第7章 息の読み方
今回はICUが舞台です。
人工呼吸器管理中の患者のデータを前に、桜の何気ない問いから、陽介は自分が数字を「見ていた」だけで「読んで」いなかったことに気づきます。
呼吸商(RQ)という指標を手がかりに、糖と脂肪、どちらを今細胞が燃やしているのかを読み解く力を、陽介は栄養士・医師との連携の中で実践に移していきます。
「数字の後ろに細胞を置け」という真田さんの言葉が、この章の鍵になります。
第1節 比率を見ていなかった
朝のカンファレンスが終わって少し経った頃、陽介はICUの前室でエプロンをつけながら、昨日確認し切れなかった数値を頭の中で整理していた。
今日は手術後の患者の担当だった。腹部大動脈瘤の開腹手術から二日目。人工呼吸器管理が続いている。
「柏木くん、呼気ガスのデータ、もう見た?」
桜が声をかけてきた。透析室と手術室を行き来する日が続いていて、桜も今日はICU応援の当番だった。
「見てた。VCO₂が少し高めだけど、許容範囲じゃないかと思って」
「そう?」
桜の声に、少し引っかかりがあった。はっきりとした指摘ではない。ただの相槌でもない。
「気になること、ある?」陽介は聞いた。
「うーん」桜はしばらく端末を見ていた。「なんか、VCO₂だけじゃない気がして。VO₂との比率、見た?」
陽介は少し間を置いた。
VO₂は酸素消費量。VCO₂は二酸化炭素産生量。二つは確認していた。それぞれ単体では。
「比率は……」陽介は端末に目を戻した。
数字が並んでいる。VO₂が二百四十ミリリットル毎分。VCO₂が二百四十二ミリリットル毎分。
ほぼ同じ数字だった。
「ほぼ一対一、ということ?」
「そう」桜は言った。「それって普通なのかな、って思って」
陽介は答えようとして、止まった。
普通かどうか、自信がなかった。VCO₂が高いことだけを気にしていた。VO₂との比率を、きちんと意識していなかった。
「真田さんに確認してみる」陽介は言った。
「私もそう思ってた」桜はあっさり言った。
廊下の奥から真田が歩いてきた。今日は朝から手術室と掛け持ちで、ICUは昼から合流という予定だったが、少し早めに顔を出したらしい。
「何を悩んでる」
一言だった。廊下を歩きながら、こちらを見ずに言った。
「患者のVO₂とVCO₂の比率です」陽介は言った。「ほぼ一対一なんですが、これを意識して読んだことがなくて」
真田は立ち止まった。端末を取って、数字を確認した。
「お前は何を確認してた」
「VCO₂が高めかどうか、だけを見てました」
真田は少しの間だけ陽介を見た。責めているわけでも、呆れているわけでもない、ただ確認するような目だった。
「比率には名前がある」真田は言った。「呼吸商。RQと呼ぶ。VCO₂をVO₂で割った値だ」
「RQ……」陽介は繰り返した。
「今日の午後、時間を作れ」真田は端末を返しながら言った。「それだけ知っておけば今は動ける。患者の換気設定に問題はない。ただ、数字の意味を読めていないのと読めているのとでは、次のアクションが変わる」
それだけ言って、真田はICUの中へ入っていった。
陽介は端末の数字を見た。VO₂と、VCO₂。その比率。
桜が隣で静かに言った。「呼吸商、私も聞いたことなかった」
「俺も」陽介は正直に言った。「比率が何を意味するのか、全然考えたことがなかった」
桜は少し考えてから言った。「吸う量と出す量の比率が違うってことは、体の中で何かが変わってる、ってこと?」
陽介はその問いを頭の中で転がした。
吸い込んだ酸素の量と、吐き出した二酸化炭素の量。それが同じとき、違うとき。その差が何を示すのか。
機械が換気をしている。肺が動いている。ただ、その呼気の中に、細胞の状態が刻まれている。
「午後、真田さんに聞いてみよう」陽介は言った。
