第11章 肺と腎臓の二重奏
今回はICUが舞台です。
COPDと慢性腎不全を持つ西村さんに、人工呼吸器と透析装置が同時に繋がれています。「なぜ二台が必要なのか」という問いから、陽介と桜は肺と腎臓それぞれの速さの違いを学んでいきます。
速い調節と遅い調節。二つが同時に壊れたとき、機械が二台になる理由が分かる章です。
そして今回は、陽介と桜の間に初めて小さな意見の対立が生まれます。どちらが正しかったのか——その問いは、この章の中で決着がつきません。
第1節 二台の機械が並ぶ朝
十一月に入って最初の週、ICUに新しい患者が入った。
六十代後半の男性で、名前を西村さんといった。慢性腎不全で透析歴が五年あり、加えて慢性閉塞性肺疾患、いわゆるCOPDを抱えていた。今回は肺炎をきっかけに呼吸状態が急激に悪化して、二日前から人工呼吸器管理に入っていた。
陽介がICUのベッドサイドに立ったとき、まず目に入ったのは機械の数だった。
ベッドの左側に人工呼吸器。右側に透析装置。両側から、チューブと回路が患者に向かって伸びていた。西村さんの体は、二台の機械に同時に繋がれていた。
「初めて見るか」
真田が後ろから来た。
「手術室では人工心肺と人工呼吸器を同時に管理したことがありますが」陽介は言った。「透析と人工呼吸器の同時管理は初めてです」
「桜は?」
「私も」桜は二台の機械を交互に見ながら言った。「なんか、体の両側から別々の機械が支えている感じがします」
「別々じゃない」真田は言った。「この二台は、同じ一つのことを守るために動いている」
「同じ一つのこと、というのは」陽介は聞いた。
「pHだ」
陽介は少し止まった。
先月の村上さんのことが頭にあった。pH七・一九。意識が揺らいだあの朝。重炭酸緩衝系の話。CO₂が増えれば酸性に傾き、HCO₃⁻が受け止める。そのバランスが崩れたとき、体が速い呼吸で代償しようとしていた。
「肺が呼吸でpHを調整して、腎臓が重炭酸イオンでpHを調整する」陽介は言った。「その二つが同時に壊れている患者さんに、機械が二台入っている」
「そういうことだ」真田は端末を開いた。「今朝の血液ガスを見ろ」
陽介は画面を覗いた。
pH 七・三〇。PaCO₂ 五十二mmHg。HCO₃⁻ 二十四・八mEq/L。
「PaCO₂が高い」陽介はすぐに言った。「基準値は三十五から四十五です。五十二は高い。COPDで肺がうまくCO₂を吐き出せていない」
「HCO₃⁻は」真田は続けた。
「二十四・八。ほぼ正常範囲です」陽介は少し考えた。「CO₂が増えて酸性に傾いているのに、HCO₃⁻が正常に近い。つまり腎臓が重炭酸イオンを溜め込んで、代償しようとしている?」
「している。ただし」
「この患者さんは腎臓が機能していない」桜が言った。「透析患者さんだから。腎臓による代償ができない」
「透析がその代わりをしている」陽介は続けた。「透析液の重炭酸濃度で、HCO₃⁻の量を調整している」
「だからこの二台が並んでいる意味が分かるか」真田は二人を見た。「人工呼吸器はCO₂の排出を調整する。透析はHCO₃⁻の補充を調整する。どちらか一台が欠けても、pHを守りきれない」
桜がICUのベッドを見渡した。人工呼吸器が規則正しく動いている。透析装置が低い音を立てている。西村さんは目を閉じたまま、二台の機械に守られていた。
「二台の機械が、一つのpHを守っている」桜は静かに言った。
「今日から二人に、この患者を一緒に担当してもらう」真田は言った。「人工呼吸器の設定と透析条件の両方を、同時に頭に置きながら動け。どちらか一方だけを見ていると、必ず判断を誤る」
陽介はもう一度、血液ガスの数値を見た。
pH七・三〇。回廊のすぐ外にいた。二台の機械が、その回廊に向かって押し返そうとしていた。
今日からそこに、自分たちも加わる。
第2節 式が動く方向
午前の透析が一段落した頃、真田が「時間を取れ」と言った。
三人でICUの前にある小さなカンファレンス室に入った。真田はホワイトボードに向かって、昨日も見た式を書いた。
CO₂ + H₂O ⇌ H₂CO₃ ⇌ H⁺ + HCO₃⁻
