第92話「忘れられた名前」
「思い出そう。」
ソラの言葉は、暁の海域に静かに広がった。
星喰いの舟。
探査艦。
銀花の旅人たち。
そして。
夜明けを喰らうもの――ノクス・エクリプス。
誰もが、その巨大な影を見つめていた。
『……おもいだせない。』
かすれた声。
『かえりたい。』
『でも。』
『わたしが、だれだったのか。』
DENEBが警告を続ける。
《対象内部崩壊率、三十八パーセント。》
《記憶核の消失を確認。》
《このままでは存在維持不能。》
「急がないと。」
ソラは拳を握った。
「名前。」
「何か覚えてない?」
『なまえ……。』
巨大な影が揺れる。
夜明けの波が乱れた。
『……。』
『わからない。』
エルドが低く呟く。
「名前を失った旅人か。」
「それは。」
「帰る場所を失うより辛い。」
ソラは首を傾げた。
「どうして?」
「名前は。」
エルドは静かに言った。
「誰かに呼ばれるためのものだからだ。」
「……。」
「名前を失えば。」
「自分が誰だったのかも。」
「誰を待っていたのかも。」
「分からなくなる。」
ソラは掌の種を握る。
銀花の願い。
「行ってらっしゃい。」
「おかえり。」
そして。
「名前。」
「ねえ。」
ソラは優しく問いかけた。
「好きだったものは?」
『……。』
「景色でも。」
「食べ物でも。」
「誰かでも。」
「小さいことでいい。」
長い沈黙。
そして。
ノクス・エクリプスの声が揺れた。
『……うた。』
「え?」
『うた。』
『だれかが。』
『うたっていた。』
『やさしい、こえ。』
リシアが目を見開いた。
『歌。』
『銀花では、旅立ちの際に歌を贈ります。』
エルドも頷く。
「ノクターンでもそうだ。」
「帰る者へ。」
「旅立つ者へ。」
「歌を歌う。」
ソラは目を閉じた。
火星。
訓練校。
誰かの鼻歌。
食堂のざわめき。
帰還式で流れた音楽。
「……歌。」
「覚えてる?」
『……。』
『ことばは。』
『きえている。』
『でも。』
『あたたかい。』
ノクス・エクリプスの身体に、青い光が浮かぶ。
星を喰らう漆黒の中。
小さな灯り。
『だれかが。』
『わらっていた。』
『おかえり、と。』
ソラの目から涙がこぼれた。
「うん。」
「きっと。」
「すごく大事な人だったんだね。」
『……だいじ。』
『だいじ。』
『だから。』
『かえりたかった。』
DENEBの警告音が強くなる。
《崩壊率、五十二パーセント。》
《記憶核の分解が進行。》
ミナトが叫ぶ。
「時間がない!」
「でも!」
「名前が分からない!」
ソラは前へ出た。
「ねえ。」
「あなた。」
「本当に名前、忘れちゃった?」
沈黙。
暁の海域が静かに揺れる。
そして。
かすれた声。
『……。』
『よばれていた。』
『たしか。』
『……。』
巨大な影が震える。
星の光が散る。
苦しそうな声。
『……ル。』
『……アル。』
『……アル……。』
「アル?」
ソラは息を呑んだ。
「アル、何?」
『……。』
『ごめんなさい。』
『おもいだせない。』
その言葉に。
ソラは泣きそうになった。
「謝らなくていい。」
「忘れることってあるから。」
「でも。」
「思い出したいよね。」
『……うん。』
『わたしは。』
『だれかに。』
『よばれたかった。』
エルドは静かに目を閉じた。
リシアは胸に手を当てた。
レイは何も言わない。
ただ。
ソラの隣に立つ。
ソラは笑った。
涙を浮かべながら。
「じゃあ。」
「一緒に探そう。」
「あなたの名前。」
「あなたの帰る場所。」
ノクス・エクリプスの青い光が揺れる。
まるで。
泣いているみたいだった。
夜明けを喰らう怪物。
帰る場所を忘れた旅人。
そして。
忘れられた名前。
終焉を越えた少女は知る。
名前とは、ただの記号ではない。
誰かに呼ばれた記憶。
誰かと繋がっていた証なのだと。
暁の海域の波は静かに揺れる。
その彼方で。
失われた名前が。
少しずつ、目を覚まし始めていた。