ICUのモニターが静かに波形を描いていた。患者の胸が、人工呼吸器のリズムに合わせて上下していた。
第2節 呼吸商という名前
午後の透析が落ち着いた時間に、真田がICUの前室に顔を出した。
「来い」
それだけだった。陽介と桜はカルテから目を上げて、真田の後についた。廊下の端にある小さなカンファレンス室だった。テーブルが一つ、椅子が三つ。真田はホワイトボードのマーカーを一本取り上げた。
「呼吸商の話をする」
陽介はすぐにメモを開いた。
「RQはVCO₂をVO₂で割った値だと言った」真田はボードに大きく書いた。
RQ = VCO₂ ÷ VO₂
「VCO₂は一分間に体が出す二酸化炭素の量。VO₂は一分間に体が使う酸素の量だ」
「今日の患者さんは両方ほぼ同じだったので、RQはほぼ一ですね」陽介は言った。
「そうだ。正常値は〇・七から一・〇の範囲だ。健常人の安静時はだいたい〇・八前後になる」
桜が手を挙げかけて、止めた。「あの、聞いていいですか」
「言え」
「RQが〇・八って、吸った酸素より出す二酸化炭素の方が少ない、ということですよね。それって……体の中で何が起きているからですか」
真田はボードに向かったまま、少しの間だけ止まった。
「いい質問だ」
桜が陽介をちらりと見た。真田が「いい質問だ」と言うのは珍しかった。
「細胞の中で何かを燃やすとき、使った酸素の量と出た二酸化炭素の量は、燃やしたものによって変わる」真田は続けた。「糖を燃やすときと、脂肪を燃やすときとで、比率が違う」
「比率が変わる……」陽介は繰り返した。
「糖質を燃やすと、RQは一・〇になる。脂質を燃やすと、RQは〇・七になる。たんぱく質はその中間で、だいたい〇・八程度だ」
真田はボードに三行書いた。
糖質 RQ = 1.0 脂質 RQ = 0.7 たんぱく質 RQ ≒ 0.8
桜がじっと数字を見ていた。
「糖を燃やすとぴったり一、脂肪を燃やすと〇・七……なんで比率が違うんですか」
「分子の構造が違うからだ」真田は言った。「糖は炭素と水素と酸素が、最初からバランスよく含まれている。脂肪は炭素と水素が多くて、酸素がほとんど入っていない」
「酸素が少ない?」桜は繰り返した。
「脂肪は酸素を外からたくさん取り込んで燃やす必要がある。だから使うVO₂が大きくなる。その割に出るCO₂は少ない。結果としてRQが低くなる」
陽介はメモを取りながら、少し頭の中で組み立て直した。
糖質は分子の中にすでに酸素を持っている。だから燃やすときに外から取り込む酸素が少なくて済む。出るCO₂と使うO₂の量がほぼ等しい。だからRQが一に近い。
脂肪は酸素をほとんど持っていない。燃やすためにたくさんの酸素が必要だ。でも出るCO₂の量はそこまで増えない。だからRQが下がる。
「整理すると」陽介は言った。「RQが高いほど糖を使っていて、低いほど脂肪を使っている、ということですか」
「そういうことだ」
「じゃあRQを見れば、今の体が何を燃料にしているか分かる、ということ?」桜が言った。
真田はマーカーをボードのトレイに置いた。
「それが呼吸商の意味だ」
桜はしばらくボードを見ていた。
「吐いた息に、そんな情報が入っているとは思わなかった」
陽介も同じことを感じていた。呼気は排泄物だと思っていた。体が使い終わったCO₂を外に出しているだけだと。
ところがその量と酸素消費量の比率が、細胞の中で今何が燃えているかを教えている。
「今日の患者さんのRQが一に近かったのは、糖質を燃やしていたから、ということですか」陽介は確認した。
「そうだ。輸液で糖が入っている。それを使っていた」
「では、もし絶食が長引いて糖の補給がなかったら、RQは下がる?」
「どうなるか、次に考えろ」
真田は立ち上がって部屋を出た。
