第10章 血液が酸になる日
今回はpH(水素イオン指数)が物語の中心になります。
透析中に突然、意識がぼんやりしてしまった村上さん。その血液ガスの数値は「pH 7.19」でした。正常範囲は7.35〜7.45。なぜそのわずかな幅を外れただけで、人の意識まで変わってしまうのか。
陽介と桜は、この一つの数字の裏にある仕組みを追いかけることになります。酵素、緩衝系、肺と腎臓の連携、そして心臓の電気信号まで——一本の糸が繋がっていく章です。
第1節 pH七・一九
十月に入って、透析室の空気が変わった。
夏の湿気が抜けて、機械の稼働音が少し澄んで聞こえるようになった。患者たちの着る物が厚くなり、穿刺の前に腕を温めるひと手間が増えた。
その朝、十番ベッドのアラームが鳴ったのは、透析開始から二時間が経った頃だった。
低い単音ではなく、続けざまの警告音だった。陽介はすぐに走った。
十番ベッドの患者は六十代の男性で、名前を村上さんといった。透析歴は四年。おとなしい人で、透析中はたいてい目を閉じて過ごしていた。
その村上さんが、今は目を開けていた。ただし焦点が合っていなかった。天井のどこかを、ぼんやりと見ていた。
「村上さん」陽介は声をかけた。「分かりますか」
返事がなかった。
「村上さん」
唇が少し動いた。しかし言葉にならなかった。
北村が来た。バイタルサインを素早く確認した。血圧が下がっていた。脈拍が速かった。呼吸が浅く、速かった。
「真田さんを呼んで」北村は静かに、しかしはっきりと言った。
桜が走った。陽介は機械のパネルを確認しながら、透析回路の状態を点検した。異常はなかった。機械側の問題ではない。
真田が来た。患者の状態をひと目見て、「血ガスを取れ」と担当医に言った。採血が行われた。その間、陽介は機械の数値を記録し続けた。血流量、透析液流量、静脈圧、動脈圧。全部が通常範囲だった。回路は正常に動いている。
問題は患者の体の内側にあった。
採血の結果が出るまでの数分間、陽介はベッドサイドに立ったまま、村上さんの呼吸を見ていた。浅く、速い。まるで体が何かを必死に吐き出そうとしているような、不規則な呼吸だった。
「結果が出た」担当医が言った。
陽介は画面を覗き込んだ。
pH 7.19
PaCO₂ 28 mmHg
HCO₃⁻ 10.5 mEq/L
数字が並んでいた。
pHという項目の前で、陽介の目が止まった。
七・一九。
その数字が、何かを告げていた。何かが起きている。しかしその数字が何を意味するのか、陽介は今この瞬間、完全には読めていなかった。
真田が処置の指示を出しながら、陽介に向けて一言だけ言った。
「後で話す」
陽介はうなずいた。手を動かしながら、頭の中でその数字を何度も繰り返した。
pH 7.19。
正常はいくつだったか。七・三五から七・四五。それより大きく低い。血液が、酸性に傾いている。
村上さんの呼吸がまた変化した。速い呼吸が、少し間隔を置くようになった。体が懸命に何かをしている。体の内側で、何かが起きている。
陽介はその数字を手帳の端に書き留めた。
pH 7.19。この数字の意味を、今日中に理解しなければならない。
第2節 七・三五から七・四五の回廊
村上さんの状態が落ち着いたのは、午後になってからだった。
重炭酸ナトリウムの補充と透析条件の調整が功を奏して、意識が戻った。目の焦点が合い、北村の問いかけに「ちょっと、ぼんやりしてた」と答えた。その言葉を聞いたとき、透析室の空気がわずかに緩んだ。
後片付けが一段落してから、真田が「来い」と言った。
カンファレンス室に三人が入った。真田はホワイトボードに向かった。いつもと同じ始まり方だった。ただ今日は、マーカーを取る前に一度だけ二人を見た。
「今朝の血ガスの数字、覚えているか」
「pH七・一九」陽介はすぐに答えた。「PaCO₂が二十八、HCO₃⁻が十・五でした」
「pHの正常値は」
「七・三五から七・四五」
「なぜその範囲でなければならないか、分かるか」
陽介は少し考えた。正常値として覚えていた。しかしなぜその範囲でなければならないのか、理由を問われると、言葉がすぐには出てこなかった。
