第86話「銀花の願い」
「行ってらっしゃい。」
記憶樹の最上部で結ばれた新しい実。
その小さな青い輝きは、ソラの胸の奥に静かに残っていた。
帰れなかった誰かの願い。
そして、これから旅立つ誰かへの祈り。
その両方を抱いた言葉。
花の都は、今日も穏やかだった。
銀色の花びらが舞い、水路には青い光が流れる。
子どもたちの笑い声。
市場の賑わい。
遠くから聞こえる歌。
戦争を知らない日常の音。
「……いい街だね。」
ソラは広場を歩きながら呟いた。
「そうだな。」
レイが答える。
「静かすぎて落ち着かないけど。」
「君は少し騒がしすぎる。」
「ひどい。」
ミナトは端末を抱えながら歩いていた。
「銀花の技術体系、興味深すぎる……。」
「また始まった。」
「仕方ないだろ!」
「文明そのものが植物型情報ネットワークなんだぞ!」
「寝てる場合じゃない!」
「寝て。」
「嫌だ!」
リシアは、その様子を見ていた。
そして。
不思議そうに尋ねた。
『なぜ、笑うのですか?』
「え?」
ソラは振り返る。
『理解できません。』
『疲れている。』
『悲しい記憶もある。』
『それでも、なぜ笑うのですか?』
ソラは少し考えた。
「……癖かな。」
「癖?」
『習性。』
「うーん。」
首を傾げる。
「たぶん。」
「笑ったほうが、少し前を向けるから。」
リシアは黙り込む。
『銀花は、悲しみを共有します。』
『ですが、笑うことは少ない。』
『忘れてしまう気がするから。』
ソラはゆっくり首を振った。
「笑うのって。」
「忘れることじゃないよ。」
「覚えてるから笑えることもある。」
リシアの瞳が揺れた。
『……覚えているから。』
「うん。」
「泣いたことも。」
「失ったことも。」
「ちゃんと覚えてる。」
「でも。」
空を見上げる。
「その人たちが、ずっと泣いててほしいとは思わないから。」
風が吹く。
銀色の花びらが舞った。
リシアは、初めて少しだけ微笑んだ。
『難しいですね。』
「人間って面倒くさいから。」
『銀花も、そうかもしれません。』
その日の夕方。
リシアはソラたちを、花の都の外れへ案内した。
そこには、小さな庭園があった。
銀色の土。
青い花。
そして。
たくさんの種。
『ここは願いの庭です。』
『旅立つ者へ、種を託します。』
ソラはしゃがみ込む。
「種?」
『はい。』
リシアは一粒の種を手に取った。
小さく。
透明で。
星のように輝いている。
『銀花の願いです。』
『どこかで咲いてほしいという希望。』
『誰かに届いてほしいという祈り。』
『そして。』
『また帰ってきてほしいという約束。』
「……。」
ソラは、その種を見つめた。
「これって。」
「お守りみたい。」
『お守り。』
「うん。」
「大切な人に渡したりするんだ。」
リシアは静かに頷いた。
そして。
ソラへ種を差し出した。
『受け取ってください。』
『アマミヤ・ソラ。』
『終焉を越えた旅人へ。』
ソラは目を見開いた。
「私に?」
『はい。』
『あなたは帰る人です。』
『そして、また旅立つ人です。』
『だから。』
『帰る場所を忘れないように。』
ソラは、そっと種を受け取った。
掌の中で。
小さな光が脈打つ。
「ありがとう。」
『こちらこそ。』
『銀花は願います。』
『どうか。』
『続きを歩いてください。』
夜。
アステリアの自室。
ソラは種を見つめていた。
終焉戦争。
創造主。
帰還不能宙域。
花の都。
全部が遠い昔のようで。
昨日のことのようだった。
「……行ってらっしゃい、か。」
小さく呟く。
「行ってきます。」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
でも。
ちゃんと届く気がした。
窓の外では。
銀花の都が静かに輝いていた。
その光は。
失われたものを忘れないための光。
そして。
明日へ進むための光でもあった。
終焉を越えた少女は、新たな願いを受け取る。
それは武器ではない。
奇跡でもない。
小さな種。
けれど。
誰かを想う気持ちは、宇宙よりも遠くへ届く。
そして。
アステリアの航路図には、新たな目的地が表示される。
銀河地図のさらに外側。
未踏宙域。
その名は――
「暁の海域」
次なる旅は、もう始まっていた。