「先月、村上さんのときに出てきた式です」陽介は言った。
「覚えているか」
「はい。CO₂が水に溶けると炭酸になって、水素イオンと重炭酸イオンに分かれる。矢印が両方向なのは、反応が行き来するからです」
「今日はその行き来の方向を、もう少し丁寧に見る」真田はマーカーで式の左端、CO₂を指した。「西村さんの今朝のPaCO₂は五十二だった。COPDで肺が弱っているから、CO₂を吐き出しきれない。CO₂が血液に溜まる」
「式が右に進む」桜は言った。「CO₂が増えると、反応が右方向に動いて、H⁺が増える。pHが下がる」
「そうだ。これを呼吸性アシドーシスと呼ぶ」真田は式の右端、H⁺を丸で囲んだ。「肺の問題でCO₂が溜まって、酸性に傾く。原因が呼吸にある」
陽介はノートに書いた。呼吸性アシドーシス=CO₂の蓄積=式が右に傾く。
「では逆の場合を考える」真田は続けた。「今度は肺が過換気になったとする。CO₂を吐き出しすぎる。CO₂が減ると、式はどう動くか」
「左に動く」陽介は言った。「H⁺とHCO₃⁻が結合してH₂CO₃に戻り、さらにCO₂と水になる。H⁺が減る。pHが上がる」
「アルカリ性に傾く。呼吸性アルカローシスだ」真田はホワイトボードに縦線を一本引いて、左側に「アルカローシス」、右側に「アシドーシス」と書いた。「CO₂が増えるか減るかで、式が動く方向が変わる。その変化がpHに直結する」
「人工呼吸器の換気量を変えると」陽介は言った。「CO₂の量が変わって、式の動く方向が変わって、pHが変わる」
「だから人工呼吸器はpHの調整装置でもある」
桜がペンを止めた。「呼吸器って、肺の代わりに空気を送る機械だと思っていました。でもCO₂を調整することでpHを動かしている、ということですか」
「そうだ」真田は言った。「換気量を上げればCO₂が減ってpHが上がる。換気量を下げればCO₂が溜まってpHが下がる。その調整を、西村さんの場合は人工呼吸器がやっている」
「今朝の設定だと」陽介は端末を確認した。「一回換気量が五百ミリリットル、呼吸回数が一分間に十四回でした。PaCO₂が五十二だったので、もう少し換気量を上げてCO₂を下げた方がいいですか」
「その判断を医師に進言できるか」
陽介は少し考えた。「PaCO₂の目標値を確認して、現状との差を示しながら提案します。ただし西村さんはCOPDの既往があるので、CO₂を下げすぎると別の問題が起きる可能性があります」
真田は黙って陽介を見た。
「COPDの患者さんは、慢性的にCO₂が高い状態に慣れています」陽介は続けた。「急激にCO₂を下げると、それを代償するために腎臓が貯め込んでいたHCO₃⁻が余る。アルカローシスに傾く可能性がある」
「その通りだ」真田は言った。「だから西村さんの目標PaCO₂は、健常者の基準値ではなく、この患者なりの適正値を設定する必要がある。担当医と相談しながら動け」
桜がノートを見ながら言った。「式が右に動きすぎてもいけない。左に動きすぎてもいけない。ちょうどいい場所に保つために、換気量を調整する」
「それが呼吸器管理の核心だ」
陽介はホワイトボードの式を見た。両方向の矢印が、今日は以前より違って見えた。村上さんのときは、体が自力で式を左に戻そうとして速い呼吸をしていた。西村さんは、その仕事を人工呼吸器が担っている。
機械が式の動く方向を、外側から調整している。
「透析側は」桜が聞いた。「同じ式の中で、どこを担当しているんですか」
「それが次の話だ」真田はマーカーを置いた。
窓の外で、十一月の空が低く垂れていた。ICUの中で、西村さんに繋がれた二台の機械が、今も式の均衡を守り続けていた。
第3節 速い調節と遅い調節
翌朝、陽介は出勤前に西村さんの昨夜の血液ガスを端末で確認した。
pH七・三二。PaCO₂四十八mmHg。HCO₃⁻二十三・六mEq/L。
昨朝より少し改善していた。人工呼吸器の換気量を担当医が微調整した結果だった。回廊の手前まで戻りつつある。ただまだ外にいた。