「酵素の話ですか」桜が口を開いた。「至適pHがある、という。真田さんが鍵と鍵穴の話をしてくれたとき、一緒に出てきました」
真田はマーカーを取った。ホワイトボードに横軸を一本引いた。左に「酸性」、右に「アルカリ性」と書き、中央付近に「7.4」と数字を置いた。
「体液のpHは七・四前後に保たれている」真田は言った。「これを外れると、体の中の酵素が正常に働けなくなる。桜が言った通りだ。ただし今日はもう少し具体的に考える」
「どういうことですか」陽介は聞いた。
「pHが七・三五を下回ると、体に何が起きるか」
「アシドーシスと呼ぶんですよね」桜がノートに書きながら言った。「酸性に傾いた状態」
「そうだ。アシドーシスになると、まず酵素の立体構造が影響を受ける。タンパク質の折りたたみ方が変わって、活性部位の形が崩れる。鍵と鍵穴が合わなくなる」
酵素は特定の基質にしか作用できない。その特異性は立体構造に由来していた。構造が崩れれば、鍵穴の形が変わる。
「全ての酵素が影響を受けるわけではない」真田は続けた。「pHの変化に敏感な酵素と、比較的耐性のある酵素がある。ただし体内の化学反応は何万種類もあって、それぞれに酵素が関わっている。pHがずれるだけで、複数の反応が同時に乱れ始める」
「ドミノ倒しが起きる」桜は言った。
「その通りだ。一か所が乱れると、連鎖する。今朝の村上さんがぼんやりしていたのは、脳の神経細胞の活動も、pH変化の影響を受けていたからだ」
陽介は今朝の村上さんの目を思い出した。焦点の合っていない目。ただの意識の混濁ではなく、細胞レベルの化学反応が乱れていた結果だった。
「七・三五から七・四五という幅が」陽介は口に出した。「どれほど狭いか、今日初めて実感しました」
「pHのスケールは対数だ」真田はホワイトボードに数式を書いた。「pH=-log[H⁺]。水素イオン濃度の対数をマイナスにした値だ。pH七から六に下がると、水素イオン濃度は十倍になる。pH七・四から七・一に変わっただけで、水素イオン濃度は約二倍になっている」
桜がペンを止めた。「七・四から七・一って、数字の差は〇・三しかない」
「しかし水素イオン濃度は二倍だ」
「たった〇・三の変化で、水素イオンが二倍になる」桜はゆっくりと繰り返した。「なのに体はずっとその狭い回廊の中に、pHを保ち続けている」
真田は横軸の「7.35」と「7.45」の間を指した。
「この回廊の幅は〇・一しかない。体はこの〇・一の中に、毎秒何千億もの細胞が代謝を続けながら、ずっと留まろうとしている。それがどれほど精密な仕事か」
陽介は静かに息を吸った。
毎日確認している血液ガスの数値が、今日は別の重さを持って見えた。pH七・三五から七・四五。管理の基準値として見ていた範囲が、実は細胞が生きていられる回廊の境界線だった。
「今日の村上さんは七・一九でした」陽介は言った。「回廊を大きく外れていた」
「外れていた。だから意識が落ちた」
「あの呼吸は」桜が言った。「浅くて速い呼吸。あれも、関係していましたか」
「それが次の話だ」真田はマーカーを置いた。「体が七・一九というpHに対して、どう反応しようとしていたか。あの呼吸に意味がある」
陽介はノートの余白に書き留めた。
pH7.19。回廊の外。水素イオン濃度は正常の倍以上。そして、速い呼吸。
窓の外で、十月の空が低く曇っていた。
第3節 酸を生み出す工場
翌朝、陽介は早めに出勤した。
ロッカーで白衣に着替えながら、昨夜ノートに書き込んだ内容を頭の中で整理した。pH七・一九。水素イオン濃度が正常の約二倍。回廊の外。そして体が示した速い呼吸。
その呼吸の意味を、まだ真田から聞いていなかった。
透析室に入ると、村上さんが昨日と同じベッドに腰かけていた。今日は顔色が戻っていた。陽介に気づいて「昨日は迷惑をかけました」と頭を下げた。
「大丈夫でしたか」
「おかげさまで」村上さんは苦笑した。「ぼんやりしてたのは覚えてるんですが、その間何があったかは全然覚えていなくて」
「体が大変な状態でしたから」
「そうらしいですね。先生に聞いたら、血液が酸性になってたと言われました」村上さんは少し首を傾けた。「血液が酸性になる、というのが、まだぴんとこなくて」
