第6章 脂肪との戦い
今回は新しい患者、山田さんが登場します。七年間透析を続けながら、右足の動脈が少しずつ細くなってきた方です。
「食事に気をつけてきたのに」という山田さんの言葉から、陽介と桜は脂質代謝の地図を描き直すことになります。カルニチン、β酸化、LDLとHDL、プラーク形成。真田さんの言う「量と場所の問題」が、ゆっくりとほどかれていく章です。
山田さんが最後に言う言葉が、この章の静かな着地点です。
第1節 足の動脈が細くなる
七月に入ると、透析室の空気が変わった。
冷房が入り、機械の熱と体温と湿気が混ざり合った独特の匂いが、少し薄まった。患者たちの服装が軽くなり、半袖から伸びる腕に、穿刺の痕が並んでいた。
その朝、新しい患者が透析室に来た。
山田義雄、六十八歳。透析歴は七年だった。田中さんや岸本さんより少し若いが、透析歴という意味では同じくらいの古株だ。陽介が担当ベッドの準備をしていると、北村看護師長が「山田さん、今日から担当ベッドが変わるから、柏木くんに挨拶しておいて」と声をかけてきた。
「山田さんです」北村が紹介した。
「柏木です。よろしくお願いします」
山田さんは穏やかな顔をしていた。体格はがっしりしているが、歩き方がどこか慎重だった。片足を少しかばうような歩き方で、ベッドに腰かけるまでに時間がかかった。
「足が痛むんですか」陽介は聞いた。
「冷えるんですよ、右足が」山田さんは言った。「歩くと痛くなる。少し休むと楽になるんですが」
「いつ頃からですか」
「去年の冬くらいから。最近は少し歩いただけで痛むようになってきた」
陽介は穿刺の準備をしながら、その言葉を頭の中で整理した。足が冷える。歩くと痛い。休むと楽になる。
「間歇性跛行ですか」陽介は小声で北村に聞いた。
「そう。ASO、閉塞性動脈硬化症。先月の検査でABI(足関節上腕血圧比)が右側で〇・七まで落ちていた」北村は穿刺の確認をしながら淡々と言った。「血管外科でも診てもらっているけど、今のところ経過観察」
陽介は山田さんの右足を見た。左足と比べると、わずかに色が違った。血の巡りが悪い足の色だった。
穿刺が終わり、透析が始まった。山田さんはすぐに目を閉じた。疲れているのかもしれなかった。
昼前、真田が山田さんのベッドの前に立った。陽介も一緒に来るよう顎で示した。
「山田さん、少し話せるか」
山田さんが目を開けた。「どうぞ」
「足の状態を確認させてください」真田は言った。右足の甲を軽く触った。「冷たいな」
「そうなんですよ」
「痺れは」
「ぼんやりした感じが、足先に」
真田はしばらく無言で山田さんの足を見てから、「今日の透析後に血管外科の担当医に状態の変化を伝えておく」と言った。「柏木、シャントのエコーの結果、確認しておけ」
「はい」
真田が離れた後、山田さんが陽介に「動脈硬化ですよね」と言った。
「はい、そうです」
「透析患者はなりやすいって聞いてます」山田さんは天井を見た。「食事に気をつけてきたつもりなんですが」
「食事だけが原因ではないんですよ」陽介は言いかけて、止まった。
どこまで話せるか、何を話すべきか、まだ整理できていなかった。動脈硬化の仕組みを、自分は本当に理解しているか。
「少し勉強させてください」陽介は正直に言った。「きちんと整理してから、もう少し詳しくお話しします」
山田さんは「急がなくていいですよ」と言った。「透析の時間は長いですから。次回でも、その次でも」
午後の業務が終わった後、陽介は桜を捕まえた。
「ASOの話をしたい」
「山田さんのこと?」桜はすでに知っていた。透析室は狭い。患者の状態はすぐに共有される。「動脈硬化の話だよね。脂質代謝と関係してる?」
「関係してると思う。ただ整理できていない」
「私も」桜は素直に言った。「コレステロールが悪いっていうのは知ってる。LDLが悪玉で、HDLが善玉で。でもなんで悪いのか、仕組みが曖昧で」
「そこから始めないといけない」
「真田さんに聞く?」
「今日は手術室の記録仕上げで遅くなるって言ってた」陽介は言った。「まず自分たちで考えてみる。明日、山田さんに少し話せるように」
桜はノートを開いた。「コレステロールって、そもそも何」
陽介はそこから答えられるか、少し考えた。
「脂質の一種だ。体の細胞膜の材料になる。ホルモンの材料にもなる。胆汁酸の材料にもなる」