透析室の朝の準備を終えてから、陽介はICUに顔を出した。桜もすでに来ていた。西村さんは目を閉じたまま、二台の機械に繋がれていた。呼吸器が規則正しく胸を動かしていた。
「昨日の続きを聞いていいですか」陽介は真田に言った。
「今から回診がある。その後でいい」
回診が終わったのは十時過ぎだった。三人でICUの前のカンファレンス室に入った。真田はホワイトボードに昨日の式をもう一度書いた。
CO₂ + H₂O ⇌ H₂CO₃ ⇌ H⁺ + HCO₃⁻
「昨日は肺がこの式のどこを担当しているかを話した」真田は言った。「今日は腎臓の話だ。ただその前に一つ確認する。肺と腎臓では、pH調節の速さが全然違う。それはなぜか」
陽介は少し考えた。「肺は呼吸の回数と深さを変えるだけで、すぐにCO₂の量を変えられる。でも腎臓は、HCO₃⁻を作ったり捨てたりするのに時間がかかる、ということですか」
「具体的にどのくらい違う」
「肺は分単位で動く、と聞いたことがあります。腎臓は時間から日単位だと」
「そうだ」真田はボードに二本の横棒を書いた。上の棒に「肺・分単位」、下の棒に「腎臓・時間〜日単位」と書き添えた。「体がpHの異常を感知したとき、まず肺が動く。呼吸数と深さを変えて、CO₂を増やすか減らすかする。これが速い調節だ」
「村上さんのときの速い呼吸が、それですね」桜は言った。「アシドーシスになって、肺が急いでCO₂を吐き出そうとしていた」
「そうだ。ただし肺の調節は応急処置に近い。CO₂の量を動かすことでpHを動かしているが、根本的な原因を取り除いているわけではない」
「根本的な原因を取り除くのが腎臓の仕事、ということですか」陽介は言った。
「腎臓は二つのことをする」真田はボードに書き足した。「一つ目は余分なH⁺を尿として捨てること。二つ目はHCO₃⁻を尿細管で回収して、血液に戻すことだ」
「H⁺を捨てて、HCO₃⁻を回収する」桜はノートに書いた。「つまり酸を減らして、アルカリを増やす。両方向から血液をアルカリ側に動かしている」
「そうだ。ただしこれに時間がかかる。腎臓が対応を完了するまで、数時間から数日かかることがある。その間、肺が速い応急処置を続けながら、腎臓がじっくりと根本を修正する」
陽介はその二段構えの仕組みを頭の中で組み立てた。速い肺と遅い腎臓が、役割分担しながら同じpHを守っている。緊急対応と長期修正が、同時に動いている。
「西村さんの場合、両方が壊れています」陽介は言った。「COPDで肺の速い調節が不十分で、透析患者だから腎臓の遅い調節もできない」
「だから機械が二台必要になる」真田は言った。「人工呼吸器が肺の代わりに速い調節を担う。透析が腎臓の代わりに遅い調節を担う。ただし機械は生きた臓器ではないから、自動的には動かない。CEが状況を読んで、条件を判断して、調整し続けなければならない」
桜がペンを置いて、ボードの二本の棒を見た。
「速い調節と遅い調節が、普段は一人の体の中で同時に動いている」桜はゆっくり言った。「それが当たり前すぎて、壊れるまで気づかない」
「気づかなくていい仕組みだからだ」真田は言った。「体は意識しなくてもpHを保つように設計されている。CEが必要になるのは、その設計が壊れたときだ」
「壊れたとき、初めて設計の精密さが分かる」陽介は言った。
「今週、お前たちはその精密さを目の当たりにしている」真田はボードのキャップを閉じた。「西村さんの数値を朝夕確認しろ。肺側の変化と腎臓側の変化を、それぞれ分けて追え。混同すると判断が狂う」
「分けて追う、というのは」陽介は確認した。「PaCO₂が呼吸器管理の指標で、HCO₃⁻が透析管理の指標、ということですか」
「大筋はそうだ。ただし二つは式で繋がっているから、片方を動かせば必ずもう片方に影響が出る。それを頭に置きながら動け」
真田が立ち上がった。
陽介はノートを閉じながら、西村さんのベッドを思い浮かべた。左側の人工呼吸器が速い調節を担い、右側の透析装置が遅い調節を担っている。二台の機械が、一つの式の両端を同時に押さえている。
その式の均衡を読むのが、自分たちの仕事だった。
