回の?」

「はい。前回、居酒屋で飲んだとき、身体に生じた変化の検証です。あの状態の発生メカニズムを理解したいので、同じ条件を再現する必要があります」

 暁は真顔で言っている。暁にとってこれは実験の提案だった。前回、アルコールを摂取したとき、暁の身体に暁の制御を離れた変化が起きた。頬が熱くなった。視界がぼやけた。身体がいつもと違う動きをした。暁はその現象を「ぽやぽや」という擬音で仮に格納している。しかし原因の分析が不十分だった。再現実験が必要である。暁の中ではそれは完全に論理的な帰結だ。

 桐生は暁を凝視している。暁の真剣な目を見た桐生の口元がわずかに動いた。笑いを噛み殺しているのだが、暁にはそれが見えていない。

「……検証ね。わかった。じゃあ前と同じレモンサワーでいい?」

「はい。条件を揃えることが重要です」

 桐生が店員を呼んで、レモンサワーを二つ頼んだ。グラスが来る。透明な液体に氷とレモンが浮かんでいる。前回と同じ見た目。暁は手袋をはめた手でグラスを持ち上げた。

 一口飲む。

 苦い。酸っぱい。舌の先がぴりぴりする。前回の入力と照合する。一致している。暁はもう一口飲んだ。喉の奥から胸のあたりに降りていく熱。これも前回と同じだ。暁の目が分析的に自分の身体を観察している。

「苦味と酸味の比率は前回と一致しています。胸部の熱感も同程度。ただし、前回は三口目以降に制御の低下が始まりましたが、今回はまだ発生していません」

「……暁さん、それ実況しなくていいから」

「データの記録は重要です」

 暁はレモンサワーを半分まで飲んだ。しかし、暁の表情に前回のような変化は出ない。頬に色は差しているが、意識はまだ明瞭だった。暁は首を傾げた。

「前回と同じ条件なのに、再現性が低い」

「耐性がついたんじゃない? 二回目だし」

 桐生は暁の実験と実況を面白そうに観察しながら口を挟んできた。耐性。暁の考慮していなかった点だ。

「……変数が変わっている?」

 暁はその可能性を処理した。同じ入力でも、身体の状態が異なれば出力が変わる。初回の反応と二回目以降の反応が異なることは、生化学的に説明がつく。暁はグラスの残りを飲み干した。

「別の入力を試す必要があります」

「え、まだ飲むの」

「条件を変えて比較しないと、検証になりません」

 暁の論理は明確だった。桐生は少し考えてから、メニューを暁に渡した。

「じゃあ自分で選んでみな。甘い方が飲みやすいと思うけど」

 暁はメニューの酒の欄を見た。文字の意味がわからないものが多い。しかし「梅」の文字は読める。梅。暁は梅の味を知らない。

「これを」

「梅酒サワーね」

 暁が選んだ梅酒サワーのグラスが来た。琥珀色の液体。レモンサワーとは色が違う。暁は一口飲んだ。

 甘い。酸味がある。しかしレモンサワーの酸味とは質が異なっていた。丸い酸味。そしてアルコールの存在が甘みの奥に隠れている。暁の舌はそれを検知しているが、苦味が先に来なかったぶん、入力の処理順序が前回と異なる。

「……甘い。前回と違います」

「そりゃそうだよ。違う酒だもん」

「入力が異なるのに、出力は同じになるんでしょうか」

 暁は二口、三口と飲んだ。梅酒サワーのグラスが空になる。暁の頬の色が濃くなっている。目元にとろみが出始めている。暁は気づいていない。自分の身体の変化を観察しているつもりで、観察する側の機能が既に影響を受けている。

 そのとき焼きおにぎりが運ばれてきた。醤油の焦げた匂いが暁の鼻に入る。暁は箸で一つ取って齧った。表面が硬くて、噛むとぱりっとして、中は柔らかくて温かい。白米と醤油と火の味がする。暁が知っている味の組み合わせだったが、こういう形で食べるのは初めてだった。

