第9章 出口なき迷路
今回は、透析を初めて受ける患者・鈴木さんが登場します。
「健診で異常なしと言われていたのに、なぜ急に透析が必要になったのか」という鈴木さんの問いから、陽介と桜はBUN・クレアチニン・尿酸という三つの数値の意味を一から整理していきます。
そして章の終盤、貧血という新たな数字をきっかけに、「透析にもできないこと」が見えてきます。機械にできることと、できないこと。その境界線を知ることが、この章の核心です。
第1節 初めての透析導入
その日の朝、透析室に見慣れない顔があった。
五十代後半の女性で、ベッドの端に小さく腰かけていた。膝の上に置いた両手が、微かに震えていた。緊張しているのか、寒いのか、判断がつかなかった。
北村が傍らに立って、穏やかな声で話しかけていた。
「鈴木さん、今日が最初の透析になります。怖いこと、不安なことがあれば何でも聞いてください」
「はい」鈴木さんは小さく答えた。五十代という年齢より少し老けて見えた。長く体調が悪かった人の顔をしていた。
陽介は真田に小声で確認した。「新規導入ですか」
「そうだ。慢性腎臓病の経過で、先週ついに導入適応になった」
「検査値は」
「後で見ろ。まず顔を覚えてこい」
陽介は回路の準備を続けながら、鈴木さんの様子を横目で確認した。北村の説明を聞きながら、時折小さくうなずいていた。表情は硬かった。笑っていなかった。
穿刺が終わって透析が始まると、鈴木さんは天井を見たまま動かなかった。チューブの中を自分の血液が流れていく光景を、一度だけ見て、それからずっと目を逸らしていた。
桜が水を持っていった。「何かあればすぐ呼んでください」
「ありがとうございます」鈴木さんは言った。「あの……なぜこんな数値になるまで、気づかなかったんでしょう」
桜は少し止まった。
「健診には毎年行っていたんです」鈴木さんは続けた。「異常なし、と言われていた。それがなぜ急に、透析が必要だなんて言われるのか」
桜は陽介を見た。陽介も返す言葉をすぐには持てなかった。
北村が静かに近づいてきた。「慢性腎臓病は、かなり進むまで自覚症状が出にくいんです。腎臓は予備能力が高くて、機能が半分以下になっても体の調子が悪くなりにくい。だから気づいたときには、という方が珍しくないんですよ」
「もっと早く分かっていれば」鈴木さんは言った。
「そう思うのは当然です」北村は言った。「ただ、今日ここに来てくれたことが、次の一歩です」
鈴木さんは黙った。
透析室に機械の音が続いていた。
昼休みに、陽介は鈴木さんの検査データを開いた。導入直前の数値が並んでいた。
BUNが百二十二ミリグラム毎デシリットル。基準値の上限が二十程度だから、六倍以上になっていた。クレアチニンが十二・四ミリグラム毎デシリットル。基準値の上限が一・〇前後だから、十倍以上だった。尿酸が十・八ミリグラム毎デシリットル。こちらも基準値を大きく超えていた。
数字の並びが、一つひとつ重かった。
桜が隣から覗き込んだ。「すごい数値だね」
「全部、出口が閉じていた結果だ」陽介は言った。
「出口?」
「腎臓から捨てられるはずのものが、全部溜まっている。BUNも、クレアチニンも、尿酸も、腎臓が機能していれば尿として出ていくはずのものだ。それが何年もかけて、少しずつ溜まり続けてきた」
桜はしばらくデータを見ていた。
「健診で異常なしと言われていた、と鈴木さんが言っていたけど」桜は言った。「本当に分からなかったのかな」
「腎臓の予備能力が高いから、数値がある程度まで上がっても症状が出にくい」陽介は言った。「ただ健診で腎機能をどこまで確認していたかにもよる。クレアチニンを見ていなかったり、見ていても基準値内だったりすれば、見落とすこともある」
「じゃあ鈴木さんは、ずっと気づかないまま腎臓が削られていたということ?」
