#7 バッファオーバーフローの処理
いつもの時間──講義が終わった後、暁は桐生の部屋にいた。
暁はベッドを背に座っていて、桐生は机でノートパソコンに向かっていた。六畳一間の部屋。壁際の本棚、机、ベッド、窓。暁にとって桐生の部屋はもう見慣れた空間で、最初に来たときのような情報量の圧迫はない。本棚の並び順も、机の上の散らかり方も把握している。
テレビはない。暁の部屋にもない。二人の部屋に共通しているのはその点と、本棚の密度。暁は借りた本を読み終えてしまっていた。桐生はノートパソコンを閉じ、暁の隣に座り込んだところだった。
桐生の手が暁の頭に乗っている。
もう言葉での確認は省略されている。省略というのは正確ではない。確認の形が変わったのだ。桐生が暁の方を見る。暁の目が伏せられる。それが確認の代わりになっていた。言葉を介さない確認。暁が目を伏せると、桐生の手が来る。暁の身体がそのリズムを覚えている。
桐生の手が暁の頭頂部から後頭部にかけてゆっくりと動くと、暁の呼吸がゆったりする。肩の力が抜ける。暁の世界がゆるく縮んでいって、桐生の手のひらの温度と呼吸の音と、暁自身の心臓の音だけが残る。
暁の身体は「気持ちいい」と言っている。暁はその言葉を持っていないが、身体が言っている。力が抜けている。呼吸が深くなっている。思考が止まっている。桐生の手のひらの下で、暁の全身が緩んでいる。
桐生の手が以前よりも丁寧になっていることに、暁は気づいていない。指の力加減が変わっている。暁の髪を梳くとき、毛先まで届くように丹念に動かしている。手のひらが暁の頭の曲面に沿う角度が、前よりも正確になっている。桐生の手に含まれている情報が変わっていた。暁にはそれが何なのか名前をつけられない。ただ、指先が暁の髪に触れる圧が以前とは違うことだけを、暁の頭皮は受け取っている。
桐生の手が離れると、受け取る温度がなくなる。頭の上の重みが消える。暁の身体がほんの一瞬だけ、離れていく手の方向に傾いた。
戻ってきてほしいという信号が暁の中に走った。しかし暁はそれを言葉にできない。「戻ってきてほしい」は暁の語彙にない。暁が持っている言葉で「戻ってきてほしい」を組み立てようとすると、「もう一度触ってください」に近づいた時点で暁の中の自戒が立ち上がる。それは能動的行動だ。暁が桐生に触れることを求めている。
触れてほしいと言うことは、触れることを誘発する。暁にとってそれは能動の定義内に入る。
「……桐生さん」
暁は桐生を見て、何かを言おうとしたが、言葉が出ない。暁の中に言いたいことがある。それは確かだ。しかしその「言いたいこと」の形が暁にはわからない。数式であれば書ける。でもこれは数式では書けない。暁の口が開いて、閉じて、また開いた。
「……なんでもないです」
暁は俯いた。言えない。何を言おうとしていたのかも、暁にはわからない。
*****
暁の中で、何かが軋み始めていた。日を追うごとに軋みは大きくなってくる。
桐生が暁を撫でてくれるとき、暁の身体は緩む。力が抜けて、呼吸が深くなって、思考が止まる。そして同時に、暁は同じことを返したかった。桐生が暁の頭を撫でるように、暁も桐生に触りたい。桐生の髪に手を伸ばしたい。桐生の手に触りたい。暁の中にその欲求がある。欲求があることを暁は知っていたが、暁の手は動かない。手袋をはめた手が膝の上にある。自分から触れてはいけない。十八年間、一度も破ったことのないルール。
撫でてもらう。身体が緩む。同じことを返したい。返せない。自戒と欲求の循環が暁の中で回り続けている。日に日にその回転が速くなって、暁の中の空き容量を圧迫していく。暁は数式を解いているときだけこの循環を忘れられたが、数式を解き終わると自戒と欲求の循環が戻ってくる。ペンを置いた瞬間に、桐生の手のひらの温度と、暁の手袋と、その間に存在する距離が戻ってくる。
その日、講義の後、暁の部屋にいた桐生が帰ろうとした。
ソファから立ち上がり、鞄を手に取る。暁は座ったままぼんやりと桐生を見上げていた。いつもの光景だ。桐生が帰る。暁が見送る。「また明日な」と言って、桐生がドアを開けて出ていく。暁が一人になる。
「じゃ、また明日な」
桐生がそう言って玄関に向かった。暁は、暁の手が動いた。
桐生の袖を、手袋をはめた指先が掴んでいる。意識が遅れて行動に気づいた。
暁の指が桐生のシャツの袖口に触れていた。布地を挟んで、暁の指先と桐生の手首のあいだに布一枚。暁の指は桐生の袖を引っ張って、すぐに離した。弾かれたように手が膝の上に戻る。