廊下に出ると、十一月の光が窓から斜めに差し込んでいた。ICUの中で、西村さんの胸が規則正しく上下していた。
第4節 腎臓が行う静かな仕事
その日の午後、桜が端末を持って陽介のところに来た。
「西村さんの透析後の数値が出た」桜は言った。「見てもらえる?」
陽介は画面を覗き込んだ。
pH七・三四。PaCO₂四十七mmHg。HCO₃⁻二十四・二mEq/L。
「昨日より改善している」陽介は言った。「pHが七・三四まで戻ってきた」
「透析の条件を昨日変えたからだと思う」桜は言った。「透析液の重炭酸濃度を少し上げた。それでHCO₃⁻が増えて、pHが改善した、という理解でいい?」
「合っていると思う。ただ」陽介は少し考えた。「なぜ透析液の重炭酸濃度を上げるとHCO₃⁻が増えるのか、仕組みをきちんと説明できるか自信がなくて」
「私も同じ」桜は素直に言った。「真田さんに聞いてみよう」
真田は透析室の記録台で書類を確認していた。二人が近づくと、顔を上げずに「西村さんか」と言った。
「はい」陽介は答えた。「透析液の重炭酸濃度を上げると、なぜ血液のHCO₃⁻が増えるのか、仕組みを確認したくて」
真田は書類を置いた。立ち上がって処置室に向かった。二人はついていった。小さなホワイトボードの前に立って、マーカーを取った。
「透析の原理を思い出せ」真田は言った。「血液と透析液が、半透膜を挟んで向き合っている。物質は濃度の高い方から低い方へ移動する」
「拡散ですね」桜は言った。「老廃物が血液側から透析液側に移動するのも、濃度差があるからです」
「HCO₃⁻も同じ原理で動く」真田はボードに縦線を引いて、左側に「血液」、右側に「透析液」と書いた。「西村さんの血液のHCO₃⁻が低い状態のとき、透析液のHCO₃⁻濃度を高く設定すると、濃度差が生まれる。透析液側から血液側へ、HCO₃⁻が移動する」
「透析液から血液に、重炭酸が補充される」陽介は言った。
「そうだ。本来なら腎臓の尿細管がやる仕事だ」真田はボードに矢印を書いた。透析液側から血液側へ向かう矢印。「尿細管では、ろ過されたHCO₃⁻を回収して血液に戻す。透析はそれを体の外から補充することで代替している」
「腎臓は体の内側でHCO₃⁻を回収して、透析は体の外側からHCO₃⁻を補充する」桜は言った。「方向は逆だけど、血液のHCO₃⁻を増やすという目的は同じ」
「ただし腎臓にはもう一つの仕事がある」真田は続けた。「H⁺を尿として捨てることだ。血液の中に増えすぎたH⁺を、尿細管の細胞が能動的に尿の中に分泌して排泄する」
「透析でもH⁺は除去できますか」陽介は聞いた。
「H⁺は非常に小さいイオンなので、透析膜を通過する。ただし直接H⁺を測定して管理するより、HCO₃⁻を補充することでpHのバランスを整える方が現実的だ。H⁺を直接狙い撃ちするより、緩衝材を増やしてH⁺の影響を和らげる」
陽介はその考え方を頭の中で整理した。H⁺を減らすのではなく、H⁺を受け止めるHCO₃⁻を増やす。攻めるのではなく、守りを固める。
「腎臓がやっていることを整理すると」陽介は言った。「H⁺を捨てることと、HCO₃⁻を回収することの、二つですね。透析が代替できているのは主にHCO₃⁻の補充で、H⁺の直接排泄は完全には代替できていない」
「その通りだ」真田は言った。「だから透析だけではpHの管理に限界がある。人工呼吸器が呼吸側からCO₂を調整することで、足りない部分を補っている」
桜がノートを見ながら言った。「腎臓の仕事って、静かですね。H⁺を捨てて、HCO₃⁻を回収する。音もなく、症状も出ずに、毎日続けている」
「壊れるまで気づかれない仕事だ」真田は言った。「腎臓が止まって初めて、何をしていたかが分かる。透析患者さんが週三回ここに来る理由の一部は、その静かな仕事の代わりを機械にやってもらうためだ」
「西村さんは」陽介は言った。「肺も腎臓も、その静かな仕事が続けられなくなっている」
「だから二台が要る」真田はマーカーを置いた。「今日の透析後のデータを見たか」
「pH七・三四でした」桜は答えた。「昨日より改善しています」