「そういうことになる」
桜は少し黙った。それから静かに言った。「BUNとクレアチニンと尿酸が、それぞれ何を意味しているのか、ちゃんと分かっていない。数字として見ているだけだった」
陽介もそうだった、と思った。透析室で毎日確認していた。ただ管理の基準値として見ていた。それぞれが体の中のどういう流れを反映しているのか、整理できていなかった。
「真田さんに聞いてみよう」陽介は言った。
透析室の午後が始まっていた。鈴木さんのベッドの上で、機械が静かに血液を浄化していた。
第2節 尿素窒素という名前の意味
翌日の午後、真田が透析室の記録台に座っていた。珍しく手が空いていた。
陽介は迷わず声をかけた。「BUNについて聞いていいですか」
「何が分からない」
「数値として管理はしていましたが、なぜ溜まるのかを順番に整理できていませんでした。昨日の鈴木さんのデータを見て、改めて確認したくて」
真田は記録から目を上げた。少しの間、陽介を見た。
「言ってみろ。どこまで分かっている」
「タンパク質が分解されてアミノ酸になり、アミノ基が外れてアンモニアになる。肝臓の尿素回路でアンモニアが尿素に変えられる。その尿素が腎臓から排泄されるのがBUNの正体だ、というところまでは整理できています」
「肝臓の話で整理したな」
「はい。ただそのとき、腎臓側の話が途中になっていました。尿素が腎臓でどう処理されるか、もう少し詳しく知りたくて」
真田は立ち上がって、処置室の小さなホワイトボードに向かった。
「腎臓の糸球体は、血液をろ過する装置だ」真田はボードに丸を描いた。「毛細血管が糸まり状に絡まっていて、そこに血液が流れ込む。圧力でろ過されて、原尿が作られる」
「一日に何リットルかろ過されますか」桜が後ろから入ってきた。いつの間にかいた。
「百八十リットル」真田は言った。「ただし原尿の大部分は尿細管で再吸収される。最終的に尿として出るのは一・五リットル程度だ」
「百八十リットルのうち一・五リットルだけが出ていく」桜は言った。「ほとんど回収している」
「体に必要なものは回収して、不要なものは捨てる。その選別を尿細管がやっている」
「尿素はどう扱われますか」陽介は聞いた。
「糸球体でろ過された後、尿細管で約半分が再吸収される。残りが尿として排泄される」真田はボードに矢印を書いた。「だから腎臓が正常なら、BUNは一定範囲に保たれる。産生量と排泄量のバランスが取れている」
「腎臓が壊れると、そのバランスが崩れる」陽介は言った。
「糸球体のろ過能力が下がると、尿素が血液中に溜まっていく。それがBUNの上昇として現れる」
「鈴木さんのBUNが百二十二だったのは、腎臓のろ過が長期間低下していたからですね」
「そうだ。ただBUNはタンパク質の摂取量にも影響される。同じ腎機能でも、タンパク質をたくさん食べればBUNは上がる。タンパク質を制限すれば下がる」
「だから透析患者さんへのタンパク質制限は、BUNを上げないための管理でもある」桜は言った。
「腎臓が捨てられない分を、入り口で減らす、ということですね」陽介は言った。
「そういうことだ」
陽介はノートに書き足した。BUNの高低は腎臓の排泄能力とタンパク質の摂取量、両方の影響を受ける。どちらが原因かを分けて考える必要がある。
「もう一つ確認させてください」陽介は続けた。「BUNという名前の意味が、血液尿素窒素ですよね。なぜ尿素の量を直接測らずに、窒素で表すんですか」
真田は少し止まった。「なぜだと思う」
陽介は考えた。尿素の分子式はCO(NH₂)₂だった。炭素、酸素、そして窒素が二つ入っている。
「尿素の中の窒素の量を測っている、ということですか。窒素はタンパク質由来のアミノ基から来ているので、タンパク質の代謝産物の量を窒素で代表させている」