暁は自分の手を見下ろして、触った。自分から。禁止のはずなのに。暁の手が暁の自戒とは別のところで動いた。暁は手袋をはめた手を、もう片方の手で押さえた。──動くな。
引き留められた形になる桐生がゆっくりと振り向いた気配がする。
「暁?」
穏やかな声。暁は顔を上げられない。胸の奥で何かが膨れ上がっている。暁はそれを抑えようとしたが、抑え方がわからない。施設では暁の中に説明のしようのないものが発生したことがない。暁の中のどこにも、胸の中の膨張を収容する場所がなかった。
「……わからない、んです……」
暁は小さく零した。声が震えている。普段の口調をかろうじて保っているが、声と声の間に息が入って、言葉が途切れ途切れになる。暁の中で起きていることが、暁の出力をすべて圧迫している。数式ではない。言語でもうまく出力できない。暁は自分の中で起きていることをそのまま外に出し始めた。観測データの報告。暁にできるのは、それだけだった。
「撫でてもらうと……気持ちよくて……同じことを返したいのに、できなくて。桐生さんのことを考えると……ここが苦しくて」
暁の手袋をはめた手が胸をぎゅっと押さえる。心臓のあたり。
「でもこの苦しいは、不快じゃなくて……」
暁の声が途切れた。矛盾している。苦しいのに不快ではない。暁の論理では説明できない。池袋の東口に西武があったように。暁の論理が解けない問題が、内在している。
「……なんなんですか、これは」
暁は困り果てて桐生を見上げた。目が涙に滲んでいる。暁は泣きそうなことに気づいていない。ただ、視界がぼやけているだけ。暁の頬を、決壊した涙が一筋流れた。
暁は泣いていた。暁の中で処理しきれないものが溢れて、涙という形で暁の外に出てきている。しかし、自分で気づいてはいない。
「暁。泣いてるよ」
桐生の穏やかな声とゆるりと撫でる手が降ってきた。暁は首を傾げた。
「……泣いて?」
暁はなぜいま涙が出ているのか理解できない。前に目が覚めた時に桐生がいなくて泣いた時も、わからなかった。
「目から涙、出てるけど」
暁は手袋をはめた手で自分の頬に触れる。濡れている。手袋の指先に水分がついた。暁の目から涙が流れている。
「痛くない、です。でもここが苦しい」
暁は胸を押さえたまま言った。痛みはない。ただ、胸の内側で何かが暁を圧迫している。
「暁」
桐生は鞄を置き、暁の前に膝をついた。ソファに座っている暁と目線を合わせる高さに。暁の目の前に桐生の顔がある。桐生の目が暁を見ている。以前よりも近い距離で。暁はその目の中に何があるのかを読もうとしたが、読めない。ただ、桐生の目の温度が──暁に向けられている温度が、いつもと同じであることだけはわかった。暁が泣いていても、暁が震えていても、桐生の目の温度は変わらない。安定している。
「なんで返せないと思うの?」
桐生が訊いた。ゆっくりと穏やかな声は暁を責めていなかった。非対称な系を見つけたときの声に似ている。一方向にしかエネルギーが流れない系。暁は桐生から受け取るが、桐生には返さない。なぜ一方通行なのか。純粋な疑問。
「……触ってはいけないから」
暁の答えは明確だ。
「誰が決めたの、それ」
「施設で」
暁はそう答えて、止まった。
──施設で。暁のルールの根拠は施設だ。施設が暁に「触れてはいけない」と刷り込んだ。暁はそれを十八年間守っている。しかし、いま、桐生に「誰が決めたの」と訊かれて、暁は自分のルールの根拠が施設にしかないことに気づいた。施設以外の根拠がない。暁自身がそのルールを検証したことがない。桐生が貸してくれた本に書いてあった、パラダイムシフト。正しいと信じていた枠組みが覆る瞬間。
「……施設が、正しいかどうかは……検証していません」
暁の声は自信がなく小さい。涙がまだ頬を流れている。暁は涙を拭わなかった。暁自身、自分の言葉に驚いている。施設のルールを「検証していない」と言ったのは初めてだ。暁の中で、十八年間疑いもしなかった土台にヒビが入った音がする。その音は暁にだけ聞こえていた。
桐生は黙ったままだった。暁が自分で考え、決めるのを桐生は待っている。暁にはそう見えた。桐生がいつも暁にしてきたことと同じだ。手を差し出して、暁が来るのを待つ。追わない。押しつけない。
桐生が黙って暁の頭に撫でる手を乗せ直した。いつもと同じ手。いつもと同じ温度。いつもと同じ重さ。暁の頭頂部から後頭部にかけて、ゆっくりと動く。
「泣くことは悪いことじゃない」
桐生はそれだけ言った。
暁は泣いた。声は出ない。ただ涙が頬を流れて、手袋の上に落ちて、膝の上の本を濡らした。桐生の手が暁の頭を撫でている。暁の手袋をはめた手は膝の上にある。桐生に触れていない。触りたいのに触れていない。その距離は縮まらない。