陽介はその言葉を聞いて、椅子を引いた。穿刺の準備をしながら話せる距離に座った。
「少し説明してもいいですか」
「ぜひ」
「血液には、ほんのわずかな酸性とアルカリ性のバランスがあります」陽介は言った。「そのバランスを示す数字がpHで、正常は七・三五から七・四五の間です。昨日の村上さんは七・一九でした」
「そんなに外れていたんですか」
「外れていました。ただ、なぜそうなったかを話すには、まず血液の中で酸がどこから来るかを説明しないといけなくて」
「聞かせてください」村上さんは真剣な顔をした。「自分の体のことですから」
陽介は少し間を置いてから、話し始めた。
「私たちの細胞は、毎日ものすごい量の化学反応をしています。エネルギーを作るために、グルコースを燃やして、脂肪を燃やして、その過程でCO₂が出続ける」
「息として出るやつですね」
「そうです。CO₂が血液に溶けると、水と反応して炭酸という酸になります。式で書くと、CO₂に水を加えると炭酸になって、炭酸が水素イオンと重炭酸イオンに分かれる」
「水素イオンが酸ということですか」
「そうです。pH というのは水素イオンの濃度を示していて、水素イオンが増えるほど酸性になる。つまりpHが下がる」
村上さんはうなずいた。ゆっくりと、しかし確かに理解しようとしている顔だった。
「細胞が活動し続ける限り、CO₂は出続ける。一日に産生されるCO₂の量は、肺活量に換算すると何百リットルにもなります。全部が血液に溶けたら、血液はたちまち酸性に傾く」
「でも普段はpHが保たれている」
「保たれています。体がいくつかの方法で酸を処理しているからです。肺がCO₂を素早く吐き出すこと。腎臓が余分な水素イオンを尿として捨てること。そして血液の中に、酸を受け止めるバッファーがあること」
「バッファー?」
「緩衝材、という意味です。酸が急に増えても、pHが大きく変わらないように吸収してくれる仕組みです」陽介は言った。「昨日の村上さんは、そのバランスが崩れていました。CO₂だけでなく、透析患者さんに特有の別の酸も溜まっていたことが、血液ガスの数値から分かりました」
「透析患者に特有の酸?」
「腎臓が働いていると、水素イオンを尿から捨てることができます。でも腎臓が機能していないと、その出口がない。酸が逃げ場をなくして、血液に溜まっていく」
村上さんはしばらく黙った。チューブの中を流れる自分の血液を、今度は目を逸らさずに見ていた。
「だから透析で酸を取り除く、ということですか」
「透析液にはアルカリ性の重炭酸が含まれています。透析のたびに、血液の酸性度を補正します。ただ週三回の透析と透析の間に、また少しずつ酸が溜まっていく」
「それが昨日は、溜まりすぎていた」
「はい」
村上さんは静かに息を吐いた。機械の音が続いていた。
「昨日の速い呼吸は」村上さんは言った。「酸を出そうとしていたんですか。CO₂を吐き出すことで」
陽介は少し驚いた。自分から、繋げてきた。
「そうです。正確にそういうことです」
村上さんは「体って、賢いんですね」と言った。苦笑いだったが、その声には昨日とは違う何かが混じっていた。
透析室の朝が続いていた。窓の外で、十月の風が木の葉を揺らしていた。
第4節 血液を守る緩衝材
昼休みに、真田が珍しく先にカンファレンス室に来ていた。
コーヒーの缶を手に持って、ホワイトボードの前に立っていた。陽介と桜が入ると、缶をテーブルに置いてマーカーを取った。
「今朝、村上さんに説明していたな」真田は陽介に言った。
「はい。CO₂が水に溶けて酸になる話と、腎臓が水素イオンを捨てられないという話をしました」
「バッファーという言葉も使っていた」
「使いました。ただ仕組みまでは説明できていなくて」
「では今日はそこだ」真田はホワイトボードに短い式を書いた。
CO₂ + H₂O ⇌ H₂CO₃ ⇌ H⁺ + HCO₃⁻
「この式を見たことがあるか」
「あります」陽介は答えた。「炭酸が水素イオンと重炭酸イオンに分かれる式です」
「矢印が両方向になっている意味が分かるか」
陽介は少し考えた。「反応が行ったり来たりする、ということですか。右にも進めるし、左にも戻れる」