「そうだ」真田は言った。「タンパク質には必ず窒素が含まれている。糖質や脂質には窒素がない。だからタンパク質の分解産物の指標として、窒素量を測ることに意味がある。BUNはタンパク質代謝の終着点を見ている数値だ」
桜が「なるほど」と小声で言った。「BUNって血液の中の尿素に含まれる窒素の量、という意味だったんだ。ずっとただの項目名として見ていた」
「名前に意味がある」陽介は言った。「検査値の名前は、何を測っているかを教えている」
真田はボードのマーカーをトレイに置いた。
「鈴木さんの今日のBUNは確認したか」
「まだです」
「見てこい。導入後の初回透析でどれだけ下がったか。そこから腎臓の代わりをどの程度できているかが見える」
陽介はすぐに端末を開いた。導入翌日の数値が出ていた。BUNが百二十二から五十七に下がっていた。半分以下になっていた。
「五十七です」
「悪くない」真田は言った。「次はクレアチニンだ。BUNとは別の意味を持っている」
陽介はノートのページを一枚めくった。
透析室の外で、鈴木さんが今日も椅子に腰かけて順番を待っているはずだった。数字の向こうに、昨日より少しだけ顔の緊張がほぐれた鈴木さんがいた。
第3節 筋肉が刻む時計
その日の午後の透析が終わって、後片付けをしながら真田が口を開いた。
「クレアチニンの話をする」
陽介と桜はすぐに手を止めた。真田が片付けの最中に話し始めるのは珍しかった。
「クレアチニンはどこから来るか、分かるか」
「筋肉ですか」陽介は答えた。「筋肉のエネルギー代謝に関係していると記憶しています」
「クレアチンリン酸という物質がある」真田は手を動かしながら言った。「筋肉の中に蓄えられているエネルギーの予備だ。瞬発的な運動のとき、ATPが切れそうになると、クレアチンリン酸がすぐにATPを補充する」
「CPXの補助をしたときに出てきた話と繋がりますね」桜が言った。「藤井さんが足をつったとき、エネルギーの緊急産生の話が出ていた」
「クレアチンリン酸はその緊急備蓄だ」真田は続けた。「ただ使われた後、クレアチンは自然に分解されてクレアチニンになる。クレアチニンは体の中で再利用されない。そのまま腎臓からろ過されて捨てられる」
「再利用されない」陽介は繰り返した。「ということは、毎日一定量が作られて、一定量が捨てられる、ということですか」
「そうだ」真田は言った。「筋肉量が同じなら、クレアチニンの産生量はほぼ一定になる。食事の影響もBUNより少ない。だからクレアチニンは、腎臓のろ過能力をより純粋に反映する指標になる」
「BUNはタンパク質の摂取量にも左右されるけど、クレアチニンはそれが少ない」桜は言った。「より腎臓そのものの状態を見やすい」
「ただし注意点がある」真田は回路を外しながら言った。「クレアチニンは筋肉量に依存する。筋肉が多い人はクレアチニンの産生量が多い。筋肉が少ない人は産生量が少ない」
「同じ腎機能でも、筋肉量によってクレアチニンの値が変わる、ということですか」陽介は言った。
「高齢者や透析患者のように筋肉が落ちている人は、腎機能が低くてもクレアチニンが低く出ることがある。数値だけ見ると腎臓が悪くないように見えてしまう」
「数値が実態より良く見える」
「だからクレアチニン単独で判断しない。体格や筋肉量を考慮して、GFRという糸球体ろ過量に換算して評価する」
陽介はメモに書いた。クレアチニンは筋肉量補正が必要。GFRで評価する。
片付けが終わって、処置室に移った。真田はホワイトボードの前に立った。
「鈴木さんのクレアチニンを見たか」
「十二・四でした」陽介は答えた。「基準値の十倍以上です」
「鈴木さんは体格はどうだった」
「小柄でした。やや筋肉量が少ない印象でした」
「それでこの数値なら、実際の腎機能の低下はさらに深刻と読む必要がある。筋肉量が少ない分、クレアチニンが低めに出やすいにもかかわらず、十二を超えている」