「方向は悪くない」真田は言った。「ただし安定したわけではない。肺炎の炎症が続く限り、CO₂の産生は増え続ける。呼吸器の設定と透析条件を、毎日見直しながら動け」
「毎日、式の動く方向を確認しながら」陽介は言った。
「そういうことだ」
真田が処置室を出た。
桜はホワイトボードの矢印を見ていた。透析液側から血液側へ向かう矢印。腎臓が内側でやっていた仕事を、機械が外側から代わりにやっている。
「腎臓って」桜はつぶやくように言った。「本当に静かに働いていたんだね。これだけのことを、毎日、何十年も」
陽介は答えなかった。
しかし同じことを感じていた。
透析室に戻ると、田中さんが「今日は難しい顔してるな」と声をかけてきた。
「少し複雑なことを考えていました」陽介は言った。
「まあ、難しいことを考えるのがあんたらの仕事やからな」田中さんは笑った。「俺みたいな患者のために、頼みますわ」
チューブの中を、田中さんの血液が流れていた。その血液の中で、今も重炭酸イオンが酸を受け止めながら、均衡を保っていた。
腎臓が止まっても、機械がその仕事を引き継いでいた。静かに、毎回、確実に。
第5節 二重奏の意味
西村さんの肺炎が峠を越えたのは、入院から六日目の朝だった。
炎症反応の数値が下がり、発熱が治まり、人工呼吸器のサポート圧を少しずつ下げられるようになってきた。担当医が「来週には離脱を検討できるかもしれない」と言った。
陽介はその言葉を聞きながら、西村さんの今朝の血液ガスを確認した。
pH七・三七。PaCO₂四十四mmHg。HCO₃⁻二十四・九mEq/L。
回廊の中に入っていた。
「戻りましたね」桜が隣で言った。
「戻った」陽介は言った。「ただ西村さんは透析を続けながら離脱することになる。そこが普通の患者と違う」
「透析を続けながら呼吸器を外す、ということは」桜は少し考えた。「外した後、肺が自力でCO₂を調整できるかどうかが問題になりますね。COPDがあるから、健常者のようにはいかない」
「だから離脱のタイミングで透析条件を見直す必要がある。肺が担える分と透析が補う分を、新しいバランスで設定し直す」
二人でそんな話をしていると、真田が入ってきた。今日は朝から手術室の予定がなく、珍しくゆっくりした動きだった。西村さんのベッドを確認してから、二人に向いた。
「今日、時間を取れるか」
「はい」
「午後にする」
昼休みを挟んで、三人がカンファレンス室に入った。今日は真田がホワイトボードの前ではなく、珍しくテーブルに着いた。マーカーを手に持ったまま、少しの間だけ二人を見た。
「今週を振り返れ」真田は言った。「お前たちは何を学んだ」
陽介が先に口を開いた。「肺と腎臓が、それぞれ別の方法でpHを調節していることを学びました。肺はCO₂を吐き出す速さで調節する。腎臓はHCO₃⁻を回収してH⁺を捨てることで調節する。速さが違う二つの仕組みが、同時に動いている」
「桜は」
「二つが同時に壊れたとき、機械が二台要る理由が分かりました」桜は言った。「人工呼吸器が肺の仕事を担って、透析が腎臓の仕事を担う。どちらが欠けても、pHを守りきれない」
「それだけか」
二人は少し黙った。
真田は何も言わなかった。答えを急かすのではなく、考えさせている沈黙だった。
「機械は自動では動かない、ということです」陽介はゆっくり言った。「肺と腎臓は体の中で自動的に協調して動く。でも人工呼吸器と透析装置は、それぞれ別の機械で、協調させるのは人間の判断が必要だ。PaCO₂とHCO₃⁻を同時に頭に置きながら、どちらの条件をどう動かすかを考え続けなければならない」
「その判断の根拠が、生化学だ」真田は言った。「なぜCO₂が増えるとpHが下がるのか。なぜHCO₃⁻を補充するとpHが上がるのか。その理由が分かっていなければ、数値が動いたときに何をすればいいか判断できない」
「式の動く方向を読めるかどうかが、判断の分かれ目ですね」桜は言った。
「そうだ」真田は立ち上がった。ホワイトボードに向かって、今週何度も書いた式を書いた。
CO₂ + H₂O ⇌ H₂CO₃ ⇌ H⁺ + HCO₃⁻
