第8章 肝臓という名の工場長
今回は「アンモニア」がテーマです。
肝硬変の患者さんの血中アンモニアが基準値の3倍以上に上がり、意識レベルが落ちています。「なぜアンモニアが上がるのか」という真田さんの問いから、陽介と桜はタンパク質の分解から始まる長い旅を一歩ずつ辿っていきます。
グルタミンという「封筒」、肝臓だけが持つ「尿素回路」という専用工場。毎日の透析で確認しているBUNの正体が、ここで初めて明らかになります。
第1節 アンモニアが上がっている
朝のラウンドを終えた真田が、透析室に顔を出さずに直接ICUへ向かったのは、陽介が出勤してすぐのことだった。
珍しかった。透析の準備が始まる前に真田がいないのは、ほぼない。
桜が「何かあったのかな」と言いかけたとき、内線が鳴った。ICUからだった。
「柏木くん、来られる?」
真田の声だった。
ICUのベッド脇に、真田と担当医の井上が立っていた。患者は六十代の男性で、肝硬変の既往があった。三日前から意識レベルが落ちてきていて、昨夜から人工呼吸器管理に移行していた。
「血中アンモニアを見ろ」
真田が端末を差し出した。
アンモニア値が二百八十マイクログラム毎デシリットル。基準値の上限が八十程度だから、三倍以上になっていた。
「高いですね」陽介は言った。
「なぜ上がると思う」
陽介は少し考えた。アンモニアと肝臓の関係は、国家試験の範囲に入っていた。肝不全になるとアンモニアが処理できなくなる、という知識はあった。ただそれ以上の答えが、すぐには出てこなかった。
「肝臓がアンモニアを処理できなくなっているから、だと思います」
「それは結果だ」真田は言った。「なぜアンモニアが生まれるか、から考えろ」
陽介は黙った。
アンモニアが生まれる、ということは、どこかで作られているということだ。体の中で何かが分解されるときに出てくる。
「タンパク質を分解するときに出ますか」
「そうだ」真田は言った。「タンパク質がアミノ酸に分解されるとき、アミノ基が外れる。そのアミノ基がアンモニアの材料になる」
陽介はメモを取った。
「今日の午後、時間を取る」真田は続けた。「肝臓がアンモニアをどう処理しているか、それが止まるとどうなるか、順番に整理する」
「はい」
井上が口を開いた。「今は呼吸器管理と意識レベルの観察が主体ですが、アンモニアが下がらないと離脱が見えない。栄養管理も絡んでくるので、またカンファレンスに入ってもらいます」
「分かりました」
ICUを出ると、廊下で桜が待っていた。透析の準備が終わって、様子を見に来たらしかった。
「何の話だった?」
「肝不全の患者さん。血中アンモニアが三倍以上になってる」
「アンモニア?」桜は眉を寄せた。「体の中でアンモニアが出るの?」
「タンパク質を分解するときに出るらしい」
「タンパク質を燃やすと有毒なゴミが出る、ということ?」桜は言った。
陽介はその言い方を少し面白いと思った。有毒なゴミ。間違ってはいない。
「午後に真田さんが説明してくれる」
「私も聞いていい?」
「たぶん止めない」
二人は透析室に戻った。最初の患者がベッドに腰かけていた。田中さんだった。
「おはようさん」田中さんは関西弁で言った。「今日はお二人そろっとる。安心やな」
「おはようございます」桜が返した。「今日もよろしくお願いします」
陽介は回路を確認しながら、アンモニアという言葉を頭の中に置いていた。
タンパク質が分解されるとき、アミノ基が外れる。それがアンモニアになる。体はそれをどう処理しているのか。処理できなくなると、何が起きるのか。
透析室の朝が始まった。機械が動き始めた。田中さんの血液が、赤いチューブを流れ始めた。
第2節 アミノ基を外す仕事
午後の透析が安定した時間に、真田が小カンファレンス室に二人を呼んだ。
ホワイトボードの前に立って、マーカーを一本手に取った。いつもと同じ始まり方だった。
「アミノ酸の構造を覚えているか」