「筋肉が少ないのにこの数値、ということは」桜は静かに言った。「腎臓がほとんど機能していなかった、ということですね」
「導入が遅れていたとも言える」
沈黙があった。
鈴木さんが「なぜ気づかなかったのか」と言っていた言葉が、陽介の頭の中に残っていた。腎臓の予備能力が高いから気づきにくい、という北村の答えは正しかった。ただそれと同時に、クレアチニンという指標を早期から追っていれば、もっと前に異変を捉えられた可能性もあった。
「健診でクレアチニンを確認していなかったのかもしれませんね」陽介は言った。
「健診の項目は施設によって違う。クレアチニンが入っていない健診もある」真田は言った。「あるいは入っていても、緩やかな上昇を見逃すことがある。基準値内でも、前年と比べて上がり続けていれば注意が必要なのに、その一点だけで正常と判断されることもある」
「時系列で見ないと分からない変化がある」
「クレアチニンは毎日一定量作られて一定量捨てられる。時計のように規則正しく動いている。その時計が狂い始めたことに、誰も気づかなかった」
陽介はその言い方を頭の中で繰り返した。筋肉が刻む時計。毎日同じリズムで産生されて、同じリズムで排泄される。そのリズムが乱れ始めたとき、腎臓に何かが起きている。
「透析を始めてからのクレアチニンの推移も見ていきますか」陽介は聞いた。
「見る意味はある」真田は言った。「透析でクレアチニンがどこまで下がるか。残腎機能がどの程度あるか。筋肉量の変化も合わせて追う。数値一つから見えることは多い」
桜がノートを閉じながら言った。「BUNとクレアチニンって、似ているようで見ているものが違うんだね。BUNはタンパク質の食べた量と腎機能の両方。クレアチニンは筋肉量と腎機能の両方」
「だから両方を合わせて見る」陽介は言った。「片方だけでは分からないことが、並べると見えてくる」
真田は何も言わなかった。
ただボードに二本の矢印を並べて書いた。一本にBUN、もう一本にCr。両方が腎臓という出口を指していた。
透析室の窓から、夕方の光が斜めに差し込んでいた。
第4節 痛風という出口の詰まり
数日後の朝、鈴木さんの隣のベッドに新しい患者が入った。
六十代前半の男性で、右足の親指の付け根を庇うようにゆっくりと歩いていた。ベッドに腰かけるとき、足を床につける角度を慎重に調整した。痛みがあるのは明らかだった。
北村が「大丈夫ですか」と声をかけた。
「いやあ」男性は苦笑いしながら言った。「また出まして。透析やってるのにこれだから、困りますわ」
透析歴は十二年だった。尿酸値が高く、定期的に痛風発作を繰り返していた。名前を岸本さんといった。
穿刺が終わって透析が安定したころ、桜が陽介に小声で言った。「透析しているのに痛風が出るの?」
「尿酸の話を、ちゃんと整理したことがなかった」陽介は言った。
「私もない。昼休みに聞いてみよう」
昼休みに真田を捕まえた。今日は珍しく食堂で昼食を取っていた。トレーを持ったまま、二人が向かいに座った。
「尿酸の話を聞いていいですか」陽介は言った。「透析をしているのに痛風発作が起きる理由が分からなくて」
真田は箸を置いた。
「尿酸はどこから来るか、知っているか」
「プリン体という言葉は聞いたことがあります」桜は言った。「ビールに多いとか」
「プリン塩基が分解されるときに尿酸が作られる」真田は言った。「プリン塩基はDNAやRNAの構成成分だ。核酸の材料といってもいい」
「核酸の分解産物が尿酸になる」陽介は言った。「ということは、細胞が壊れるときにも出る?」
「そうだ。食事から摂るプリン体だけでなく、体の中で細胞が壊れるときにも産生される。体内で常に一定量作られている」
「BUNやクレアチニンと同じで、腎臓から排泄されるんですね」桜は言った。
