第89話「帰る場所」
暁の海域。
星々の記憶が波となって揺れる場所。
その海の上を漂う巨大な黒い船――
星喰いの舟。
それは、帰れなかった者たちの船だった。
『こちらノクターン。』
『アステリアの接舷を許可する。』
低く穏やかな声が響く。
ミナトは顔をしかめた。
「本当に行くのか?」
「罠の可能性もある。」
レイが短く告げる。
「ある。」
「じゃあ!」
「だが。」
レイはソラを見る。
「行くだろう。」
ソラは困ったように笑った。
「……うん。」
「だって。」
「気になるし。」
「知りたいし。」
「放っておけない。」
ミナトは頭を抱えた。
「その性格、本当に変わらないな……。」
「褒めてる?」
「褒めてない。」
「でも嫌いじゃない。」
「褒めてるじゃん。」
接舷。
アステリアとノクターンを繋ぐ通路が展開される。
静かな金属音。
そして。
ソラたちは、星喰いの舟へ足を踏み入れた。
「……。」
船内は、驚くほど静かだった。
古い。
だが荒れてはいない。
壁には見たこともない文字。
無数の写真。
絵。
子どもの落書き。
折れた玩具。
誰かの手紙。
「生活してる。」
ソラは呟いた。
「旅人の船じゃなくて。」
「家だ。」
レイも周囲を見回す。
「帰る場所を失った者の。」
「ようこそ。」
声がした。
現れたのは、一人の老人だった。
白い髪。
深い皺。
だが、その目は星のように澄んでいる。
「私はエルド。」
「ノクターンの船長だ。」
ソラは頭を下げた。
「アマミヤ・ソラです。」
「探査艦アステリア所属。」
「よろしくお願いします。」
エルドは少し目を細めた。
「礼儀正しいな。」
「えへへ。」
「宇宙を救った少女には見えん。」
「やめてください。」
「恥ずかしいので。」
エルドは笑った。
「そうか。」
「なら、ただの旅人として歓迎しよう。」
ノクターンの中を案内される。
そこには、多くの人々がいた。
人間に似た者。
銀花に近い存在。
羽を持つ者。
水のような身体を持つ者。
様々な旅人たち。
「みんな。」
「帰れなかった人たち?」
ソラが尋ねる。
エルドは頷いた。
「そうだ。」
「宇宙の終わりに取り残された者。」
「故郷を失った者。」
「帰る道をなくした者。」
「いろいろいる。」
「……。」
ソラは胸が痛んだ。
帰れない。
それがどれほど怖いことか。
自分は知っている。
「でも。」
エルドは微笑んだ。
「ここは不幸な船じゃない。」
「え?」
「帰れなくても。」
「生きていける。」
「笑える。」
「誰かと食事もできる。」
「だから。」
「ここを帰る場所にした。」
ソラは目を見開いた。
「帰る場所……。」
エルドは壁の写真を見つめた。
「故郷とは土地ではない。」
「星でもない。」
「誰かが待っている場所だ。」
「誰かが『おかえり』と言ってくれる場所だ。」
ソラは静かに俯いた。
火星。
訓練校。
ミナト。
レイ。
SPICAの仲間たち。
「おかえり。」
あの声。
「……うん。」
小さく頷く。
「分かる。」
食堂へ案内される。
そこでは、旅人たちが談笑していた。
違う種族。
違う文化。
違う言葉。
それでも。
同じ食卓を囲んでいる。
「食べるか?」
エルドが差し出したのは、湯気の立つスープだった。
「これ。」
「何のスープですか?」
「秘密だ。」
「怖い。」
「安心しろ。」
「多分死なん。」
「多分!?」
ミナトが吹き出した。
レイは静かにスプーンを取る。
「食べるのか。」
「毒ならお前も死ぬ。」
「合理的だな。」
ソラはスープを口にした。
「……。」
「どうだ?」
エルドが尋ねる。
ソラは笑った。
「美味しい。」
その瞬間。
船内に小さな笑い声が広がった。
帰れなかった人たち。
でも。
ここには確かに日常があった。
悲しみの先に作られた居場所。
ソラは思った。
「帰る場所って。」
「最初からあるものじゃないのかも。」
「誰かと作るものなのかもしれない。」
エルドは静かに頷いた。
「そうだ。」
「そして。」
「君たちには、帰る場所がある。」
「だから。」
「必ず帰れ。」
暁の海域の波が揺れる。
ノクターンの灯りが、静かに星の海を照らしていた。
終焉を越えた少女は知る。
帰る場所とは、星の名前ではない。
座標でもない。
「おかえり」と言い合える誰かの存在なのだと。
そして。
食堂の窓の外。
暁の海域のさらに先で。
巨大な影が、静かに動いた。
誰にも気づかれないまま。
新たな夜明けの気配を連れて。