残された二人は、ボードの三行を見ていた。
糖質 RQ=1.0。脂質 RQ=0.7。たんぱく質 RQ≒0.8。
「呼気を測ることが、細胞の燃料を測ることになってる」桜はゆっくり言った。
陽介はうなずいた。
肺は空気を交換しているのではなく、細胞の状態を外に映し出している。人工呼吸器が吸わせ、吐かせているその空気の中に、全身の細胞が何を使って動いているかが書かれている。
窓の外で、夏の夕日が病棟の壁を橙色に染めていた。
第3節 分子の中の酸素
翌朝、陽介は出勤前に三十分だけ早く家を出た。
駅のホームのベンチに座って、スマートフォンで糖質の分子式を調べた。グルコース。C₆H₁₂O₆。炭素が六つ、水素が十二、酸素が六つ。
脂肪酸の代表例として出てきたのはパルミチン酸。C₁₆H₃₂O₂。炭素が十六、水素が三十二、酸素が二つ。
数字を並べて見比べた。
グルコースは炭素六つに対して酸素六つ。ほぼ同数だ。パルミチン酸は炭素十六つに対して酸素がたった二つ。
真田が言っていた。脂肪は酸素をほとんど持っていない、と。
電車の中で、陽介はノートの端に式を書いた。グルコースが完全に燃えると、C₆H₁₂O₆に酸素が加わってCO₂と水になる。使う酸素は六モル、出るCO₂も六モル。だからRQは六÷六で一・〇。
きれいに割り切れる。
脂肪の方は酸素が足りない分、外から大量に補う必要がある。出るCO₂よりも使うO₂の方が多くなる。だからRQが一より小さくなる。
数字の上では納得できた。ただ、それが体の中でどういう意味を持つのか、まだ実感がなかった。
病院に着くと、桜がすでに更衣室の前で待っていた。
「おはよう。昨日の続き、考えてきた?」
「少し」陽介は言った。「分子式で確認してみた」
「私はもっと直感的に考えてみた」桜は歩きながら言った。「脂肪って、ギュッと詰まったエネルギーだよね。山田さんへの説明のとき、脂質は九キロカロリー毎グラムって話が出たじゃないですか」
陽介はうなずいた。脂質は糖質の二倍以上のエネルギーを持っている。
「それって、同じ重さで二倍のエネルギーがある、ってことは、燃やすのにも二倍の手間がかかるってことじゃないかな、って」
「手間?」
「酸素をたくさん使う、っていう意味で」桜は続けた。「ギュッと詰まっている分だけ、解くのに酸素をたくさん消費する。だからVO₂が大きくなって、RQが下がる」
陽介は少し止まった。
分子式から入った自分の考えと、エネルギー密度から入った桜の考えが、同じ場所に着いていた。
「そういうことだと思う」陽介は言った。
透析室に入ると、真田がすでにモニターを確認していた。振り返りもせずに言った。
「分かったか」
「分子式で確認しました」陽介は言った。「グルコースはC₆H₁₂O₆で、炭素と酸素がほぼ同数含まれています。燃焼させると使うO₂と出るCO₂が同じ量になって、RQが一・〇になります」
「脂肪は?」
「パルミチン酸で確認しました。C₁₆H₃₂O₂です。炭素十六に対して酸素が二つしかない。燃焼に必要な酸素をほぼ全て外から取り込む必要があるので、VO₂が大きくなります。出るCO₂に対して使うO₂が多いから、RQが〇・七になる」
真田は黙って聞いていた。
「三浦は」
桜は少し背筋を伸ばした。「脂肪はギュッと詰まったエネルギーなので、解くのに酸素をたくさん使う、と考えました。山田さんへの説明で、脂質は九キロカロリー毎グラムだと話していたので、そこから逆算した感じです」
真田はモニターに目を戻したまま言った。「計算は合っている」
桜が小さくガッツポーズをした。陽介には見えていたが、真田には見えていなかった。
「一つ付け加える」真田は言った。「RQが一・〇を超えることがある」
「一を超える?」陽介は聞いた。「それはどういうときですか」