「糸球体でろ過されて、尿細管で再吸収と分泌が行われて、最終的に尿として出る。腎臓が機能していれば一定範囲に保たれる」
「腎臓が壊れると出口が詰まって溜まる」陽介は言った。「それが透析患者で尿酸値が高くなる理由ですか」
「それだけではない」真田は続けた。「透析でも尿酸はある程度除去できる。ただ除去しきれない。週三回の透析では、毎日産生される尿酸の全てを除去することはできない。少しずつ残っていく」
「じゃあ透析を続けるほど、尿酸が蓄積しやすくなる?」桜は言った。
「管理していなければそうなる。食事制限と薬で産生を抑えながら、透析で除去できる分を最大限使う。それでも完全にコントロールするのは難しい」
陽介は岸本さんの透析歴十二年という言葉を思い出した。十二年間、尿酸と付き合い続けてきた。
「痛風発作が起きる仕組みはどうなっていますか」陽介は聞いた。
「尿酸は血液中の濃度が高くなると、結晶化しやすくなる」真田は言った。「結晶は鋭い針状の形をしている。それが関節の中に沈着すると、免疫細胞が異物として攻撃する。その炎症反応が激しい痛みを起こす」
「針が刺さったような痛みというのは、比喩じゃなくて実際に針状の結晶が刺さっているわけですね」桜は言った。
「その通りだ。好発部位は足の親指の付け根だが、膝や足首にも起きる。透析患者は尿酸コントロールが難しいので、発作を繰り返しやすい」
陽介は今朝の岸本さんの歩き方を思い出した。足を床につける角度を慎重に調整していた。十二年間で何度その発作を経験してきたのか。
「透析患者の尿酸管理で、CEが関われることはありますか」陽介は聞いた。
「透析条件だ」真田は言った。「透析膜の種類や透析時間によって、尿酸の除去量が変わる。より高性能な膜を使う、透析時間を延ばす、血流量を上げる。そういった条件の調整が除去量に影響する。医師と相談しながら、条件を最適化することがCEの仕事の一つだ」
「透析の条件を変えることが、痛風発作の頻度に影響する可能性がある」
「可能性はある。ただ完全には防げない。食事管理と薬と透析条件、全部合わせてようやく管理できる」
食堂の時計が十二時五十分を示していた。午後の透析まであと少しだった。
真田はトレーを持って立ち上がりながら言った。「尿酸は出口が詰まるだけでなく、結晶になって体の中に居座る。BUNやクレアチニンは溜まっても液体のまま血液に漂っている。尿酸は固まる。それが厄介なところだ」
「固まることで、血液から取り除きにくくなる」陽介は言った。
「関節に沈着した結晶は、透析では取れない。すでに沈着したものは薬で溶かすしかない。だから溜めないことが大事だ」
真田は食堂を出た。
桜がノートを閉じながら言った。「BUNもクレアチニンも尿酸も、全部腎臓から出るはずのものなんだね。腎臓って、本当にいろんなものの出口になっていたんだ」
陽介はうなずいた。
出口が一つ閉じると、そこを通るはずだったものが全部詰まる。タンパク質の代謝産物も、筋肉のエネルギー残滓も、核酸の分解産物も。全部が同じ出口を目指していた。
午後の透析室に戻ると、岸本さんが窓の外を見ていた。足を少し持ち上げて、ベッドの柵に預けていた。楽な角度を探しているようだった。
「岸本さん、痛みはどうですか」桜が声をかけた。
「まあ、いつものことですわ」岸本さんは笑った。「十二年もやってると、付き合い方が分かってくる」
その言葉の重さを、陽介は今日初めてきちんと受け取った。
第5節 出口が閉じれば溜まる
透析導入から十日が経って、鈴木さんの表情が少し変わってきた。
最初の日、天井を見たまま動かなかった。チューブの中を流れる自分の血液から目を逸らしていた。それが今日は、隣の岸本さんと小声で話をしていた。岸本さんが何か言うたびに、小さく笑っていた。
北村が陽介に小声で言った。「鈴木さん、だいぶ慣れてきたわね」