「そうだ。これが緩衝系の核心だ」真田は式の右側を指した。「血液の中でCO₂が増えると、反応が右に進んでH⁺が増える。pHが下がる。ここまでは朝の話だ」
「はい」
「では逆に、何かの理由でH⁺が増えすぎたとき、この式はどう動く」
桜が顔を上げた。「左に戻る、ということですか。H⁺が増えたら、HCO₃⁻がそれを引き取って、H₂CO₃に戻って、CO₂と水になる」
「そうだ」真田は桜を見た。「増えすぎたH⁺を、HCO₃⁻が受け取る。H⁺が緩和される。pHの急激な変化が抑えられる。これが重炭酸緩衝系の仕組みだ」
「HCO₃⁻が酸を吸収する」陽介は言った。「ダムで言えば、増えた水を受け止める貯水池のような役割ですか」
真田はわずかに口元を動かした。「悪くない。ただしダムと違うのは、受け止めた後に形を変えてCO₂として肺から出ていける点だ。ただ溜め込むのではなく、最終的に体の外に追い出せる」
「だから肺と連動している」
「そうだ。重炭酸緩衝系は肺と腎臓の両方と繋がっている。肺はCO₂の排出を速さで調整する。腎臓はHCO₃⁻の量を時間をかけて調整する。速い対応が肺、遅い対応が腎臓だ」
桜がノートに「速い=肺、遅い=腎臓」と書いた。「昨日の村上さんの速い呼吸は、肺が急いでCO₂を吐き出そうとしていたんですね。少しでも式を左に戻そうとして」
「代償性の過換気と呼ぶ。代謝性アシドーシスに対して、呼吸が代償しようとする反応だ。ただし昨日の数値では、PaCO₂は下がっていたが、それだけでpHを正常範囲まで戻すには十分ではなかった。呼吸の代償にも限界がある」
「代償」陽介は繰り返した。「体が自分でバランスを取り戻そうとしていた」
「ただし限界がある」真田は続けた。「呼吸で代償できるのは一時的だ。根本的にH⁺を取り除かない限り、pHは戻らない。透析患者は腎臓がないから、HCO₃⁻を作り直す能力が低い。酸が溜まり続けると、呼吸の代償も追いつかなくなる」
「それが昨日の村上さんの状態だった」陽介は言った。「HCO₃⁻が十・五しかなかった。正常は二十二から二十六ですから、緩衝材がほとんど底をついていた」
「底をついた貯水池に、また水が流れ込んでいた」桜は静かに言った。
真田はコーヒーの缶を手に取った。「透析液に重炭酸が含まれている理由が、これで分かるか」
陽介はすぐに答えた。「透析のたびに、失われたHCO₃⁻を補充するためです。底をついた貯水池に、透析が水を足している」
「そうだ」真田は立ち上がった。「透析の条件設定の中に、重炭酸濃度の設定がある。患者の酸塩基平衡の状態に合わせて、補充量を調整する。それもCEの仕事だ」
陽介はホワイトボードの式を書き写した。両方向の矢印の意味が、今日初めて腑に落ちた。
式は単なる化学反応の記号ではなかった。血液の中で今この瞬間も動いている、均衡の形だった。CO₂が増えれば右へ傾き、H⁺が増えれば左へ戻ろうとする。その絶え間ない揺り戻しの中で、pHが七・三五から七・四五という回廊の中に保たれている。
「村上さんに、今日の話も伝えていいですか」陽介は真田に聞いた。
「お前が必要だと思うなら」
それだけだった。
透析室に戻ると、村上さんがいつもの目を閉じた姿勢で横たわっていた。今日は穏やかな顔だった。昨日と同じ機械に繋がれながら、今日は体の中のバランスが保たれていた。
貯水池に、水が満ちていた。
第5節 判断を迫られる朝
その日の朝、陽介が透析室に入ると、真田がいなかった。
ホワイトボードに一行だけ書いてあった。「緊急手術。午前中は戻れない。柏木が責任者。判断を要する場合は北村に相談すること。」
陽介はその文字を二度読んだ。
責任者。
桜が隣に来た。「真田さん、いないんだ」
「緊急手術だ」
「大丈夫?」
「やるしかない」
透析が始まった。十六床、全員の穿刺を確認し、回路を点検し、機械のパラメータを一台ずつ確認した。異常はなかった。開始から三十分、全員が安定していた。
ほっとしたのも束の間だった。
「柏木くん」
北村の声だった。落ち着いた声だったが、その落ち着き方が普段と少し違った。呼ばれる前に動いている人の声だった。
十三番ベッドだった。
村上さんだった。
昨日と似た呼吸をしていた。浅く、速い。目は開いていたが、焦点が定まっていなかった。