「おにぎりの焼いたやつ。どう?」

「……外と中が違います。外は硬くて、中は柔らかい。同じ米なのに」

「焼いたからだよ」

「焼くと、構造が変わるんですね」

 暁は二つ目も食べた。酒を飲みながら食べ物を口に入れると、口の中で味が混ざる。梅酒の甘さと焼きおにぎりの醤油が重なって、暁の舌の上で別の味になっている。暁はその混合を面白いと思ったけれど、「面白い」という語彙がその場では浮かばなかった。ただもう一口食べた。

「桐生さん、もう一種類試したいです」

「暁、結構来てると思うよ」

「まだ分析できています。大丈夫です」

 暁の「大丈夫です」は主観的な判断であり、客観的な身体状態とは一致していない。桐生はそれをわかっていたが、暁が焼きおにぎりを頬張りながら真剣な目で酒の分析を語っているのを見て、もう一杯だけ付き合うことにした。

「じゃあ最後ね。甘くて飲みやすいの頼む?」

「構成要素が全部既知のものがいいです」

「……カルアミルクとか? コーヒーリキュールと牛乳。コーヒーリキュールっていうのはコーヒー味の酒」

「コーヒーの味は知っています。牛乳も知っています。それをお願いします」

 カルアミルクが来た。暁は一口飲んだ。

 甘い。コーヒーの苦みが牛乳の甘みに溶けていて、全体が柔らかい。暁の舌がその構成要素を分解しようとしている。コーヒー。牛乳。砂糖。アルコール。全部知っている味。知っている味が組み合わさると、知らない味になる。暁はその事実に少しだけ引っかかりを覚えた。既知の要素だけで構成されているのに、暁がまだ知らない味がする。

「……おいしい、です」

 暁の声が変わっていた。分析の語彙が消えている。「構成要素が既知です」でも「前回と比較して」でもなく、ただ「おいしい」だった。暁の唇がグラスの縁に触れる。もう一口。暁はゆっくりと飲んでいる。検証という目的が、暁の意識の表面から沈んでいっていた。甘くて、温かくなって、身体の内側がゆるんでいく。暁はもう自分の身体を観察していない。

「……桐生さん、もう一杯」

「え、カルアミルク?」

「おいしいので」

 検証の言葉がどこにもない。桐生は暁の頬の色を見て、目元のとろみを見て、少しだけ迷ってから頼んでくれた。暁は二杯目のカルアミルクを受け取って、両手でグラスを包むように持った。手袋越しにグラスの冷たさが伝わっている。暁はそれをゆっくり飲んだ。

 三杯目を頼んだとき、桐生が「本当に最後ね」と言った。暁は頷いたが、頷く動作自体がゆっくりになっていて、頭が前に傾いたまま戻るのに時間がかかった。


 三杯目のカルアミルクが半分になった頃には、暁の身体はもう暁の制御を完全に離れていた。

 前回の居酒屋とは違う。前回は身体が重くなって、隣にある桐生の腕に重力で傾いた。無意識の接触。暁が接触を選んだのではなく、身体が物理的にそちらに倒れただけだった。

 今回は違った。

 暁の手袋をはめた手が、桐生の腕に伸びた。暁の指が桐生の袖を掴んでいる。掴んでいるという動作を、暁の身体が選択している。重力ではない。暁の手が桐生の腕を探して、見つけて、掴んだ。暁の頬が桐生の肩に押し当てられている。暁の身体が桐生の方に寄っていて、暁の体重の一部が桐生にかかっている。

 暁の意識はまだ残っていた。残っていたが、施設で刷り込まれた「自分から触れてはいけない」という手順が、アルコールの下に沈んでいる。手順は暁の中にある。消えたわけではない。ただ、暁の身体がその手順よりも先に動いている。暁の身体が桐生に触れることを選んでいる。

「……暁」

 桐生の声が近い。暁の耳のすぐ横で聞こえている。暁は桐生の肩に頬を押し当てたまま、目を閉じている。桐生のシャツの匂いがする。暁はその匂いを識別できないが、安全であるという判定だけは暁の身体が出している。この匂いは危険ではない。この温度は危険ではない。この人間は危険ではない。暁の身体がそう判断して、だから暁の手は桐生の袖を離さなかった。