「基本構造は」陽介は言った。「中心の炭素にアミノ基とカルボキシ基と側鎖がついています」
「アミノ基はNH₂だ」真田はボードに書いた。「窒素が入っている。これが問題の元になる」
桜がノートを開いた。
「タンパク質はアミノ酸が繋がったものだ。体がタンパク質をエネルギーとして使うとき、あるいは不要なアミノ酸を処理するとき、まずこのアミノ基を外す」
「外すとどうなりますか」陽介は聞いた。
「アミノ基の窒素がアンモニアになる」真田はボードに書いた。NH₃。「アンモニアは毒だ。そのまま血液中に溜まると、脳に到達して神経を狂わせる」
「肝性脳症というやつですか」
「そうだ。今日の患者に起きていることだ」
桜が顔を上げた。「意識が落ちているのも、アンモニアのせいなんですね」
「脳の神経細胞はアンモニアに弱い。濃度が上がると、神経伝達が乱れる。意識が混濁し、最悪は昏睡になる」
陽介はメモを取りながら、朝の数字を思い出した。二百八十マイクログラム毎デシリットル。基準値の三倍以上。その数字が、患者の意識の混濁と繋がっていた。
「ただ」真田は続けた。「体はアンモニアをそのまま放置しない。処理する仕組みを持っている」
「それが肝臓ですか」
「その前に一段階ある」真田はボードに矢印を書いた。「アンモニアは毒性が強いので、血液で運ぶには危ない。だから一度、安全な形に変えてから運ぶ」
「安全な形?」桜が言った。
「グルタミンという物質に変換する。グルタミンはアンモニアを取り込んで、毒性のない形で血液中を運搬できる」
陽介はグルタミンという名前を書き留めた。アミノ酸の一種だった。
「グルタミンが肝臓まで届けて、そこでアンモニアを渡す、ということですか」
「そういうことだ。郵便物を封筒に入れて運ぶようなものだ。アンモニアという危険な中身を、グルタミンという封筒に包んで安全に届ける」
桜が「封筒か」と小声でつぶやきながらメモを書いた。
「肝臓に届いたグルタミンから、アンモニアが取り出される。そして肝臓の中で、アンモニアが無毒化される」真田はボードに次の言葉を書いた。「尿素回路」
「尿素回路」陽介は繰り返した。国家試験で出てきた言葉だった。ただ、試験のための暗記としてしか残っていなかった。
「肝臓の中にある専用の処理ラインだ。アンモニアを受け取って、尿素という無毒な物質に変えて送り出す。尿素は腎臓から尿として排泄される」
「BUNですね」陽介は言った。「血液尿素窒素。透析の管理でいつも見ている数値だ」
真田は少し止まった。「繋がったか」
「はい。BUNの『窒素』は、アミノ基の窒素が起点になっていたんですね。タンパク質を分解するとアミノ基が外れて、アンモニアになって、肝臓で尿素に変わって、腎臓から出ていく」
「その通りだ」
桜が「すごい」と小声で言った。陽介に向けたのか、独り言なのか、分からなかった。
「今日の患者はどこが止まっていますか」陽介は確認した。
「肝臓が壊れているので、尿素回路が回らない。グルタミンで運ばれてきたアンモニアを、尿素に変えられない。処理できないアンモニアが血液に溢れて、脳に届く」
「肝臓が止まると、アンモニアの出口がなくなる」桜が静かに言った。
「そうだ」
真田はマーカーをトレイに置いた。ボードには一本の流れが書かれていた。タンパク質→アミノ酸→アミノ基が外れる→アンモニア→グルタミンで運搬→肝臓→尿素回路→尿素→腎臓→尿。
陽介はその流れを書き写した。
毎日透析で確認しているBUNが、この長い流れの最後に置かれていた。タンパク質を食べるたびに始まる旅の、終着点だった。
「次は尿素回路の中を見る」真田は言った。「なぜ肝臓にしかできないのか、そこが核心だ」
「はい」
真田は部屋を出た。
桜がボードを眺めながら言った。「肝臓って、毒を処理する工場なんだね」
「工場長、という感じがする」陽介は言った。
「急に文学的なこと言うね」桜は小さく笑った。
陽介は何も言わなかった。