陽介はすぐにバイタルを確認した。血圧が低下している。脈拍が速い。SpO₂は保たれていた。
「昨日と同じ状態ですか」桜が小声で言った。
「似ている」陽介は機械のパラメータを確認した。透析条件に問題はなかった。回路も正常だった。
北村が「担当医を呼びますか」と言った。
陽介は一秒だけ考えた。
昨日の血液ガスの数値が頭にあった。pH七・一九。HCO₃⁻が十・五。重炭酸の緩衝材がほとんど底をついた状態で、呼吸が代償しようとしていた。透析液の重炭酸濃度を上げることで補正できる、と真田が言っていた。しかし透析条件の変更は医師の指示が必要だ。自分の判断だけで動いてはいけない。
「呼んでください」陽介は北村に言った。「血液ガスの採取もお願いします。昨日と同じパターンの可能性があります」
「分かった」北村はすでに動いていた。
陽介は村上さんのベッドサイドに立った。「村上さん、分かりますか」
「......ぼんやりする」村上さんは言った。昨日より声があった。完全に意識が落ちているわけではない。
「昨日と同じ状態です。すぐに先生が来ます」
「また......酸性に、なってるんですかね」
陽介は少し驚いた。昨日の説明を、村上さんは覚えていた。ぼんやりしながらも、自分の体で何が起きているかを理解しようとしていた。
「そうかもしれません。血液を調べてから確認します」
担当医が来た。血液ガスの結果が出た。
pH 七・二二。
HCO₃⁻ 十一・三。
昨日より少しだけ良かった。しかし回廊の外にいることは変わらなかった。
担当医が透析液の重炭酸濃度の変更を指示した。陽介は設定を確認して、変更を実施した。手順通りだった。しかし今日は真田がいない。変更した後の患者の状態を、自分が見続けなければならない。
三十分後、村上さんの呼吸が少し落ち着いてきた。
一時間後、「さっきよりましです」と村上さんが言った。
陽介はモニターから目を離さずに「よかったです」と答えた。
昼前に真田が戻ってきた。状況を北村から聞いて、陽介のところに来た。記録を確認した。変更した設定を見た。
「血ガスの再検はしたか」
「十一時に確認しました。pH七・三一まで戻っています」
「判断の根拠は」
「昨日の状態と同じパターンだと判断しました。ただ条件変更は自分では動かず、担当医に判断を仰ぎました」
真田はしばらく記録を見ていた。
「悪くない動きだ」
それだけだった。
陽介は少し息を吐いた。桜が離れたところで小さくうなずいた。
午後の透析が始まる頃、村上さんが「今日はありがとう」と言った。「昨日の話を覚えてたから、ぼんやりしてても怖くなかった」
陽介は返す言葉を探した。
「体が何をしているか分かると、少し違いますか」
「全然違います」村上さんは言った。「理由が分かると、体を信じられる気がして」
透析室の午後が続いていた。機械が規則正しく動いていた。
pH七・三五から七・四五。その回廊の中に、村上さんの血液が戻っていた。
第6節 心臓が乱れるとき
翌日の昼休み、真田が「時間がある」と言った。
陽介と桜はすぐにカンファレンス室に向かった。真田はすでにホワイトボードの前に立っていた。マーカーを手に持っていたが、まだ何も書いていなかった。
「昨日の村上さんの件で、一つ話していないことがある」真田は言った。「不整脈のリスクだ」
陽介はノートを開いた。
「アシドーシスになると、酵素の働きが落ちる話はした」真田は続けた。「ただそれだけではない。pHが下がると、心臓の電気的な活動にも直接影響が出る」
「心臓の電気的な活動、というのは」桜が聞いた。
「心臓は電気信号で動いている」真田はホワイトボードに心臓の輪郭を簡単に描いた。「洞結節という場所で電気が生まれて、心房から心室へと伝わっていく。その電気の伝わり方が、イオンの動きで成り立っている」
「イオン?」
「ナトリウム、カリウム、カルシウム。これらのイオンが細胞膜の内外を行き来することで、電気信号が生まれる」真田はボードにNa⁺、K⁺、Ca²⁺と書いた。「pHが下がると、このイオンの動きが乱れる」
「なぜですか」陽介は聞いた。