それでも暁が泣き止むまで、桐生はそばにいた。手の温度は変わらない。声の温度も変わらなかった。暁が泣いていても、暁が震えていても、桐生は同じ温度で暁の頭を撫で続ける。桐生の手は安定している。暁はその安定を、頭皮を通して受け取っていた。
長い時間をかけて泣き止んだ暁は、ソファに座ったまましばらく動かなかった。
桐生の手はまだ暁の頭の上にある。暁が泣いている間もずっと撫でていた手が、泣き止んだ後もそのまま動いている。同じ温度。同じ速度。暁はその安定を頭皮を通して受け取りながら、自分の涙で濡れた手袋を見ていた。
「桐生さん」
「ん」
ぽつりと呟くように呼んだ声に、普段と変わらない声が返ってくる。
「……涙は、なぜ出るんですか」
暁は訊いた。涙という現象は知っている。しかし、自分の身体がなぜそれが出力したのかの因果関係を暁は把握できていなかった。
「感情がいっぱいになると出るんだよ。コップに水入れすぎると溢れるみたいに」
「オーバーフロー」
「そう。暁のコップはいっぱいになったんだよ」
暁はその比喩を受け取り、自分の知っている言葉に置き換えた。オーバーフロー。計算機科学で言えば、バッファの容量を超えたデータが溢れ出すこと。暁の中に蓄積されていた何か、暁には名前のつけられないものが暁の容量を超えて、涙として外に出た。暁はその構造を理解した。
「……コップの容量を増やすことはできますか」
涙がオーバーフローで起きる現象であれば明確なエラーで、対応をしなければならない。
「増やすっていうか、出す場所を作るんだよ。溜め込まないで出していく」
「出す場所」
「言葉とか、行動とか。泣くのも一つだよ」
暁はその言葉を受け取った。出す場所。暁には出す場所がなかった。施設にいた頃、暁の中に蓄積されるものはなかったから、出す場所は必要なかった。いま暁の中には、桐生と一緒にいるようになってから、蓄積されていくものがある。温度の記憶。声の記憶。撫でられた場所の記憶。金平糖の味の記憶。足りないという信号。返したいという欲求。それらが全部暁の中に溜まっていて、出口がない。だからコップから溢れた。
「桐生さん」
「ん?」
「……僕は、これから──もっとコップがいっぱいになりますか」
暁の声は小さくなっているが、口調はかろうじて保っている。そもそも暁は乱暴な言葉も砕けた言葉もほとんど知らない。暁は自分が何を訊いているのかわかっていなかった。
「コップがいっぱいになる」が何を意味するのか、暁は理解しているようでいて理解していない。「感情」という単語が暁には抽象的過ぎた。しかし、本当に訊きたかったのは別のことだ。これからも桐生と一緒にいたら、もっと感情が溜まっていくのか。もっと涙が出るのか。もっと苦しくなるのか。暁の語彙ではそこまで組み立てられない。「コップがいっぱいになりますか」が暁の精一杯だった。
桐生の手が暁の頭の上で止まった。止まったのは一瞬。すぐにまた動き出した。しかし、その一瞬の停止を暁は検知していた。桐生が暁の質問に何かを感じたのだろう。何を感じたのかは暁には読めない。
「なるかもね。でも溢れたら出せばいい。泣いてもいい。言葉にしてもいい。暁が出す場所を見つければいいんだよ」
「……出す場所は、桐生さんですか」
暁はそう訊いた。暁にとって純粋な疑問だった。コップが溢れたとき、暁の隣にいたのは桐生である。涙を受け取ったのは桐生だった。暁にとっての「出す場所」は、いまのところ桐生しかいない。暁はその事実を述べた。
桐生の手が、また一瞬だけ止まった。今度は少し長い停止。暁はその変化を検知して、桐生の顔を見上げた。桐生の目が暁を見ている。暁に向けられている目の中に、暁がまだ名前をつけられないものがある。以前の「観察者の光」とは違う。神保町の古書街で暁の口元が動いたときに変わったもの。暁にはその正体がわからないままだ。
「……そうだね。俺でよければ」
桐生は静かに答えた。声の温度は変わらなかった。安定している。暁はその安定を受け取って、少しだけ、ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。
暁の自戒にヒビが入ったまま、暁はその夜を越えた。ヒビの向こうに何があるのか、暁にはまだ見えない。ただ、「検証していない」という言葉と、「出す場所は桐生さんですか」という問いが、暁の中に並んで残っていた。暁の分析が暁の自戒を疑い始めている。暁の身体が暁の出力を求め始めている。そのどちらもが、施設にいた頃の暁には存在しなかったものだった。