「糖を摂りすぎたとき、体は余った糖を脂肪に変えようとする。その変換の過程でCO₂が余分に出る。使う酸素より出るCO₂の方が多くなるから、RQが一を超える」
「糖を脂肪に変えている、というサインが呼気に出る」陽介は繰り返した。
「輸液で糖を入れすぎているときも同じことが起きる」真田は続けた。「人工呼吸器管理中の患者でRQが一を大きく超えてきたら、栄養管理を見直す必要がある。CO₂が増えると呼吸への負担が上がる。呼吸器を離脱しにくくなる」
陽介は昨日の患者を思い出した。RQがほぼ一・〇だった。輸液の糖が適切に使われていた、ということだ。もし一を大きく超えていたら、糖が過剰で、CO₂が増えて、呼吸器の設定に影響が出ていたかもしれない。
「RQは栄養の指標でもあるんですね」桜が言った。
「呼吸の話と栄養の話は繋がっている」真田は言った。それ以上は説明しなかった。
陽介はメモに書き足した。
RQ<0.7 …… 測定誤差、または飢餓状態 RQ=0.7 …… 脂質をメインに燃やしている RQ=0.8前後 …… 混合燃料(安静時の正常値) RQ=1.0 …… 糖質をメインに燃やしている RQ>1.0 …… 糖過剰、脂肪への変換が起きている
数字の列が、体の中の出来事を表していた。
桜が隣からメモを覗いて言った。「呼気って、体が今何をしているかの実況中継みたい」
陽介はその言い方が、妙に正確だと思った。
実況中継。細胞が今どの燃料を使っているか。それが呼気の成分比として外に出てくる。人工呼吸器はその出口に付いているセンサーで、細胞の状態を読んでいる。
透析室の朝が始まっていた。最初の患者が車椅子で入ってきた。
第4節 絶食の体が燃やすもの
その日の午後、新しい患者がICUに入った。
七十代の男性。消化管の手術後、腸管の回復を待つあいだ経口摂取ができない状態が続いていた。術後四日目。中心静脈からの輸液で管理されていたが、担当医から「呼吸器の離脱を検討したい」という話が上がっていた。
陽介は人工呼吸器のパラメータを確認しながら、呼気ガスのデータを開いた。
VO₂が百九十ミリリットル毎分。VCO₂が百三十五ミリリットル毎分。
RQを計算した。百三十五÷百九十。
〇・七一。
「桜さん」陽介は小声で呼んだ。「このRQ、見てもらえる?」
桜がモニターを覗き込んだ。数字を確認して、少し目を細めた。
「〇・七に近い」
「そう。昨日整理した表だと、脂質をメインに燃やしているときの値だ」
「でもこの患者さん、輸液で糖が入ってますよね」桜は言った。「なのに脂肪を燃やしている?」
陽介はそこで少し止まった。
輸液の内容を確認した。糖の量が、必要カロリーに対して少なかった。術後の消化管安静を優先した管理で、カロリー投与が抑えられていた。
「糖が足りていない」陽介は言った。「足りない分を、体が脂肪で補っている」
「脂肪って、自分の体の脂肪を使うってこと?」
「そう。皮下脂肪や内臓脂肪を分解して、脂肪酸を取り出してエネルギーにする。カルニチンを使ってミトコンドリアに脂肪酸を運んで、β酸化で燃やす」
桜はしばらく考えてから言った。「藤井さんのときに出てきた話だね。透析でカルニチンが失われると、脂肪が燃やしにくくなるって」
「同じ仕組みだ」
「じゃあこのRQが〇・七に近いのは、体が脂肪モードになっているサインなんだ」桜はゆっくりと言った。
陽介はうなずいた。数字が、細胞の状態を語っていた。
真田が近づいてきた。陽介は先に口を開いた。
「術後四日目の患者さん、RQが〇・七一です。カロリー投与が不足していて、体が脂肪を燃料にしていると考えました」
真田は端末を確認した。少しの間、数字を見た。
「悪くない読みだ」