「桐生、さん」

「ん」

 桐生は空いた手でテーブルに肘をついて暁を眺めている。困った顔でも迷惑な顔でもない。微笑ましそうに笑っている。

「……ぽやぽや、します」

 暁の声はゆっくりで、音の輪郭がぼやけている。語順は崩れていない。敬語も維持されている。しかし声の温度がいつもと違っていた。いつもの暁の声は平坦で、感情の起伏がほとんど検知されない。いまの暁の声は平坦ではなかった。柔らかくなっている。暁の声が柔らかくなることがあるということを、桐生はこのとき初めて知った。

「検証の結果は」

 桐生が少しかすれた声で訊いた。

「……わかりません。検証、してたんですか」

「してたよ。暁が言い出したんでしょ」

「……そう、でしたか」

 暁の手が桐生の腕をさらに強く握った。暁の指は細く、手袋越しでも桐生の腕を一周することはできない。しかし握る力は暁にしては強かった。離さない、という意思が暁の指の中にある。暁の意識がそれを命じたのではない。暁の身体が桐生を離すことを拒否している。

 半個室の暖簾の向こうに、他の客の気配がある。しかしこの空間の中には桐生と暁しかいなかった。木の壁に囲まれた小さな場所。暁の頬が桐生の肩に密着していて、暁の髪が桐生の首元に触れている。桐生は暁を見下ろしている。暁の目が閉じていて、頬が紅く染まっていて、唇がわずかに開いていて、暁の全身から力が抜けている。桐生の方に身体を預けている。

 桐生の手が動いた。

 ゆっくりと。暁の頭に伸びて、暁の髪に触れて、そのまま暁の額の方へ降りていく。桐生の唇が暁の額に触れた。

 軽い接触。一秒にも満たない。桐生の唇が暁の額の皮膚に触れて、離れた。

 桐生が固まった。自分が何をしたのか反芻している。桐生の手が暁の髪の上で止まっている。呼吸が一瞬止まった。暁の額に触れた唇の感触が桐生の中に残っていて、桐生はそれを取り消すことができなかった。暁は気づいていない。目を閉じたまま桐生の肩に頬を寄せている。暁の呼吸は穏やかで、暁の身体は桐生に預けられたまま動かない。

 桐生は二秒ほど固まってから、暁の頭を撫で始めた。いつもの撫でる動作。暁の髪を指先で梳くように触れる。さっきの一秒をなかったことにするように。しかし桐生の指先はいつもより少しだけ震えていた。暁はその震えを検知しなかった。

「……帰ろうか」

 桐生の声が出た。暁は桐生の肩から顔を離さない。

「暁。帰るよ」

「……いやです」

 暁が初めて「いやです」と言った。暁はこの言葉をこれまで使ったことがなかった。不快なものに対して暁は身体を引くか、黙るか、事実を報告するかのどれかだった。「いや」という意思表示は暁の行動パターンに含まれていない。いま暁が拒否しているのは不快な入力ではない。桐生から離れることだ。桐生の温度から離れることを暁の身体が拒否している。そしてそれを無意識のうちに言語化した。

「歩ける?」

「……歩けます」

 立ち上がろうとした暁の膝が折れた。桐生が暁の腰を支える。暁は桐生の腕に掴まったまま、半個室の暖簾をくぐって店の外に出た。夜の空気が暁の熱い頬に触れる。暁は桐生の腕をぎゅっと掴んで離さなかった。


 居酒屋を出た後、暁のマンションまで歩いた。

 暁は桐生の腕に掴まったまま歩いていて、桐生が暁の身体を半分支えるような形だった。暁の足取りはゆっくりで、三歩に一度、足がもつれて桐生の方へ寄りかかる。桐生はそのたび暁の身体を引き戻したが、暁はまたすぐ桐生の方に傾いた。──ひっつき虫。桐生の中に幼児に対する比喩が浮かんだが、口には出さなかった。

 暁の部屋のドアの前に着いたが、暁は鍵を持っていない。施設の居室に鍵の概念がなく、暁は鍵を持ち歩く習慣がなかった。ドアは開いている。桐生が訝しみながら施錠していないドアを開けて、暁を中に入れた。