「そうですね」
「最初の十日が一番しんどいの。来るたびに泣いていた人もいたから」
陽介は鈴木さんの今日の検査値を確認した。BUNが三十八。クレアチニンが六・二。尿酸が七・九。導入前と比べると、全て大きく下がっていた。数字が、透析が機能していることを示していた。
午後の透析が安定した頃、北村が声をかけてきた。「鈴木さんが、先生の説明を聞いてもう少し詳しく知りたいって言ってるんだけど。柏木くん、話してみる?」
陽介は少し止まった。
患者への説明は、これまでも何度かやってきた。山田さんへのコレステロールの話。原田さんへのブドウ糖の説明。藤井さんとのやり取り。ただ透析導入直後の患者に、検査値の意味を一から説明するのは初めてだった。
「やってみます」
椅子を引いて、鈴木さんのベッドサイドに座った。端末を手に持った。
「鈴木さん、今日の数値を見ながら少し説明してもいいですか」
「はい」鈴木さんは少し身を乗り出した。「数字はいつも見ているんですが、何を意味しているのかが分からなくて」
「三つの数値について説明します」陽介は言った。「BUNとクレアチニンと尿酸です。全部、腎臓から捨てられるはずのものが血液に溜まったときに上がる数値です」
「出口が詰まった、ということですね」鈴木さんは言った。「先生にそう説明してもらいました」
「そうです」陽介は続けた。「BUNはタンパク質を食べたときに出てくる老廃物です。タンパク質がアミノ酸に分解されて、その過程で出たアンモニアを、肝臓が尿素という無害な物質に変えます。その尿素が腎臓から出ていく。腎臓が働かなくなると、この尿素が血液に溜まってBUNが上がります」
「タンパク質を食べるとBUNが上がるのはそういう理由なんですね」鈴木さんは言った。「お肉を食べすぎないように言われているのは、そのためですか」
「そうです。腎臓が捨てられない分、入り口で減らす必要があります」
鈴木さんはうなずいた。表情が真剣だった。理解しようとしている顔だった。
「クレアチニンは筋肉から出てくる老廃物です」陽介は続けた。「筋肉がエネルギーを使うたびに、少しずつクレアチニンが作られます。毎日ほぼ同じ量が作られて、同じ量が腎臓から捨てられるはずのものです。腎臓が弱ると、この毎日の排泄が滞って溜まっていきます」
「毎日少しずつ溜まっていた、ということですか」鈴木さんは静かに言った。
「長い時間をかけて、少しずつ」
鈴木さんは少し目を伏せた。「気づかなかったわけですね」
陽介は答えを選んだ。責める言葉でも、慰める言葉でもなく、事実を伝える言葉を。
「腎臓は予備能力が高い臓器です。機能が落ちていても、症状が出にくい。数値が上がっていても、体の調子が悪くなるまでには時間がかかります。だから気づきにくかった、というのは鈴木さんのせいではないです」
鈴木さんはしばらく黙っていた。
「尿酸は」鈴木さんは続きを促した。
「核酸という細胞の材料が分解されるときに出てくる老廃物です。食べ物にも含まれています。腎臓が捨ててくれれば問題ないのですが、溜まると関節の中で結晶になって、炎症を起こすことがあります」
「痛風というやつですか」鈴木さんは隣の岸本さんをちらりと見た。
「そうです。岸本さんも今朝、発作が出ていました」
「さっきその話をしていました」鈴木さんは言った。「岸本さんに、透析を始めたら付き合っていくものが増えるよ、と言われて」
「付き合い方を覚えていくしかないです」陽介は言った。「ただ透析で数値を下げながら、食事と薬で管理していけば、発作の頻度は減らせます」
鈴木さんは端末の数字を見た。「今日のBUNが三十八、クレアチニンが六・二、尿酸が七・九。導入前と比べると、全部下がっているんですね」
「透析が機能しています」
「透析が、腎臓の代わりをしてくれているということですね」鈴木さんは言った。「腎臓の出口が閉じた分を、この機械が開けてくれている」
