第98話「おかえり」
「おかえり。」
「ただいま。」
その二つの言葉が交わされた瞬間。
夜明けの庭を満たしていた静寂は、優しい温度を帯びた。
朝焼け色の花々が揺れる。
風のないはずの世界に、確かなぬくもりが生まれていた。
アルシアは泣いていた。
長い旅の果てに。
怪物と呼ばれ。
名前を忘れ。
帰る理由さえ見失いかけた旅人は。
ようやく、帰ることができた。
『……ごめんなさい。』
アルシアは震える声で言った。
『ほんとうに。』
『ごめんなさい。』
『やくそくを。』
『まもれなかった。』
アマネは静かに首を横に振った。
「ううん。」
『でも。』
『わたし。』
『忘れてしまった。』
『あなたの名前も。』
『歌も。』
『約束も。』
『だから。』
『謝らないと。』
アマネは、少し困ったように笑った。
それはソラが何度も見てきた笑顔に似ていた。
泣きそうなのに。
相手を安心させようとする笑顔。
「ねえ。」
「アルシア。」
「約束ってね。」
アマネは花を一輪摘みながら続けた。
「守れなかったら、全部終わりなのかな。」
『……。』
『ちがうの?』
「違うよ。」
「少なくとも。」
「私はそう思わない。」
アマネはアルシアを見つめる。
「だって。」
「あなた、帰ってきた。」
「遅れたけど。」
「忘れちゃったけど。」
「ちゃんと私のところまで来てくれた。」
そして。
少し照れくさそうに笑った。
「それだけで十分だよ。」
アルシアは言葉を失った。
『……。』
『でも。』
『わたしは。』
『たくさんのものを、なくした。』
「うん。」
「私も。」
アマネは頷いた。
「待ってる間に。」
「いっぱい失った。」
「悲しかった。」
「寂しかった。」
「怒ったこともあった。」
「なんで帰ってこないのって思った。」
ソラは息を呑んだ。
あまりにも正直な言葉だった。
優しいだけじゃない。
綺麗ごとだけじゃない。
それでも。
「でも。」
「それでも。」
アマネは笑った。
「帰ってきてくれたから。」
「嬉しい。」
『……っ。』
アルシアの涙が止まらなかった。
『ありがとう。』
『ありがとう。』
『ありがとう。』
ソラはその光景を見つめていた。
胸が熱い。
苦しいくらいに。
温かい。
火星に帰った日を思い出す。
病室の白い天井。
ミナトの怒鳴り声。
レイの「まだだ」。
SPICAの後輩たちの泣き顔。
宇宙港を埋め尽くした人々。
そして。
「おかえり。」
という声。
「……。」
ソラは静かに涙を拭った。
「泣いてるのか。」
隣でレイが言った。
「うん。」
「だめ?」
「別に。」
少し間を置いて。
「君らしい。」
ミナトは鼻をすすった。
「いや。」
「これは。」
「その。」
「目にゴミが。」
「泣いてるじゃん。」
「泣いてない!」
「泣いてる。」
「泣いてない!」
ソラは思わず吹き出した。
笑いながら。
泣いた。
アマネが、そんなソラへ視線を向ける。
「あなた。」
「え?」
「ちゃんと帰ってきた人なんだね。」
ソラは驚いた。
「私?」
「うん。」
「帰れなかった人の気持ちを知ってる。」
「でも。」
「帰ることを諦めなかった。」
アマネは微笑む。
「だから。」
「今、ここにいる。」
ソラは少し考えた。
そして。
照れくさそうに笑った。
「……うん。」
「たくさんの人が。」
「迎えに来てくれたから。」
「素敵だね。」
アマネは言った。
「あなたの帰る場所。」
ソラは頷いた。
火星。
訓練校。
食堂。
SPICA。
ミナト。
レイ。
みんな。
「うん。」
「すごく。」
「大切な場所。」
夜明けの庭には、無数の花が咲いていた。
帰れなかった人たちの願い。
待ち続けた人たちの想い。
そのすべてが、優しく揺れている。
アマネは空を見上げた。
「待つのってね。」
「寂しいよ。」
「でも。」
「いつか帰ってくるって信じられるなら。」
「頑張れる。」
アルシアは小さく頷いた。
『……うん。』
『わたし。』
『もう。』
『ひとりじゃなかった。』
「そうだよ。」
アマネは微笑んだ。
「ずっと。」
「ひとりじゃなかった。」
夜明けの光が差し込む。
花びらが舞う。
その景色は、まるで世界そのものが祝福しているようだった。
ソラは思った。
「おかえり」って。
ただの挨拶じゃない。
「待ってたよ。」
「無事でよかった。」
「また一緒にいよう。」
そんな願いの全部が詰まった言葉なんだ。
そして。
夜明けの庭の奥で。
アマネは静かに口を開く。
「アルシア。」
「うん。」
「まだ。」
「あなたに伝えたいことがあるの。」
アルシアは顔を上げた。
ソラたちもまた、その続きを待った。
長い旅の終わり。
けれど。
本当に大切な言葉は、まだ残されていた。