 暁は靴を脱いで、そのまま短い廊下を抜け、ふらふらとベッドに座り込んだ。座り込んだまま、くったりと桐生を見ている。暁の手が桐生の袖を掴んだままで、桐生は暁に引っ張られて暁と対面して床に膝をついた。暁はまだ桐生を離していない。

「暁。部屋、着いたよ。寝な?」

「……はい」

 暁は頷いたが、手は離さない。桐生が暁のベッドの前にしゃがんで、暁の顔を覗き込む。暁の目はとろんとしていて、頬が紅く、髪が少し乱れている。暁は桐生の顔をじっと見ていた。暁が桐生を見る目は、いつもの観察の目ではない。何が違うのかを暁自身は言語化できないが、暁の目の中にある光がいつもと違っていた。

 桐生が暁をベッドに寝かしつけ布団をかける。暁は横になったが、手は依然桐生の袖を掴んだままだ。桐生が袖を引こうとすると、暁の指が強くなる。

「……暁。俺、帰るよ?」

「……」

 暁は何も言わないまま、ただ手を離さなかった。暁の指が桐生の袖の布地を手袋越しに握っていて、その力は弱いのに、桐生はそれを振り払えない。振り払えないのは物理的な問題ではなく、桐生の問題だった。暁の指を外すことを桐生の手が拒否している。

 桐生はベッドの横に座り込んだ。暁が桐生を離さないままベッドに横になっていて、桐生が床に座っている。その配置は数日後に起きることの予行のような形だが、二人ともそれを知らない。

 暁の手が桐生の袖から手探りで手に移動した。手袋をはめた暁の手が桐生の手を握り、桐生は握り返した。暁の手袋越しに暁の指の細さが桐生に伝わっている。暁の手は小さくて、桐生の手のひらの中にほとんど収まる。

 暁が桐生の手を握ったまま、すとんと眠りに落ちる。桐生は暁の寝顔を見た。暁の呼吸がゆっくりと安定している。暁の唇がわずかに開いていて、頬の紅みがまだ残っている。桐生は暁の手を握ったままベッドににもたれて、暁の部屋の天井を見た。

 暁の額に触れた感触が、まだ桐生の唇に残っていた。


*****


 翌朝、桐生が先に目を覚ました。

 暁のベッドにもたれかかったまま寝落ちしていた。首が痛い。ベッドにもたれた姿勢のまま眠っていたから、首の筋肉が固まっている。桐生は目を開けて、自分がどこにいるのかを一秒で把握した。暁の部屋。暁のベッドの横。右手が暁の手を握ったまま。

 暁はベッドの上で眠っていた。布団がずれていて、肩が出ている。暁の顔は横を向いていて、桐生の方を向いている。昨夜の頬の紅みは消えていたが、代わりに暁の顔色が悪かった。ただ白いのではなく、熱を持った白さ。桐生は暁の額に手の甲を当てた。

 熱い。

 昨夜よりも明らかに体温が高い。桐生は暁の顔をもう一度見た。暁の呼吸が浅くて速い。額に薄く汗がにじんでいる。古書街を歩き回った疲労と、アルコールと、暁の身体がまだ外の世界に慣れきっていないこと。全部が重なっているが、桐生にはその全てを把握できない。

 桐生はそっと暁の手を離した。暁の指が桐生の手を離れるとき、暁の眉が微かに動いた。しかし暁は目を覚まさなかった。桐生は暁の布団を肩まで引き上げて、立ち上がった。

 コンビニに行く必要がある。水。ポカリスエット。解熱剤。おかゆなどの食べやすいもの。桐生は暁の部屋のキッチンを確認したが、冷蔵庫の中にはカロリーメイトの箱と水のペットボトルが一本。それしかなかった。暁はまだ食料の備蓄という概念を獲得していない。桐生は靴を履いて、静かにドアを開けた。


 暁が目を覚ましたとき、部屋の中に桐生がいなかった。

 暁はベッドの上で目を開けた。天井が見える。白い天井。暁の部屋の天井。暁は身体を起こそうとしたが、頭がずきりと痛んだ。こめかみの奥が脈拍に合わせて痛む。胃の中が気持ち悪い。身体が重い。暁はその症状を受け取ったが、原因と結合できない。昨夜のアルコールが身体に残っているのだが、暁はそのメカニズムを知識として持っていない。