「悪いものじゃないじゃない」
「悪いものじゃない。必要なものだ」
「なのになぜ」桜はペンを持ったまま言った。「動脈が細くなる。血管が詰まる。足が冷えて、痛くなる」
陽介はしばらく黙った。
山田さんの右足の色が頭にあった。血の巡りが悪い足。七年間透析を続けながら、少しずつ動脈が細くなってきた足。
コレステロールは必要なものだ。しかしその必要なものが、なぜ血管を傷める。
答えを持っていなかった。
「明日、真田さんに整理してもらおう」陽介は言った。「その前に、脂質の基本だけ押さえておく。コレステロールと中性脂肪の違いから」
「分かった」桜はノートの新しいページを開いた。「なんか気持ちが切り替わった感じがする」
「まだ今夜の話が残ってる」
「分かってる」桜は少し笑った。「でも切り替わった感じがする」
透析室の窓から、七月の夕方の光が斜めに差し込んでいた。山田さんのベッドはすでに空になっていた。次の透析は三日後だ。
その三日の間も、山田さんの右足の動脈は、静かに、少しずつ、細くなり続けているかもしれなかった。
第2節 脂肪は優秀な燃料だった
翌朝、真田は珍しく早く来ていた。
陽介が透析室に入ると、真田はすでに機械の始業点検を終えて、カンファレンス室のホワイトボードの前に立っていた。昨日の夕方に陽介から「脂質代謝を整理したい」と申し出ていたのを、覚えていたらしかった。
桜も呼ばれていた。三人でテーブルを囲んだ。
「どこまで自分たちで考えたか」真田は言った。
「コレステロールは細胞膜とホルモンの材料で、必要なものだということ」陽介は答えた。「しかしそれがなぜ動脈を傷めるのか、仕組みが分かっていない。その前に、脂質全体の基本から整理したいと思っています」
「どの順番で整理したい」
「まず中性脂肪とコレステロールの違いから。次に脂質がエネルギーになる経路。その後で動脈硬化の仕組みに進みたい」
真田はマジックを取った。「いい順番だ。では中性脂肪から聞く。中性脂肪とは何か」
「グリセロールという分子に、脂肪酸が三本結合したものです」陽介は答えた。「食事で摂った脂肪の多くはこの形で、小腸で分解されて吸収される」
「エネルギー量は」
「一グラムあたり約九キロカロリー。糖質とタンパク質は一グラムあたり約四キロカロリーだから、倍以上になります」
桜が「倍以上」と繰り返した。「それだけ効率がいいってこと」
「そうだ」真田はホワイトボードに数字を書いた。脂質9、糖質4、タンパク質4。「同じ重さで二倍以上のエネルギーを貯められる。だから体は余ったエネルギーを脂肪として蓄える。軽くて、コンパクトで、大量に蓄えられる。燃料としては優秀だ」
「なのになぜ」桜は言った。「脂肪が多いといけないんですか」
「貯蔵と燃焼は別の話だ」真田は言った。「脂肪が優秀な燃料であることは正しい。問題は、溜めすぎたときに何が起きるか、だ。ただしその話は後にする。まず脂肪がエネルギーになる経路を確認しろ」
「脂肪酸がミトコンドリアに入って、β酸化という経路でアセチルCoAになる」陽介は言った。「アセチルCoAがTCA回路に入って、電子伝達系でATPが作られる」
「つまり」桜が繋げた。「脂肪も最終的にはTCA回路と電子伝達系を使う。グルコースと同じ出口を通る」
「そうだ」真田は言った。「ただし入口が違う。グルコースは解糖系を通ってアセチルCoAになる。脂肪酸はβ酸化を通ってアセチルCoAになる。入口は違うが、TCA回路という合流点で一緒になる」
陽介はノートに「β酸化→アセチルCoA→TCA回路」と書いた。手術室で学んだTCA回路が、脂質代謝の話にも繋がってきた。
「β酸化というのは」桜が聞いた。「どういう反応ですか」
「脂肪酸の炭素鎖を、二炭素ずつ切り離していく反応だ」真田はホワイトボードに長い鎖を描き、端から二つずつ区切った。「脂肪酸は炭素が十六個や十八個繋がった長い分子だ。β酸化はその鎖を端から二つずつ切り出して、アセチルCoAに変換していく」
「一本の長い脂肪酸から、アセチルCoAがたくさん出てくる」桜は言った。
「そうだ。炭素十六個の脂肪酸なら、アセチルCoAが八分子出てくる。それが全部TCA回路に入る。だから脂肪はグルコースより多くのATPを生む」
「九キロカロリーの理由がそこにある」陽介は言った。