陽介はそっと息を吸った。
出口が閉じれば溜まる。機械が出口を開ける。
鈴木さんは自分の言葉で、透析の意味を掴んでいた。
「そういうことです」陽介は言った。
しばらく間があった。機械の音が続いていた。
「ありがとうございました」鈴木さんは言った。「数字に名前がついて、やっと自分のこととして見られる気がします」
陽介は椅子から立ち上がった。後ろで桜が小さくうなずいていた。
北村が記録をつけながら、こちらを見ずに言った。「よかったわよ」
陽介は何も言わなかった。
透析室の窓から、夕方の光が差し込んでいた。鈴木さんの隣で、岸本さんがまた何か話しかけていた。鈴木さんが小さく笑った。
数字に名前がついた日の、静かな午後だった。
第6節 機械にできないこと
翌週の月曜日、鈴木さんの検査データに新しい数字が加わっていた。
ヘモグロビン値が八・二グラム毎デシリットル。基準値の下限は女性で十二程度だから、それを大きく下回っていた。ヘマトクリットも二十五・四パーセント。赤血球の割合が、正常より著しく低い。
陽介は数字を見ながら、何かが引っかかった。
BUNもクレアチニンも尿酸も、透析を始めてから着実に下がっていた。機械が出口を開けて、溜まっていたものを外に出している。それは数字として見えていた。しかしこのヘモグロビンの低さは、透析が始まってからも改善されていない。むしろ導入前からずっと低かったことを示していた。
「桜、鈴木さんのヘモグロビン、見たか」
「見た」桜は言った。「かなり低いね。貧血?」
「数字はそう言っている。ただ普通の貧血とは少し違う」
「なぜ」
「透析で老廃物は下がってる。でも貧血は改善しない。何かが足りていないんだと思う」
昼休みに、陽介は真田を捕まえた。
「鈴木さんのヘモグロビンについて聞いていいですか」陽介は言った。「透析を始めても改善しない理由が分からなくて」
真田はコーヒーの缶を置いた。「どう考えた」
「老廃物の排泄は透析で代行できている。でも貧血は別の原因がある、と思います。ただその原因が何かが、まだ整理できていません」
「腎臓は何を作るか」真田は言った。
陽介は少し止まった。「老廃物を捨てる、水分を調整する、電解質を管理する——」
「それだけか」
陽介は頭の中を探した。腎臓の機能。排泄、再吸収、血圧調整、ビタミンDの活性化——。
「ホルモンを作る、ですか」
「何というホルモンだ」
「エリスロポエチン、だと思います」
真田はうなずいた。「腎臓はエリスロポエチンという造血ホルモンを産生する。骨髄に働きかけて、赤血球を作るよう指令を出すホルモンだ。腎臓が壊れると、このホルモンが作れなくなる」
「赤血球が作られなくなって、貧血になる」桜が言った。「それが腎性貧血ですか」
「そうだ。透析患者の多くが貧血を抱えているのは、腎臓という造血ホルモンの産生工場が止まっているからだ」
陽介はその言葉を聞いて、第一日目のことを思った。鈴木さんが「透析が腎臓の代わりをしてくれている」と言った。陽介は「そういうことです」と答えた。あの言葉は正しかったが、完全ではなかった。
「透析は、腎臓のすべての代わりはできないんですね」陽介は言った。
「できない」真田は静かに言った。「老廃物の排泄や水分管理は機械が代行できる。しかし腎臓が作っていたホルモンを、透析膜が作ることはできない。エリスロポエチンもそうだし、活性型ビタミンDもそうだ」
「ビタミンDの活性化も腎臓でしたね」桜が言った。「以前に北村さんから聞きました。活性型でないとカルシウムが吸収されないって」
「そうだ。透析患者がカルシウムや骨の管理を別に必要とするのも、腎臓の内分泌機能が失われているからだ。それは透析では補えない。薬で外から補充するしかない」
「機械にできることと、できないことがある」陽介は言った。
