第93話「呼びかける声」
「……アル。」
かすれた声。
暁の海域に浮かぶ巨大な影――ノクス・エクリプスの中で、その音だけが何度も繰り返されていた。
『……アル。』
『アル……。』
『……。』
『つづきが、でてこない。』
《崩壊率、六十一パーセント。》
DENEBの報告が艦橋に響く。
《記憶核の自己崩壊が加速しています。》
「まずいな……。」
ミナトは歯を食いしばった。
「このままじゃ、本当に消える。」
ノクターンの船長エルドは静かに目を閉じた。
「誰かの名前を忘れることはある。」
「だが。」
「自分の名前を忘れるのは。」
「それ以上に恐ろしい。」
ソラは窓の向こうを見つめた。
星を喰らう怪物。
恐れられた存在。
だけど今は。
ただ迷子になった旅人にしか見えなかった。
「ねえ。」
ソラは通信を開く。
「あなたに歌ってくれた人。」
「どんな声だった?」
沈黙。
そして。
『……やさしかった。』
『あたたかかった。』
『わたしが。』
『ひとりじゃないと、おもえた。』
「男の人?」
『……。』
『わからない。』
「女の人?」
『……わからない。』
「家族?」
『……。』
『でも。』
『たいせつ。』
「そっか。」
ソラは頷いた。
「十分だよ。」
リシアが静かに言った。
『銀花には古い教えがあります。』
『名前は呼びかけの中に宿る。』
『だから。』
『誰かが呼び続ける限り、完全には失われない。』
「呼び続ける……。」
ソラは呟く。
そして。
ふと笑った。
「だったら。」
「みんなで呼んでみよう。」
「は?」
ミナトが目を瞬かせる。
「いや、待て。」
「何をだ?」
レイが問う。
「分からない。」
「でも。」
ソラは振り返った。
「この人、ずっと一人だったんだよ。」
「だったら。」
「誰かの声が必要だと思う。」
沈黙。
そして。
エルドが小さく笑った。
「……まったく。」
「無茶な娘だ。」
ノクターンの通信網が開かれる。
アステリア。
ノクターン。
銀花。
旅人たち。
すべての回線が繋がった。
「聞こえる?」
ソラは優しく呼びかける。
「あなたは一人じゃないよ。」
「だから。」
「思い出して。」
「帰りたい場所を。」
「大切だった人を。」
「あなた自身を。」
『……。』
『……。』
巨大な影が揺れる。
エルドが口を開いた。
「帰ってこい。」
「旅は終わっていい。」
「休んでいい。」
リシアは静かに言った。
『あなたは、誰かに愛されていました。』
『だから、その記憶は消えません。』
ミナトは頭をかきながら呟く。
「その。」
「名前、思い出せ。」
「あと。」
「消えるな。」
「せっかく話せたんだから。」
レイは短く言った。
「まだ終わっていない。」
「戻ってこい。」
ソラは涙を浮かべながら笑った。
「おかえりって言いたいんだ。」
「だから。」
「帰ってきて。」
暁の海域が震える。
ノクス・エクリプスの身体を覆う漆黒の中に。
青い光が広がった。
ひとつ。
またひとつ。
まるで星空のように。
『……こえ。』
『きこえる。』
『あたたかい。』
『なつかしい。』
《崩壊率、停止。》
DENEBが告げた。
《記憶核の再活性化を確認。》
「止まった!」
ミナトが叫ぶ。
「本当に!?」
巨大な影が揺れる。
苦しむように。
泣くように。
そして。
『……アル。』
『アル……。』
『アル……シア。』
沈黙。
誰も息をしなかった。
『……。』
『わたしの、なまえ。』
『アルシア。』
ソラの頬を涙が伝った。
「……思い出した。」
『アルシア。』
『そう。』
『あのひとが。』
『よんでくれた。』
『わたしの、なまえ。』
青い光が広がる。
怪物の身体を覆っていた漆黒が、少しずつ剥がれ落ちていく。
夜明けを喰らうもの。
その正体は。
長い旅の中で、自分の名前を忘れてしまった存在だった。
『……ありがとう。』
『わたしは。』
『アルシア。』
『かえりたかった。』
『わすれたく、なかった。』
ソラは泣きながら笑った。
「うん。」
「おかえり。」
暁の海域に、静かな夜明けの光が差し込む。
それは怪物を照らす光ではなく。
名前を取り戻した旅人を迎える光だった。
終焉を越えた少女は知る。
誰かの名前を呼ぶことは。
「ここにいていい」と伝えることなのだと。
そして。
アルシアはゆっくりと顔を上げた。
その瞳の奥に。
新たな記憶の扉が開き始める。
『わたしは。』
『まだ、思い出さなければならない。』
『あの約束を。』




