第90話「夜明けを喰らうもの」
ノクターンの食堂には、穏やかな時間が流れていた。
湯気の立つスープ。
異なる種族たちの笑い声。
故郷を失った者たちが寄り添って作った、新しい日常。
それは、戦いの記憶に疲れたソラの心を静かに癒していた。
「美味しかった。」
「だろう。」
エルドは満足そうに頷く。
「ちなみに何のスープなんですか?」
「聞かない方が幸せなこともある。」
「やっぱり怖い!」
ミナトは端末を操作しながら呟いた。
「でも。」
「本当に不思議だ。」
「帰れなかった人たちが集まって。」
「こうして笑ってる。」
レイは短く答える。
「生きているからだ。」
その時だった。
『警報。』
静かな船内に、鋭いアラートが響く。
「……。」
「……またか。」
ソラが天井を見上げる。
ミナトが叫んだ。
「お前がいると何か起きる!」
「私のせいじゃない!」
ノクターン全域に緊張が走る。
エルドの表情が変わった。
「全員、持ち場へ。」
「来たか。」
「何が?」
ソラが問う。
エルドは窓の外を見た。
暁の海域。
その青と金の波の向こう。
夜明けの光が、ゆっくりと消えていく。
「……夜明けを喰らうもの。」
暁の海域の彼方。
巨大な影が現れた。
最初は雲のように見えた。
だが違う。
それは、生きていた。
星々を飲み込む。
光を吸い込む。
夜明けそのものを削り取るように進む。
漆黒の巨獣。
DENEBが解析を開始する。
《対象、既知データなし。》
《銀花記録との部分一致。》
《危険度……測定不能。》
リシアの声が震えた。
『伝承です。』
『暁の海域の終わりに現れる存在。』
『夜明けを喰らうもの。』
『名を――』
『ノクス・エクリプス。』
「また測定不能!?」
ミナトが悲鳴を上げる。
「もう少し具体的な情報はないのか!」
『ありません。』
『遭遇記録のほとんどが途絶えています。』
ソラは窓の外を見つめた。
巨大な影。
なのに。
どこか寂しそうだった。
まるで。
何かを探しているように。
「……。」
レイが言う。
「敵か。」
ソラはすぐには答えなかった。
「分からない。」
「でも。」
「最初から敵だって決めたくない。」
エルドは静かに頷いた。
「昔。」
「私もそう思った。」
「え?」
「だが。」
「対話を試みた船は、帰らなかった。」
沈黙。
ノクターンの旅人たちも怯えていた。
それでも。
逃げようとはしない。
「どうする。」
レイが尋ねる。
ソラは拳を握った。
「話してみたい。」
「危険だ。」
「うん。」
「でも。」
「創造主とも話せた。」
「銀花とも出会えた。」
「だから。」
「今回も、ちゃんと知りたい。」
ミナトは顔を覆った。
「止めても行くんだろ。」
「うん。」
「知ってた。」
アステリアとノクターンの通信回線が接続される。
巨大な影へ向けて。
通信送信。
「こちら、探査艦アステリア。」
「聞こえますか。」
「私はアマミヤ・ソラ。」
「あなたは――」
沈黙。
返答はない。
巨大な影は進み続ける。
夜明けの光を飲み込みながら。
「……。」
ソラは諦めなかった。
「怖いなら。」
「無理に話さなくてもいい。」
「でも。」
「もし寂しいなら。」
「私は聞くよ。」
その瞬間。
影が止まった。
艦橋の空気が凍る。
DENEBが報告する。
《対象、進行停止。》
《通信反応を確認。》
ノイズ。
雑音。
そして。
かすれた声。
『……かえる。』
ソラは息を呑んだ。
「え?」
『……かえりたい。』
夜明けを喰らうもの。
ノクス・エクリプス。
暁の海域で恐れられていた存在。
その最初の言葉は。
怒りでも。
憎しみでもなく。
『……かえりたい。』
だった。
エルドは目を見開いた。
「そんな……。」
リシアは震える。
『記録にない。』
ソラは静かに前へ出た。
「……うん。」
「帰りたいんだね。」
夜明けを喰らう巨獣は。
ただ、帰る場所を探していた。
終焉を越えた少女は知る。
恐れられていた怪物にも。
「帰りたい」という願いがあることを。
そして。
物語は新たな問いへ辿り着く。
もし怪物にも帰る場所があるのなら。
人は、その手を取れるのか。