ボードの流れを、もう一度最初から目で追った。タンパク質が旅に出て、途中で危険な物質になって、封筒に包まれて運ばれて、工場で無害にされて、腎臓から出ていく。
その工場が止まると、毒が溢れる。
廊下から、透析室のアラームが小さく聞こえた。
第3節 封筒の中身
翌朝、陽介は出勤前に昨日のボードの内容をノートに清書した。
タンパク質→アミノ酸→アミノ基が外れる→アンモニア→グルタミンで運搬→肝臓→尿素回路→尿素→腎臓→尿。
流れは分かった。ただ、グルタミンという封筒がどういう仕組みでアンモニアを包むのか、そこがまだ曖昧だった。封筒に入れる、というのは比喩だ。分子レベルでは何が起きているのか。
透析室に入ると、桜がすでに回路の準備を始めていた。
「おはよう」桜は言った。「グルタミンのこと、調べてきた?」
「少し」陽介は言った。「お前は?」
「私も少し」桜はにやりとした。「でもよく分からなかった。アンモニアを取り込むって、どういうことなんだろうって」
「グルタミン酸という別のアミノ酸が関係していた」陽介は言った。「グルタミン酸にアンモニアがくっついてグルタミンになる。そうすることで、アンモニアが分子の中に取り込まれる」
「グルタミン酸がアンモニアを吸収する?」
「吸収というより結合する。グルタミン酸のカルボキシ基にアンモニアが結合して、アミド基になる。その状態がグルタミンだ」
桜はしばらく考えた。「つまりグルタミン酸という封筒があって、アンモニアをその中に貼りつけて、グルタミンという形で安全に運ぶ、ということ?」
「そういうことになる」
「その封筒を開けるのが肝臓、ということだね」桜は言った。「グルタミンが肝臓に届いて、またグルタミン酸とアンモニアに分離される」
「そこで初めてアンモニアが取り出されて、尿素回路に入る」
午後になって、真田が小カンファレンス室に来た。昨日の続きだった。
「グルタミンについて、自分たちで調べてきたか」
「はい」陽介は答えた。「グルタミン酸にアンモニアが結合してグルタミンになる。肝臓でグルタミナーゼという酵素が分解して、アンモニアを取り出す、というところまで確認しました」
真田は少しの間、陽介を見た。「グルタミナーゼ、という名前まで調べてきたか」
「昨日、先輩が酵素には名前がある、と言っていたので」
真田は何も言わなかった。ただマーカーを取って、ボードにグルタミナーゼと書いた。
「グルタミンが肝臓に届いてアンモニアが取り出される。そのアンモニアが尿素回路に入る」真田は続けた。「ここで一つ押さえておくことがある。グルタミンによるアンモニア運搬は、肝臓だけが目的地じゃない」
「他にも届ける先がありますか」陽介は聞いた。
「腎臓だ」真田はボードに矢印を二本引いた。一本は肝臓へ、もう一本は腎臓へ。「腎臓でもグルタミンからアンモニアが取り出されて、尿として直接排泄される。体が酸性に傾いたとき、腎臓はアンモニアを使って水素イオンを中和しながら排泄する」
「酸塩基平衡と繋がっている」陽介は言った。
「繋がっている。生化学は別々に存在しない。アンモニアの話をしていると思ったら、気づけばpHの話になる」
桜が「また繋がった」と小声で言った。
「グルタミンという物質が、なぜ重要かが分かるか」真田は二人に向けた。
桜が先に口を開いた。「毒を安全に運ぶだけじゃなくて、届け先によって使い方が変わる、ということですか。肝臓では尿素回路の材料になって、腎臓では酸の中和に使われる」
「そうだ」真田は短く言った。「一つの分子が、場所によって役割を変える。体の仕組みはそういう風にできている。一つのパーツに複数の仕事を持たせることで、効率よく動いている」
陽介はノートに書いた。グルタミンの届け先、肝臓と腎臓。役割はそれぞれ違う。
「もう一つ」真田は言った。「グルタミンは脳でも作られる。脳はアンモニアに弱いと言ったが、脳自身もアンモニアをグルタミンに変えて自衛している。グルタミン合成酵素が脳に豊富にあるのはそのためだ」