「ただ」陽介は続けた。「一つ気になることがあって。体の脂肪を燃やして乗り切っているなら、今すぐ問題があるわけではない。でも長く続くと……」
「たんぱくが崩れる」真田は短く言った。
「はい。脂肪だけでは足りなくなると、筋肉のたんぱく質を分解してエネルギーにし始める。それがRQに出てきますか?」
「たんぱくが燃えると、RQは〇・八前後になる。ただしたんぱくの崩壊は尿中の窒素排泄でも確認できる。RQだけで判断するな。複数の指標を合わせて読め」
陽介はメモに書いた。複数の指標を合わせて読む。
「それで」真田は続けた。「RQが〇・七に近いとき、呼吸器の管理で気をつけることがある。分かるか」
陽介は考えた。
RQが低い、つまり脂肪を燃やしているとき、CO₂の産生が少ない。産生されるCO₂が少なければ、換気量もそれに合わせて設定できる。無理に換気量を増やす必要がない。
「CO₂産生が少ないので、過換気にならないよう注意する、ということですか」
「逆もある」真田は言った。「栄養を急に増やしてRQが上がると、CO₂産生が急に増える。呼吸器の設定が追いつかないと、CO₂が溜まる。離脱のタイミングで栄養を増やすときは、呼気ガスを見ながら動かす必要がある」
「呼吸器の設定と栄養管理が連動している」桜が静かに言った。
「そういうことだ」
真田は離れた。
陽介はもう一度、端末のRQを見た。〇・七一という数字が、今は以前とは違って見えた。ただの比率ではなかった。今この患者の細胞が、糖ではなく脂肪を燃やして動いていることを示していた。それは栄養が足りていないサインで、このまま続けば筋肉が削れ始めるという予告でもあった。
「呼気を読むって、こういうことなんだね」桜が言った。「数字を見るんじゃなくて、体の中で今何が起きているかを読む」
陽介はうなずいた。
モニターの波形が規則正しく続いていた。人工呼吸器が静かに動いていた。その呼気の中に、細胞の声が刻まれていた。
第5節 呼気が語ること
翌朝、病棟から連絡が入った。
昨日のICUの患者、呼吸器離脱に向けて担当医と栄養管理の見直しを行うので、CEにも同席してほしいという内容だった。
陽介は真田に報告した。
「お前が出ろ」
それだけだった。
カンファレンス室には担当医の井上と、山口栄養士がすでに来ていた。井上は三十代半ばの内科医で、陽介とは透析室で何度か顔を合わせたことがあった。山口栄養士とは初めてだった。三十代くらいで、手元にびっしりとメモの入ったノートを持っていた。
「柏木さんですね」山口が言った。「呼気ガスのデータ、昨日から追ってくれていたと聞きました」
「はい。RQが〇・七一でした」
「そこから話しましょう」井上が言った。「栄養を増やしたいんですが、どう増やすかで意見が割れていて」
山口がノートを開いた。「現在の投与カロリーが必要量の六割程度です。段階的に上げていきたいのですが、一気に増やすとRQが急上昇する可能性がある」
「CO₂産生が急に増えて、換気が追いつかなくなる」陽介は言った。
「そうです」山口はうなずいた。「呼吸器が入っている間に栄養を増やすときは、呼気ガスを見ながら少しずつ上げていく必要がある。その辺りをCEの立場から確認していただきたくて」
陽介は少し緊張した。自分が確認する、という立場で呼ばれたのは初めてだった。
「RQを指標にするなら」陽介は言葉を選びながら話した。「栄養を増やしながら〇・八五から〇・九の範囲に収まるように調整するのが目安だと思います。一・〇を超えてきたら糖過剰のサインなので、そこで一度量を見直す。離脱の前日から当日にかけては特に注意が必要です。CO₂が増えると呼吸仕事量が上がって、離脱後に自力で換気を維持しにくくなる」
井上はメモを取りながら聞いていた。「具体的にはどのくらいの頻度でRQを確認しますか」