「そういうことだ。脂肪酸の長い炭素鎖が、全部エネルギーに変換される。無駄がない」
桜はノートに炭素鎖の図を描きながら「すごく効率がいいんだね」と言った。「なのに悪者扱いされてる」
「悪者なのは脂肪そのものじゃなくて」陽介は言いかけた。
「量と場所の問題だ」真田が引き取った。「脂肪は適切な量が、適切な場所にある限り、体にとって必要不可欠な物質だ。問題が起きるのは、必要以上に溜まったとき、あるいは本来あるべきではない場所に入り込んだときだ」
「本来あるべきではない場所」桜が繰り返した。「それが血管ですか」
「そこに繋がる」真田はマジックを置いた。「ただし血管の話に入る前に、もう一つ確認する。β酸化はミトコンドリアの中で起きると言ったが、脂肪酸はどうやってミトコンドリアに入るか、知っているか」
陽介は少し考えた。「カルニチンという物質が関係していると習いました。脂肪酸をミトコンドリアの内膜を通して運び込む」
「正確に言えば、長鎖脂肪酸はミトコンドリアの内膜を自力では通れない。カルニチンという輸送体と結合して初めて内膜を通過できる」真田は言った。「カルニチンが不足すると、脂肪酸がミトコンドリアに入れない。β酸化が回らない。脂肪がエネルギーとして使われない」
「カルニチンって、体の中で作れるんですか」桜が聞いた。
「作れる。アミノ酸のリジンとメチオニンから合成される。ただし透析患者はカルニチンも透析で失われる」
陽介は「また透析で失われる話だ」と思った。ビタミン、アミノ酸、そして今度はカルニチン。透析という治療が、エネルギー代謝に必要な物質を定期的に奪っていく。
「透析患者さんはカルニチンが不足すると、脂肪をうまくエネルギーにできない」陽介は言った。「グルコースに依存しやすくなる。解糖系への負荷が増える」
「藤井さんのときの話に繋がった」桜は小さく言った。「藤井さんの疲れやすさの原因がまた一つ増えた」
真田はそれを聞いて「悪くない連想だ」と言った。「透析患者の病態は一つの原因では説明できない。複数の代謝異常が重なっている。カルニチン欠乏もその一つだ」
「カルニチンは補充できるんですか」陽介は聞いた。
「補充製剤がある。適応のある患者には処方される。ただし全員に処方されているわけではない。データを見ながら判断する」
陽介はノートに書き込んだ。カルニチン欠乏、β酸化の停滞、脂肪をエネルギーにできない、グルコース依存。藤井さんの疲れやすさについて立てた仮説に、また新しい要因が加わった。
「今日の話を整理すると」桜がノートを見ながら言った。「脂肪はグラム当たりのエネルギーが多くて、優秀な燃料だ。でもミトコンドリアに入るためにカルニチンが必要で、透析患者はそのカルニチンが失われやすい。だから脂肪をうまく燃やせない可能性がある」
「前半は合っている」真田は言った。「ただし今日まだ話していないことがある。脂肪が優秀な燃料であるにもかかわらず、血液中に増えすぎたとき、あるいはコレステロールが酸化されたとき、血管で何が起きるか。そこが山田さんの足の話に直接繋がる」
「次の話ですね」陽介は言った。
「そうだ。今日はここまでだ」真田は立ち上がった。「脂肪は敵じゃない。量と場所を間違えると問題になる。その間違いがどこで起きるかを、次に考えろ」
真田が出ていった後、桜がノートの数字を見ながら言った。「九と四か。脂肪って、本当に優秀な燃料なんだね」
「優秀だから、溜め込みやすい」陽介は言った。「進化の過程で、飢餓に備えて脂肪を溜める能力を持った生物が生き残った。その能力が、食べ物が余るようになった現代で問題になっている」
「体が環境に合わなくなった話、か」桜は言った。「ビタミンを合成できなくなったのと逆のパターンだ。あっちは捨てたら困るものを捨てた。こっちは持っていたら困るものを持ち続けてる」
陽介はその見方を少し意外に思った。同じ進化の話を、桜は別の角度から繋げてきた。
「悪くない整理だ」陽介は言った。
桜が「真田さんみたいなこと言う」と返した。
透析室の朝の準備が始まっていた。田中さんが入ってきて、「今日も暑いな」と言いながらベッドに向かった。岸本さんが「七月はこれからやで」と答えた。
山田さんは今日は透析がない日だ。三日後に来る。
その三日の間に、陽介は脂肪が血管で何をするかを、もう少し理解しておかなければならなかった。