「水素イオンが増えると、カリウムイオンと競合する。細胞の内外でイオンのバランスが崩れる。特にカリウムが細胞の外に出やすくなる。血液中のカリウム濃度が上がる」
「高カリウム血症」陽介は言った。「透析患者さんの管理で、いつも気にしている数値です」
「透析患者はもともと腎臓からカリウムを捨てられない。そこへアシドーシスが重なると、カリウムがさらに上がる。二重に危険な状態になる」
桜がペンを止めた。「カリウムが上がると、心臓に影響するんですよね。最初の頃、北村さんが言っていました。不整脈、最悪は心停止、と」
「その通りだ」真田は言った。「カリウムが高くなると、心筋細胞の興奮性が変わる。電気信号が正常に伝わらなくなる。心電図に異常な波形が出始めて、やがて致死的な不整脈につながることがある」
陽介は村上さんの昨日の状態を思い返した。pH七・二二。意識がぼんやりしていた。あの状態でカリウムも上がっていたとすれば、心電図の監視が必要だった。
「昨日、心電図のモニタリングを強化するよう担当医が指示していました」陽介は言った。「そういう理由だったんですね」
「気づいていたか」
「指示の意味は、今日分かりました」
真田はそれ以上何も言わなかった。ただボードにカリウムの値と心電図波形の変化を簡単に書き添えた。
「カルシウムも関係します」陽介はノートを見ながら言った。「アシドーシスになると、血液中のカルシウムの結合状態が変わると、教科書で読んだことがあって」
「アルブミンに結合しているカルシウムが遊離する」真田は言った。「一見、遊離カルシウムが増えるから問題ないように見える。ただし同時に細胞の中のカルシウムの動きも変わって、心筋の収縮力に影響が出る。話は単純じゃない」
「複数のイオンが同時に乱れる」桜は静かに言った。
「pHという一つの数字が傾くだけで、ナトリウム、カリウム、カルシウム、全部が影響を受ける。それが心臓という、一秒も止まれない臓器で起きている」
部屋が静かになった。
陽介はボードの式を見た。CO₂から始まって水素イオンが増えて、緩衝系が対応して、腎臓と肺が調整する。その均衡が崩れたとき、酵素が乱れ、イオンが動き、心臓の電気信号が乱れる。
一本の糸が、細胞の化学反応から心臓の鼓動まで繋がっていた。
「村上さんは今日、安定しています」陽介は言った。
「見た」真田は言った。「ただ油断するな。透析患者のアシドーシスは、透析と透析の間に静かに進む。次の透析まで何も起きないとは限らない」
「だから透析の間隔と、透析液の条件が重要なんですね」
「それを管理するのが俺たちの仕事だ」
真田はマーカーを置いた。
桜がノートを閉じながら言った。「pHって、最初は数字にしか見えなかったけど、今は心臓の音に聞こえる気がする」
陽介は何も言わなかった。
しかし同じことを感じていた。
七・三五から七・四五。その回廊の中に心臓があって、リズムを刻んでいる。回廊を外れるたびに、そのリズムが乱れ始める。
透析室に戻ると、村上さんが目を閉じて横たわっていた。穏やかな顔だった。心電図のモニターが、規則正しい波形を描き続けていた。
その波形の一つ一つが、pHという均衡の上に成り立っていた。
今回はpHと酸塩基平衡を中心に書きました。
「pH7.35〜7.45」という数値は、医療系の教科書ではただの正常値として暗記させられることが多いと思います。でもこの数字の本当の意味——なぜこの幅でなければならないのか、外れるとどうなるのか——まで踏み込んで説明されることは意外と少ないのではと思い、今回はあえてそこを正面から描きました。
「pHが0.3下がるだけで水素イオン濃度が2倍になる」という対数の感覚を、桜の驚きを通して伝えられたのが個人的には満足しています。数字の差は小さく見えても、体の中では大きな変化として現れる。この「スケールの違い」に気づくことが、生化学を学ぶ意味の一つだと思っています。
終盤、真田さんが緊急手術で不在の中、陽介が一人で判断を迫られる場面は、知識が「試験のための暗記」から「現場で人を守るための道具」に変わる瞬間として書きました。村上さんの「理由が分かると、体を信じられる気がして」という言葉が、この章全体の結論です。次回(第11章「肺と腎臓の二重奏」)もよろしくお願いします。