「この式を、今週お前たちは患者のベッドサイドで見ていた」真田は言った。「西村さんのPaCO₂が下がるたびに、式が左に戻っていた。HCO₃⁻が補充されるたびに、H⁺が和らいでいた。モニターの数値の向こうで、この式が動いていた」
陽介はその言葉を聞きながら、今週の朝夕の数値の変化を頭の中で並べた。pH七・三〇から七・三二、七・三四、七・三七。少しずつ、回廊に向かって戻ってきた軌跡だった。
その軌跡の背後で、式が毎日動いていた。
「一つ聞いていいですか」陽介は言った。
「言え」
「体が自動でやっていることを、機械と人間が代わりにやる。それは完全な代替ではないと思います。どこかに限界がある。その限界を知っておくことが、判断を誤らないために大事だと思うんですが」
真田は少し間を置いた。
「完全な代替はない」真田は静かに言った。「肺は呼吸のたびに酸素を供給しながら同時にCO₂を調整する。腎臓は二十四時間、血液の成分を感知しながらリアルタイムで調節する。機械にはそのリアルタイム性がない。週三回の透析と、設定を変えた後に数時間かけて変化が出る呼吸器では、体の臓器の応答速度には及ばない」
「だから」桜は言った。「その限界の中で、できる限り体に近い環境を作ろうとするのがCEの仕事だ、ということですか」
「そういうことだ」真田はマーカーを置いた。「できないことを知った上で、できることを最大限やる。それが臨床だ」
部屋が静かになった。
陽介はホワイトボードの式を見た。両方向の矢印が、今週ずっとそこにあった。西村さんの体の中で動き続けていた式の、外側に書かれた記号。
肺と腎臓が担っていた均衡を、二台の機械と二人のCEが一週間守り続けた。完全ではなかった。しかし数値は回廊の中に戻っていた。
「来週、離脱に向けて動く」真田は言った。「その前に透析条件の見直し案を作っておけ。肺が自力で担える分を想定して、透析側でどこを補うか。二人で相談して、明後日までに持ってこい」
「はい」二人は同時に答えた。
真田が出ていった後、桜がホワイトボードの式をノートに書き写した。丁寧に、両方向の矢印まで含めて。
「なんか、この式が今週の全部を説明している気がする」桜は言った。
「そうだな」陽介は言った。
「西村さんが回廊に戻ってきたのは、この式を二台の機械と私たちで守ったからだ」
陽介は何も言わなかった。
しかしその通りだと思った。
透析室に戻ると、夕方の光が窓から差し込んでいた。田中さんが帰り支度をしながら「お疲れさん」と手を振った。岸本さんが「また三日後に」と言いながらゆっくり立ち上がった。
週三回、この部屋に来る人たちの体の中で、今も式が動いていた。腎臓の代わりに透析が、HCO₃⁻を補い続けていた。
二重奏は、毎回この部屋で演奏されていた。
第6節 どちらが正しかったか
翌日の昼休みに、桜が言い出した。
「西村さんに、ちゃんと説明したい」
陽介はコーヒーの紙コップを置いた。「何を」
「今週、何が起きていたか。pH値がどう動いたか。機械が何をしていたか。昨日真田さんが言ってたことをそのまま、西村さんに話したい」
「西村さんは今、肺炎が峠を越えたばかりだ」
「だから話せる。昨日より意識がはっきりしてる」
陽介は少し考えた。「式の話を、患者にするのか」
「式そのものを見せるわけじゃない。でも何が起きていたかを、自分の体のこととして知ってほしい」
「それが患者に必要なことか?」
桜は陽介を見た。「必要じゃないと思う?」
「今の西村さんに必要なのは、安静と回復だ」陽介は言った。「pHが何かを理解することじゃない。知識は回復の役に立たない」
「村上さんは違った」桜は言った。「理由が分かると、体を信じられる気がするって言ってた」
「村上さんは自分から聞いてきた。西村さんは求めてない」
「求めてないか、聞ける状態じゃなかっただけか、分からない」
「分からないなら、しない方がいい」
桜はしばらく黙った。
陽介は正しいと思っていた。患者への説明は医療者の義務だが、回復途上で不必要な情報を与えることが患者の利益になるかどうかは別の問題だ。知識を届けたいという衝動が、患者ではなく自分のためになっていないか、常に問わなければならない。