「栄養量を変えた後、四時間から六時間で一度確認するのが安全だと思います。急変がなければ翌朝の確認でも対応できますが、今回は離脱を急いでいるので、こまめに見た方がいいと思います」
山口が顔を上げた。「それで行きましょう。柏木さん、呼気ガスの確認タイミング、一緒に管理してもらえますか」
「はい」
カンファレンスが終わって廊下に出ると、桜が壁際で待っていた。同席はしていなかったが、近くにいたらしかった。
「どうだった?」
「栄養士さんと一緒に、RQを見ながら栄養を増やしていくことになった」
「CEが呼吸器と栄養を両方見る、ってこと?」
「そういうことになる」
桜はしばらく考えてから言った。「呼吸器の担当のはずが、栄養の話になってる」
「繋がってるから」陽介は言った。「呼気を読むことは、細胞の状態を読むことで、細胞の状態は何を食べているかと切り離せない」
桜は「うん」と言った。それ以上は何も言わなかった。
午後、陽介は二時間おきにICUに足を運んだ。栄養量を少しずつ上げながら、呼気ガスの数字を追った。RQが〇・七一から〇・七八へ。〇・七八から〇・八三へ。少しずつ上がっていった。細胞が糖を受け取り始めていた。
夕方、真田がICUに来た。陽介のメモを見た。数字の推移が時系列で並んでいた。
「よく追えている」
短い言葉だった。ただ陽介には、それが合格の意味だと分かった。
「一つ聞いていいですか」陽介は言った。
「言え」
「呼気ガスを読むことを、最初から意識して患者を見ていたら、昨日の患者を一日早く気づけていたかもしれません。配属初日からずっと、透析の数字は追ってきたつもりでした。でも呼気ガスは、数字として見ていたけど、意味として読んでいなかった」
真田は少しの間、陽介を見た。
「それが分かったなら十分だ」
「どうすれば意味として読めるようになりますか」
「数字の後ろに細胞を置け」真田は言った。「モニターの波形を見るとき、その波形を作っている細胞を想像しろ。RQを見るとき、今この細胞が何を燃やしているかを想像しろ。数字は細胞の声を翻訳したものだ。翻訳文だけ読んでいても、声は聞こえない」
陽介はその言葉をメモに書いた。
数字の後ろに細胞を置け。
窓の外が暗くなり始めていた。ICUのモニターが静かに光っていた。人工呼吸器が規則正しく動いている。その呼気の中に、細胞の声が続いていた。
翌朝、患者の呼吸器が離脱された。RQは〇・八四で安定していた。自発呼吸が戻って、患者は自分の肺で空気を吸い始めた。
陽介はその場に立ち会った。
呼吸器が外れた瞬間、患者が小さく息を吐いた。細い、静かな呼気だった。
機械を通さない、体の声だった。
桜が隣で小声で言った。「細胞が自分で話し始めた感じがする」
陽介は何も言わなかった。
同じことを感じていた。
今回は呼吸商(RQ)を中心に書きました。
このテーマを書くきっかけは、「呼気は排泄物ではなく、細胞の状態を映す鏡である」という発想そのものでした。VO₂とVCO₂という、それぞれ単体では何の変哲もない数字が、比率として読まれた瞬間に意味を持ち始める。この「比率で読む」という視点の転換を、桜の質問から始めることで、陽介自身の気づきとして書きたいと思っていました。
今回は桜の活躍が多い章でもあります。「脂肪はギュッと詰まったエネルギーだから、解くのに酸素をたくさん使う」という桜の直感的な説明は、陽介の分子式からのアプローチと違う角度から同じ結論に辿り着く場面で、二人の理解のスタイルの違いを書けたのが個人的に気に入っています。
終盤、栄養士・医師とのカンファレンスに陽介が一人で出る場面は、陽介がCEとして「確認する側」に回る最初の場面です。次章以降も、こうした他職種連携の場面を増やしていきたいと考えています。