 暁は横を向いた。誰もいない。桐生がいない。暁はその事実を受け取った。

 昨夜の記憶が断片的に暁の中に残っている。桐生の肩に頬を押し当てていた。桐生の袖を掴んでいた。桐生の手を握っていた。それらの記録は暁の身体の中にあるが、時系列が曖昧になっていて、どこからどこまでが連続した記憶なのかわからない。最後に覚えているのは、桐生の手を握ったまま目を閉じたこと。桐生がいたこと。桐生がここにいたこと。

 いま、桐生がいない。

 暁の身体が反応した。胸の奥が詰まるような感覚。呼吸が少しだけ苦しくなる。頭痛とは違う。胃の不快感とも違う。暁の身体のどこかが、桐生がいないことに対して反応している。施設では体調が悪いとき、暁は一人で横になって回復を待った。それが暁の手順だった。一人でいることは暁にとって通常の状態だった。しかしいま、暁の身体が一人でいることを通常として処理しない。

 何かが暁の目から落ちた。

 暁の頬を、温かいものが伝っていく。暁は手袋をはめた手で頬に触れた。濡れている。暁の目から水分が出ている。涙。暁はその現象を知識として知っていたが、自分の身体でそれが発生していることを処理できなかった。施設で暁は泣いたことがない。十八年間、一度も。泣く理由がなかった。泣くという反応が暁の身体のレパートリーに含まれていなかった。

 なのに、涙が出ている。

 暁は泣いている理由がわからない。

 ──身体のどこかが痛いのか? 頭は痛い。胃は気持ち悪い。しかし、痛みで泣いているのではないことは暁にもわかっていた。痛みは暁にとって既知の入力であり、痛みに対して暁の身体が涙を出したことはない。いま暁の目から出ている涙は、痛みとは別の場所から来ている。暁にはその場所の名前がない。

 玄関のドアが開く音が暁の耳に届いた。

 暁は涙が止まらないまま、ドアの方を見た。桐生が入ってきた。コンビニのビニール袋を提げている。靴を脱いで、短い廊下を抜けて、ベッドの横に来て暁を見た。暁の顔を見て、桐生が一瞬止まった。

 暁の目が赤い。頬が濡れている。暁が泣いている。それを確認したのだろう。

「……暁?」

「どこに、行ったんですか」

 暁の声が震えていたが、敬語は崩れていない。施設で身体に刷り込まれた言葉の形式は、泣いていても維持される。しかし、声の中に暁がこれまで一度も出したことのない振動が入っている。声が揺れている。暁の声が揺れることがあるということを、暁自身が知らなかった。

「コンビニ。ポカリ買ってきた」

 桐生はそう言って、暁のベッドの横にしゃがんだ。ビニール袋を床に置いて、暁の顔を覗き込んでくるが、暁の目からは涙がまだ流れている。暁は涙を止める方法を知らない。

「……暁、なんで泣いてんの?」

「わかりません」

 暁は正確に答えた。わからない。暁は自分が泣いている理由を特定できていない。

 桐生がいなかったから。暁の中にその因果関係は存在しているが、暁の意識はそれを言語化するだけの語彙を持っていなかった。桐生がいない。自分が泣いている。その二つの事実の間にある接続詞を、暁はまだ獲得していない。

 桐生の手が暁の頬に触れ、親指で暁の涙を拭った。熱と涙で意識がぼやけているのに、桐生の手のひらの温度だけがはっきりと暁に届いている。暁の手袋をはめた手がふらりと上がって、桐生の手のひらに重なった。掴んだのではない。暁の手が桐生の手に触れて、そのまま力なく乗っている。暁の意識がそうしたのか、暁の身体が勝手にそうしたのか、熱に浮かされた暁にはわからない。ただ、桐生の手の温度が暁の手袋越しにあって、暁の手はそこから動かなかった。

「いるよ。どこにも行かない」

 桐生の声は低く、静かで柔らかだ。暁の手は桐生の手のひらの上に乗ったまま、動かなかった。涙が流れるのを止められないまま、暁の指先だけが桐生の手の温度を受け取り続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