「腎臓は排泄器官であると同時に、内分泌器官でもある」真田は言った。「その両方を失う。透析は前者の一部を代行する。後者は薬と栄養管理で補う。それを組み合わせて初めて、腎機能の喪失に対応できる」
陽介はノートに書いた。腎臓の機能——排泄(透析で一部代行)・ホルモン産生(EPO・活性型VitD。透析では補えない)。
「鈴木さんへのエリスロポエチン製剤の投与は、もう始まっていますか」陽介は聞いた。
「先週から始まっている。ヘモグロビンが安定してくれば、疲れやすさも改善するはずだ」
「鈴木さん、導入してからずっと疲れやすそうにしていました」桜は言った。「透析が大変なのかと思っていたけど、貧血も原因のひとつだったんだ」
「それだけじゃない」真田は言った。「慢性腎臓病が進む過程で、長い間エリスロポエチンが不足していた。その間、赤血球が十分に作られなかった。体はずっと酸素不足に近い状態で動いていた。それが倦怠感として続いていた」
「気づかないまま、消耗していた」桜が静かに言った。
「数値が悪くても症状が出にくいと言ったが、疲れやすさは出ていた可能性がある。ただ疲れというのは他の原因も多い。腎臓のせいだとは気づきにくい」
陽介は鈴木さんが最初の日に言っていた言葉を思い出した。健診には毎年行っていた。異常なしと言われていた。なぜ気づかなかったのか。
その疲れも、もしかしたらずっとそこにあったのかもしれなかった。
午後の透析室に戻ると、鈴木さんが岸本さんと話していた。今日は少し表情が明るかった。
陽介は鈴木さんの点滴ルートを確認した。エリスロポエチン製剤が静かに落ちていた。骨髄に届いて、赤血球を作るよう促している。透析の機械には絶対にできない仕事を、小さな薬瓶が静かにやっていた。
「ねえ」桜が隣に来た。「腎臓って、改めてすごいね」
「何が」
「老廃物を捨てるだけじゃなくて、造血もしてて、骨も守ってて、全部同時にやってた」
「それが失われる」
「だから透析だけじゃ足りない」桜は言った。「機械と薬と食事と、全部揃えてようやく腎臓の代わりになる。完全な代わりには、ならないけど」
陽介はうなずいた。
第一日目に真田が言った言葉を思い出した。腎臓が本来やっていることの意味が、まだ分かっていない。
あのとき陽介には、老廃物を捨てるという答えしかなかった。今は少し違う答えが持てる。腎臓は排泄器官であり、内分泌器官であり、代謝の調節者でもある。その全体を失うということが、どういう意味を持つか。
透析室の機械が、その一部を担っている。
一部だけを。
それを知った上で機械を動かすのと、知らないで動かすのとでは、やはり違う。
真田が最初に「浅い」と言った理由が、今になってようやく、もう少し深く分かった。
今回は透析導入の患者・鈴木さんを中心に書きました。
このテーマで一番書きたかったのは、「透析は腎臓の代わりを"完全に"してくれるわけではない」という事実です。BUN・クレアチニン・尿酸が下がっていく様子は、透析がうまく機能している証拠として分かりやすい。でも腎臓はホルモンも作っている臓器で、その部分は機械では代行できません。鈴木さんの貧血を通して、その限界を見せたいと思っていました。
鈴木さんが「数字に名前がついて、やっと自分のこととして見られる気がします」と言う場面は、この章でいちばん書きたかったセリフです。患者さんにとって、検査値はただの数字ではなく、自分の体で起きていることの言葉になる。陽介がその"翻訳"を初めてひとりでやり遂げる場面として書きました。
岸本さんという、透析歴12年のベテラン患者を絡めたのも、透析という治療が「一回で終わる治療」ではなく「長く付き合っていくもの」だということを伝えたかったからです。次回(第10章「血液が酸になる日」)もよろしくお願いします。




