第94話「約束の夜明け」
「アルシア。」
その名前が呼ばれた瞬間。
暁の海域を覆っていた漆黒は、静かに揺らいだ。
星を喰らう怪物。
夜明けを奪う災厄。
そう恐れられていた存在は。
ただ、自分の名前を忘れてしまった旅人だった。
『……アルシア。』
『わたしは。』
『アルシア。』
その声はまだ震えていた。
けれど。
もう「怪物」のものではなかった。
DENEBが報告する。
《対象の崩壊率、二十八パーセントまで低下。》
《記憶核の再構築を確認。》
ミナトが大きく息を吐いた。
「助かった……のか?」
「まだだ。」
レイは静かに言う。
「本人が『約束』と言った。」
「それが何か分からない。」
ソラは通信回線を開いた。
「アルシア。」
「思い出したこと、教えてくれる?」
沈黙。
そして。
『……。』
『だれかと。』
『やくそくをした。』
『よあけのとき。』
『かえる、と。』
「帰る。」
ソラは小さく繰り返した。
『うん。』
『わたしは。』
『かえるって。』
『いった。』
暁の海域の波が揺れる。
星の潮が静かに流れていく。
その光景を見つめながら。
アルシアは少しずつ言葉を紡いだ。
『たびに、でた。』
『いつか、もどるため。』
『たくさんのほしを、みた。』
『たくさんのひとと、であった。』
『でも。』
『ながすぎて。』
『なにもかも、わすれてしまった。』
「……。」
ソラは黙って聞いていた。
帰る場所。
帰る約束。
長すぎる旅。
忘れてしまうほどの孤独。
その痛みを想像して、胸が苦しくなる。
エルドが呟く。
「旅は人を変える。」
「だが。」
「帰る約束だけは。」
「変わってはいけない。」
『でも。』
アルシアの声が震えた。
『わたしは。』
『やくそくを、やぶった。』
『かえれなかった。』
『だから。』
『よあけを、くらった。』
「え?」
ミナトが顔を上げる。
「どういう意味だ?」
リシアが静かに答えた。
『銀花の古い記録です。』
『暁の海域には、帰る場所を見失った旅人が集う。』
『帰ることを諦めた者は、夜明けを拒む。』
『やがて、自らも夜となる。』
沈黙。
ソラはアルシアへ問いかけた。
「諦めちゃったの?」
長い沈黙。
そして。
『……うん。』
『おかえりって。』
『もう、いわれないと、おもった。』
ソラは泣きそうになった。
「バカだなぁ。」
『……。』
『ばか?』
「うん。」
「だって。」
「帰る場所って。」
「待ってる人だけじゃないから。」
アルシアは静かに問い返した。
『……?』
「帰りたいって思う気持ち。」
「それ自体が。」
「帰る場所を作るんだよ。」
「私も。」
「帰れなくなった。」
「でも。」
「諦めなかった。」
火星。
ミナト。
レイ。
SPICAの仲間たち。
「おかえり」の声。
「また明日」の約束。
ソラは笑った。
「だから。」
「今からでも遅くない。」
「約束、守りに行こう。」
『……。』
『いまからでも?』
「うん。」
「約束って。」
「破ったら終わりじゃない。」
「もう一回、守ろうとすることもできるから。」
レイが静かに言った。
「君は。」
「本当に甘い。」
「えへへ。」
「だが。」
「嫌いじゃない。」
ミナトはため息をつく。
「結局そうなるんだな。」
「うん。」
「だって。」
ソラは笑った。
「まだ夜明けは来てるから。」
暁の海域の向こう。
沈みかけていた光が。
少しずつ戻ってくる。
青と金の波が輝きを取り戻していく。
『……。』
『かえりたい。』
アルシアの声は、もう震えていなかった。
『こんどこそ。』
『やくそくを、まもりたい。』
ソラは頷いた。
「じゃあ。」
「一緒に行こう。」
『……いいの?』
「もちろん。」
「だって。」
「私は、宇宙の続きを見に来たんだから。」
終焉を越えた少女は。
怪物だった旅人の手を取る。
約束は、破られることもある。
忘れられることもある。
それでも。
もう一度、結び直すことはできる。
そして。
アルシアの瞳の奥に。
もうひとつの記憶が浮かび上がる。
夜明けの中で。
誰かが笑っていた。
『……アマネ。』
その名前を口にした瞬間。
暁の海域の最果てで。
新たな光が灯った。




