第87話「暁の海域」
「暁の海域。」
その名は、銀花文明の記録にだけ残されていた。
銀河地図の外側。
既知宇宙の果て。
誰も辿り着いたことのない場所。
そして――。
『夜明けの前に、最も多くの星が沈む海。』
そう記されていた。
アステリア艦橋。
「嫌な予感しかしない。」
ミナトが頭を抱えた。
「名前がもう危険だ。」
「でも。」
ソラは航路図を見つめる。
「綺麗な名前だよ。」
「危険と綺麗は両立する。」
レイが淡々と言う。
「否定できない……。」
銀花の案内役、リシアが静かに説明を続けた。
『暁の海域は、かつて多くの旅人が目指した場所です。』
『ですが。』
『帰還した者はほとんどいません。』
「やっぱり危険じゃないか!」
ミナトが叫ぶ。
ソラは頬をかく。
「でも。」
「帰ってきた人もいるんだよね?」
『はい。』
『そして彼らは、皆同じことを言いました。』
リシアの瞳が青く揺れる。
『"それでも行く価値があった"』
沈黙。
艦橋に静かな緊張が広がる。
レイがソラを見る。
「どうする。」
「……。」
ソラは窓の外を見つめた。
銀花の都。
記憶樹。
願いの庭。
受け取った小さな種。
「行きたい。」
ミナトは即座に返す。
「知ってた!」
「だって。」
ソラは笑った。
「続きを見たいし。」
「その理由で宇宙の果てまで行くな!」
アステリアは出航準備に入る。
銀花たちは静かに見送っていた。
願いの庭。
リシアはソラへ歩み寄る。
『恐くありませんか?』
「恐いよ。」
ソラは正直に答える。
「新しい場所はいつだって恐い。」
「でも。」
掌の中の種を見る。
「行ってらっしゃいって言われたから。」
『……。』
リシアは小さく微笑んだ。
『では。』
『行ってらっしゃい。』
「うん。」
「行ってきます。」
アステリア発進。
銀花の花弁が静かに開く。
それはまるで、宇宙そのものが見送っているようだった。
『重力航法機関、起動。』
『未踏宙域航路、固定。』
『目的地、暁の海域。』
カウントダウン。
十。
九。
八。
ソラは席に座る。
戦場へ向かうときとは違う鼓動。
不安。
期待。
高揚。
全部が混ざっていた。
「ねえ。」
「なんだ。」
レイが振り返る。
「また帰ってこれるかな。」
少しの沈黙。
そして。
「帰る。」
「即答だ。」
「帰れ。」
「命令?」
「約束だ。」
ソラは笑った。
「うん。」
「約束。」
三。
二。
一。
アステリアは加速する。
銀花文明を離れ。
未知の海へ。
窓の外。
銀色の花々が遠ざかっていく。
その光は、最後まで見送ってくれていた。
ミナトが小さく呟く。
「……平和な探査のはずだったんだけどな。」
「今も平和だよ。」
ソラは笑う。
「ちょっと危ないだけ。」
「その基準がおかしい!」
艦橋に笑い声が広がった。
終焉を越えた人々の笑い声。
恐怖を知っているからこそ生まれる、柔らかな音。
そして。
数時間後。
DENEBが静かに告げた。
《前方に重力異常を確認。》
《未登録宙域に到達。》
《暁の海域、観測開始。》
窓の外に広がっていたのは。
海だった。
宇宙なのに。
星々の光が波のように揺れ。
青と金の輝きが地平線のように続く。
無数の流星が潮のように流れていく。
誰も言葉を発せなかった。
ただ。
その美しさに息を呑む。
ソラは立ち上がった。
瞳を輝かせながら。
「……すごい。」
「本当に。」
「宇宙って。」
「まだこんな景色があったんだ。」
暁の海域。
夜明けの前に、星々が眠る場所。
そして。
その海の彼方には。
まだ誰も知らない「何か」が待っていた。
終焉を越えた少女は、再び未知へ手を伸ばす。
今度は、守るためではなく。
ただ、知りたいから。
続きを見たいから。
そして。
その先に待つ新たな出会いが。
アマミヤ・ソラの旅を、さらに遠くへ導いていく。




