第91話「怪物の願い」
「……かえりたい。」
その言葉は、暁の海域を静かに揺らした。
夜明けを喰らうもの。
ノクス・エクリプス。
銀花の伝承に語られる災厄。
帰還した者のほとんどいない怪物。
その最初の願いは――。
「帰りたい。」
だった。
艦橋は静まり返っていた。
誰もがモニターを見つめている。
巨大な黒い影。
星を呑み込むほどの存在。
その姿と、幼子のような願いが結びつかなかった。
「……本当に。」
ミナトが呟く。
「帰りたいって言ったのか。」
DENEBが答える。
《通信解析完了。》
《意味一致率九十八・七パーセント。》
《対象は帰還願望を訴えています。》
エルドは深く目を閉じた。
「そんなはずはない。」
「ノクス・エクリプスは。」
「多くの船を沈めた。」
「多くの旅人を失わせた。」
「怪物だ。」
ソラは窓の向こうを見る。
巨大な影。
夜明けを削る漆黒。
それでも。
「……寂しそう。」
そう思った。
レイが静かに言う。
「同情するな。」
「え?」
「理解しようとすることと。」
「警戒を解くことは違う。」
ソラは頷いた。
「うん。」
「分かってる。」
通信を開く。
「聞こえる?」
「私はアマミヤ・ソラ。」
「あなたは。」
「どこに帰りたいの?」
ノイズ。
沈黙。
そして。
かすれた声。
『わからない。』
ソラは目を見開いた。
『……おぼえていない。』
『でも。』
『かえりたい。』
ミナトが息を呑む。
「帰る場所を忘れたのか……。」
リシアは震える声で言った。
『銀花にも似た伝承があります。』
『旅が長すぎると。』
『帰る理由だけが残ることがある。』
ノクス・エクリプスは動かない。
ただ。
巨大な身体を揺らしながら。
夜明けの光を飲み込んでいる。
「どうして。」
ソラは問いかけた。
「どうして夜明けを喰べるの?」
『さがしている。』
『ひかりのなかに。』
『おぼえているものを。』
『かえるばしょを。』
沈黙。
誰も言葉を発せなかった。
エルドは呟く。
「……帰れなかった旅人。」
「いや。」
「帰り方を忘れてしまった旅人か。」
ソラは掌の種を握った。
銀花から託された願い。
「行ってらっしゃい。」
そして。
「おかえり。」
「ねえ。」
ソラは優しく言った。
「帰る場所って。」
「座標じゃないんだよ。」
『……?』
「私も、一回帰れなくなった。」
「でも。」
「誰かが待っててくれた。」
「だから帰れた。」
『まって……いた。』
「うん。」
「帰ってきてって言ってくれる人。」
「おかえりって言ってくれる人。」
「そういう場所。」
巨大な影が揺れた。
夜明けを喰らうもの。
その漆黒の表面に、微かな青い光が浮かぶ。
『……おかえり。』
『……。』
『わからない。』
『でも。』
『あたたかい。』
ミナトは呟いた。
「感情記録の再生……?」
リシアは静かに頷く。
『記憶の種が反応している。』
エルドはソラを見つめた。
「君は。」
「怪物にまで話しかけるのか。」
ソラは困ったように笑った。
「だって。」
「帰りたい気持ちは分かるから。」
夜明けの海が静かに揺れる。
ノクス・エクリプスは、少しだけ小さく見えた。
怪物ではなく。
迷子のように。
『……こわい。』
かすれた声。
『わすれるのが。』
『ひとりなのが。』
ソラの胸が締めつけられる。
「うん。」
「怖いよね。」
「私も怖かった。」
「でも。」
笑った。
「一人じゃなかった。」
『……。』
『いっしょ。』
『……?』
「うん。」
「少なくとも今は。」
「私たちがいる。」
巨大な影の動きが止まる。
夜明けを喰らうことも忘れたように。
ただ。
静かに波の中に浮かんでいた。
しかし。
DENEBの警告が響く。
《警告。》
《対象内部に高エネルギー反応。》
《不安定化を確認。》
ミナトが顔色を変える。
「待て。」
「まさか。」
リシアの瞳が揺れた。
『記憶崩壊。』
『帰る場所を失い続けた結果。』
『ノクス・エクリプスは。』
『自壊を始めています。』
ソラは息を呑んだ。
ようやく願いを口にした怪物。
帰りたいと願った旅人。
その存在そのものが、消えようとしていた。
「そんな。」
「やっと。」
「話せたのに。」
『……かえりたい。』
『でも。』
『おもいだせない。』
夜明けの海が揺れる。
巨大な影が軋む。
星々の光が吸い込まれていく。
ソラは前へ出た。
「思い出そう。」
「一緒に。」
終焉を越えた少女は。
怪物の願いに手を伸ばす。
それが救いになるのか。
それとも別れになるのか。
まだ誰にも分からない。
だが。
「帰りたい」という願いだけは。
人も。
銀花も。
怪物も。
同じだった。