「脳が自分でアンモニアを封筒に入れて、自衛している」桜はゆっくりと言った。「でも肝不全になってアンモニアが大量に増えると、その自衛が追いつかなくなる」
「追いつかなくなったとき、意識が落ちる」
沈黙があった。
陽介は今日の患者を思った。ICUのベッドで、人工呼吸器に繋がれたまま意識が戻らない六十代の男性。その脳の中で、グルタミン合成酵素が今もアンモニアと戦っているかもしれなかった。戦い続けているが、追いつかない。
「封筒を作る仕事が、どこかで限界を迎えている」陽介は小声で言った。
真田は答えなかった。
ボードの矢印が、肝臓と腎臓と脳に向かって三本、静かに伸びていた。
第4節 唯一の無毒化工場
その日の夕方、ICUの患者のアンモニア値が再検された。
三百十マイクログラム毎デシリットル。昨日より上がっていた。
井上が真田に報告し、真田が陽介を呼んだ。三人でベッドサイドに立った。患者は人工呼吸器に繋がれたまま、目を閉じていた。呼びかけに反応しない。
「尿素回路の話を今日中にやる」真田は言った。「理屈が分かっていないと、この患者の管理の意味が見えない」
カンファレンス室に戻ると、桜も来ていた。真田は何も言わずにマーカーを取った。
「尿素回路は肝臓の中にしかない」
最初の一言だった。
「他の臓器にはないんですか」陽介は確認した。
「ない。グルタミンによる運搬は全身の細胞でできる。しかしアンモニアを尿素に変える最終工程は、肝臓だけが持っている。だから肝臓が壊れると、アンモニアの出口が完全に塞がれる」
真田はボードに円を描いた。回路、という形を示すための円だった。
「尿素回路は五つの反応が順番に繰り返されるサイクルだ。一つひとつの反応に専用の酵素がいる。どれか一つが欠けても回路は止まる」
「先天性の酵素欠損症がありますね」陽介は言った。「新生児のアンモニア血症で、早期発見が重要な」
「そうだ。生まれつき尿素回路の酵素が一つ欠けているだけで、アンモニアが処理できなくなる。治療しなければ脳障害が起きる」
桜が静かに言った。「生まれたときから、その工場の部品が一個足りない状態、ということですか」
「一個で工場全体が止まる」真田は言った。「それが酵素の話で繰り返し出てくることだ」
陽介は透析回路のアラームが鳴ったあの日、真田が言った言葉を思い出した。酵素という仲介役が一つ欠けると連鎖が止まる。あのときは透析回路のアラームと重ねて聞いていた。今は尿素回路という言葉の重さで、同じことが聞こえた。
「尿素回路が回ると、アンモニアはどうなりますか」陽介は聞いた。
「最終的に尿素という分子になる」真田はボードに書いた。CO(NH₂)₂。「炭素一つ、酸素一つ、窒素二つ、水素四つ。アンモニアの窒素がここに封じ込められる。尿素は毒性がほぼない。水によく溶ける。腎臓から尿として問題なく排泄できる」
「アンモニアという危険な形から、尿素という安全な形に変える」桜は言った。「それだけのために、五段階の反応がある」
「それだけのために、だ」真田は繰り返した。「体は毒を毒のまま扱わない。必ず安全な形に変換してから処理する。その変換をどこでやるかが、臓器の役割分担になっている」
陽介はその言葉を書き留めた。毒を毒のまま扱わない。
「今日の患者は」陽介は確認した。「肝硬変で肝細胞が壊れているので、尿素回路の酵素が十分に働いていない。アンモニアが尿素に変えられないまま血液に溢れている、ということですか」
「そうだ。肝硬変が進むと、正常に機能する肝細胞の数が減っていく。尿素回路を回せる細胞が減る。処理できるアンモニアの量が下がっていく」
「一度壊れた肝細胞は戻らないんですか」桜が聞いた。
「肝臓には再生能力がある。ただ硬変まで進むと、壊れた部分が線維化して機能しない組織に置き換わる。工場の設備が、動かないコンクリートで埋め尽くされていくようなものだ」
桜はゆっくりとメモを取った。