「じゃあ、聞いてみればいい」桜は言った。「西村さんに。話せる状態か、聞きたいかどうか」
「それも余計な負担になる」
「あなたはどうして、患者さんが何を必要としているか、聞く前に決められるの」
陽介は答えなかった。
言い返す言葉はあった。感情で動くな、臨床は正確な判断の積み重ねだ、患者の感情に寄り添うことと患者の利益を守ることは同じではない。そういう言葉が、喉の手前にあった。
しかし桜の声が「決められるの」と言ったとき、何かが引っかかった。
自分は今、何を根拠に「しない方がいい」と言ったのか。真田に学んだ臨床判断の基準か。それとも、桜が自分より先に何かをしようとしていることへの、別の何かか。
陽介は答えない代わりに、立ち上がった。「昼休みが終わる」
「陽介」
振り向かなかった。
午後の透析が終わった後、陽介はICUの前を通りかかった。
ガラス越しに、西村さんのベッドが見えた。
桜がベッドサイドに座っていた。
西村さんの方を向いて、何か話している。西村さんも話している。陽介のいる廊下まで声は聞こえなかったが、西村さんの表情は陽介が見ていたどの日よりも、少し穏やかだった。
陽介は立ち止まって、しばらくそれを見た。
桜が正しかったのかもしれない。あるいは今日たまたま西村さんの状態が良かっただけかもしれない。それは今日の陽介には判断できなかった。
判断できないまま、陽介は廊下を歩いた。
翌朝、陽介が透析室に入ると、桜がすでに回路の準備をしていた。
「昨日、西村さんと話した」桜は陽介の方を見ずに言った。
「分かった」
「怒ってる?」
「怒っていない」陽介は言った。「結果は?」
桜は少し間を置いた。「西村さん、知りたがってた。自分の体で何が起きていたか。一週間、数値が上下するたびに不安だったって。理由が分かったら、少し楽になったって言ってた」
陽介はプライミングの手順を確認しながら聞いていた。
「それと」桜は続けた。「あなたが言っていたことも、考えた」
「何を」
「患者が求めているかどうかを、聞く前に決めることが、患者のためなのか自分の都合なのか。私にも同じことが言えると思って」
陽介は手を止めた。
「伝えたいという気持ちが先に立っていたかもしれない。西村さんが本当に必要としていたのか、もう少し慎重に判断すべきだったかもしれない」
「俺もそれは同じだ」陽介は言った。「決める前に確認すればよかった」
桜が陽介を見た。
「どちらが正しかったか、分からない」陽介は続けた。「でも、どちらかが完全に間違っていたわけでもないと思う」
「それって、答えになってる?」
「なっていない」
桜は少し笑った。「正直だね」
「その方がいい」
透析室の朝が始まっていた。ポンプが回り、血液が外を流れ、十六人の体が今日も続いていく。
どちらが正しかったか、それは今日の二人には決着がつかなかった。
ただ、それぞれが昨日より少しだけ、相手の見ている場所を知っていた。
今回は肺と腎臓のpH調節の仕組みと、二台の機械が同時に入る意味を中心に書きました。
「なぜ人工呼吸器と透析が同時に必要なのか」という問いは、それぞれの臓器が「何を・どんな速さで」調整しているかを知らないと答えられません。CO₂とHCO₃⁻、速い調節と遅い調節、その役割分担が体の設計として存在していることを、今回は丁寧に積み上げました。
終盤の陽介と桜の対立は、今回書いていて一番時間をかけた場面です。「患者に説明すべきか」という問いに対して、陽介は「臨床的判断」を根拠に否定し、桜は「患者が自分の体を知る権利」を根拠に動きます。どちらも正しいところがあり、どちらも盲点がある。結果だけ見れば桜の行動は西村さんに喜ばれましたが、それが「正しかった」という証明にはならない、という構造を書きたかったです。
「どちらが完全に間違っていたわけでもない」という陽介のセリフは、この物語が「答えを出す話」ではなく「考え続ける話」であることの、一つの宣言のつもりです。次回(第12章「塩と水の均衡」)もよろしくお願いします。