「治療はどうなりますか」陽介は言った。
「アンモニアを下げることに集中する。腸内細菌がタンパク質を分解してアンモニアを産生するので、それを減らす薬を使う。タンパク質の投与量を調整する。透析で除去できる分は限られているが、補助的に使うこともある」
「透析でアンモニアは取れますか」
「分子量が小さいので透析膜を通過する。ただ産生量が多すぎると追いつかない。根本は肝臓の機能を補うことだ。それができないなら、産生を減らすしかない」
陽介は今日の患者の管理が、どういう意味を持っているかを改めて整理した。人工呼吸器は意識が落ちた患者の呼吸を補っている。薬でアンモニアの産生を抑えている。栄養管理でタンパク質の量を慎重に調整している。それら全部が、尿素回路という一本の流れが止まっていることへの、様々な角度からの対処だった。
「CEとしてこの患者に何ができますか」陽介は聞いた。
「呼吸器管理を安定させることだ」真田は言った。「アンモニアが上がると呼吸が乱れることがある。過換気になってCO₂が下がりすぎると、脳への血流が変わる。呼気ガスを見ながら換気設定を細かく調整することが今の仕事だ」
「呼吸器の管理が、脳を守ることに繋がっている」
「繋がっている」
真田はマーカーを置いた。ボードには尿素回路の円と、そこに繋がる矢印がいくつか書かれていた。アンモニアが入ってきて、五段階を経て、尿素として出ていく。
その円が止まっているとき、体の中で何が起きているか。
今日の患者のベッドサイドで、陽介はその円を思い浮かべていた。回らない回路と、溢れていくアンモニアと、それでも動き続けているグルタミン合成酵素と。
窓の外が暗くなっていた。ICUの廊下に、夜勤の看護師が歩いてくる足音が聞こえた。
第5節 肝臓が作って、腎臓が捨てる
三日後の朝、ICUの患者のアンモニア値が百九十マイクログラム毎デシリットルまで下がっていた。
まだ基準値の倍以上だった。ただ三百を超えていた数字が、確実に動いていた。
陽介は呼気ガスのデータを確認してから、ベッドサイドに立った。患者の目は閉じたままだった。ただ昨日より、眉間のわずかな緊張が和らいでいるように見えた。気のせいかもしれなかった。
「少し下がりましたね」桜が小声で言った。
「うん」
「戻ってきてくれるかな」
陽介は答えなかった。答えを持っていなかった。
午前の透析が一段落した頃、真田が透析室に顔を出した。いつもより少し早い時間だった。
「昨日の続きをやる」
二人は真田についてカンファレンス室に入った。
「尿素が腎臓から排泄されるルートを整理する」真田はボードに向かいながら言った。「肝臓が作った尿素は、血液に乗って全身を巡る。腎臓の糸球体でろ過されて、尿細管で一部再吸収されながら、最終的に尿として体の外に出る」
「BUNですね」陽介は言った。「透析の管理で毎回見ている数値が、この尿素の量を反映している」
「血液中の尿素窒素濃度だ。タンパク質をたくさん食べると、アミノ酸の分解が増えて、アンモニアの産生が増えて、尿素が増えて、BUNが上がる」
「透析患者さんにタンパク質の摂りすぎを注意するのは、BUNが上がりすぎるからなんですね」桜は言った。「腎臓が働いていれば尿として捨てられるはずの尿素が、腎臓がないと溜まっていく」
「透析がそれを代わりに除去している」真田は言った。「ただ週三回しかできない。だから食事でタンパク質の量を調整して、産生量そのものを抑える必要がある」
陽介はノートに書き足した。タンパク質の摂取量→アミノ酸分解→アンモニア産生→尿素回路→BUN。透析室で毎日見ている数値の背後に、この長い流れがあった。
「一つ確認させてください」陽介は言った。「肝不全の患者さんは尿素回路が回らないので、BUNは逆に下がりますか」
真田は少し止まった。「なぜそう思う」
「アンモニアが尿素に変換されないなら、BUNとして出てくる量が減るはずです。アンモニアは上がるのに、BUNは低いという状態になるのかと」
「そうなることがある」真田は言った。「肝不全ではアンモニアが高くてBUNが低い、という一見矛盾した検査値の組み合わせが出ることがある。それを見たら、尿素回路が回っていないサインとして読む」
陽介はその組み合わせをノートに書いた。アンモニア高値+BUN低値=肝臓の尿素回路不全。数字の組み合わせが、臓器の状態を語っていた。
「もう一つ繋がりがある」真田は続けた。「透析患者は腎臓がないので、尿素が尿として排泄できない。BUNが溜まる。同時に、今日の肝不全患者のように肝臓も悪くなると、アンモニアも尿素にできない。両方が詰まる」
「肝臓と腎臓が両方悪くなると、出口が二重に塞がれる」桜が言った。
「肝腎症候群という病態がある」真田は言った。「肝不全が進むと、腎臓の血流が低下して腎機能も落ちる。肝臓が壊れることで腎臓まで道連れになる」
「そういうときに透析が必要になることがありますか」
「ある。肝臓を治すための時間を稼ぐために、腎臓の代わりを透析がやる。肝臓の回復を待ちながら、アンモニアや尿素を少しでも除去する」
「機械が二つの臓器の代わりをする」桜はゆっくり言った。「人工呼吸器と透析が同時に動いている患者さんが、それだ」
「酸塩基平衡の管理で出てくる話と、また繋がってくるんですね」
真田はボードのアンモニアから尿素、尿素から腎臓へと矢印を引いた。そしてその横に、透析の記号として小さな四角を書いた。
「肝臓が作って、腎臓が捨てる」真田は言った。「この二臓器の連携が止まったとき、俺たちの機械が入る。それがCEの仕事の一つだ」
陽介はその言葉を、頭の中で繰り返した。
透析室で毎回確認するBUNが、肝臓の尿素回路の産物だった。人工呼吸器の呼気ガスに映るCO₂が、細胞の燃料の状態を教えていた。ICUのアンモニア値が、肝臓という工場の稼働状況を示していた。
機械が読む数字の向こうに、臓器の仕事が見えていた。
「今日の患者さん、アンモニアが少し下がっていました」陽介は言った。
「見た」真田は短く言った。「まだ予断を許さない。ただ方向は悪くない」
それだけだった。
カンファレンス室を出ると、廊下に午後の光が差し込んでいた。桜が隣を歩きながら言った。「肝臓と腎臓って、ずっと一緒に働いていたんだね。透析室で腎臓の代わりをしている間も、肝臓がアンモニアを処理し続けていた」
「そういうことになる」
「じゃあ透析患者さんで肝臓が悪くなってきたら、二重に大変なことになる」
「なる。だから透析患者さんの肝機能検査も定期的に確認する」
桜はしばらく黙って歩いた。
「CEって、見ている範囲が広いんだね」桜はつぶやくように言った。「機械を動かしながら、その向こうにある臓器を全部、頭に入れていないといけない」
陽介はうなずいた。
透析室の扉が見えてきた。午後の患者がもう来ている時間だった。
今回はアンモニアと尿素回路を中心に書きました。
このテーマを選んだのは、「BUN(血液尿素窒素)」という、CEなら毎日のように目にする数値の"正体"を、一度しっかり物語の中で解き明かしたかったからです。タンパク質を食べることから始まる長い旅の終着点が、実はあの数値だった、という構造を、読者にも一緒に発見してもらえたら嬉しいです。
「毒を毒のまま扱わない」という真田さんの言葉は、この章で一番伝えたかったことです。体の仕組みは、危険なものを安全な形に変換してから処理する、という知恵に満ちています。グルタミンという「封筒」の比喩も、桜の発想から生まれた言葉で、書いていて自分も納得できました。
新生児の先天性代謝異常の話を少し挟んだのは、尿素回路という仕組みが、生まれたときから一生関わってくる重要なシステムだということを伝えたかったからです。
肝臓と腎臓、二つの臓器の連携が止まったときに機械が代わりを担う、という終盤の場面は、CEという仕事の核心の一つだと思っています。次回もよろしくお願いします。