第3節 脂肪が燃えるまでの道
三日後、山田さんが透析室に来た。
前回より歩き方が少しゆっくりだった。右足をかばう様子は変わっていない。ベッドに腰かけながら「暑いと余計に足がだるいですね」と言った。
「血管が細いと、暑さで血液の粘度が上がって、余計に流れにくくなることがあります」陽介は穿刺の準備をしながら言った。「水分は十分に取れていますか」
「透析患者は水分を控えるように言われてますから」山田さんは苦笑した。「加減が難しいですよ」
「そうですね」陽介は言った。「今日、少し脂肪の話をしてもいいですか。前回、整理してからお話しすると言っていたので」
「ぜひ」山田さんは興味深そうな顔をした。「脂肪と動脈硬化の関係ですよね」
「はい。ただ今日は、まず脂肪が体の中でどう使われるかの話から入らせてください。それが分かると、なぜ血管に影響するかが繋がりやすくなると思うので」
「どうぞ」
透析が始まった。機械の低い音が部屋に満ちた。陽介は椅子を引いて山田さんのベッドの横に座った。桜が少し離れたところで、自分の担当ベッドの確認をしながら耳を傾けていた。
「脂肪は体の中で大事なエネルギー源です」陽介は言った。「グルコースの倍以上のエネルギーを持っています。だから体は余ったエネルギーを脂肪の形で蓄えておく」
「貯金みたいなものですね」山田さんは言った。
「そうです。ただし貯金を使うためには、銀行まで取りに行く手順がいる。脂肪の場合、その手順が少し複雑です」
「どんな手順ですか」
「脂肪がエネルギーになるには、細胞の中のミトコンドリアという場所に入らないといけない」陽介は言った。「ミトコンドリアは細胞の発電所で、そこでエネルギーが作られます。ただし脂肪酸という形の脂肪は、ミトコンドリアの壁を自力では通れない」
「壁があるんですか」
「内膜という仕切りがあって、通れる物質と通れない物質が決まっている。脂肪酸が通るためには、カルニチンという運搬役が必要です。カルニチンが脂肪酸を抱えてミトコンドリアの内膜を通り抜ける」
「カルニチン」山田さんは繰り返した。「聞いたことがある気がします。サプリメントか何かで」
「はい、スポーツのサプリメントで見かけることがあります。脂肪燃焼を助けると言われるのは、そういう理由があります」陽介は続けた。「ただし透析患者さんは、カルニチンが透析のたびに血液から失われてしまう。補充しないと不足しやすい」
「それは知らなかった」山田さんの表情がわずかに変わった。「透析で栄養が抜けるという話は聞いていたけど、カルニチンも抜けるとは」
「アミノ酸と同じくらい小さな分子なので、透析膜を通過してしまうんです」
山田さんはしばらく機械の音を聞いていた。「カルニチンが足りないと、脂肪を燃やせない、ということですか」
「燃やしにくくなります」陽介は言った。「ミトコンドリアに脂肪酸が入れないと、エネルギーとして使われない。行き場を失った脂肪酸が血液中に増えやすくなる」
「それが動脈に影響する?」
陽介は少し間を置いた。「そこに繋がります。ただ、血管で何が起きるかは、コレステロールの話も合わせないと説明しにくくて。今日は脂肪が燃えるまでの道を確認して、次にコレステロールの話に進めたいと思っています」
「順番があるんですね」山田さんは言った。「分かりました。続けてください」
陽介はノートを開いた。図を描きながら話を続けた。
「ミトコンドリアに入った脂肪酸は、β酸化という経路で分解されます。長い鎖を端から二炭素ずつ切り出していく。切り出された二炭素のかたまりがアセチルCoAになる」
「アセチルコーエーというのは」
「TCA回路という次の経路の入口になる物質です。グルコースを分解したときにも同じものが出てきます。脂肪もグルコースも、最終的にはこの物質に変換されてから、同じ経路でエネルギーになる」
「道が一本に合流するんですね」山田さんは言った。
「そうです。入口は違うが、出口は同じ。その出口でATPというエネルギーの通貨が大量に作られます」
山田さんはしばらく考えてから「脂肪酸の鎖が長いほど、たくさん切り出せる。アセチルCoAがたくさん出てくる。だからエネルギーが多い、ということですか」と言った。
陽介は少し驚いた。説明した以上のことを、山田さんが自分で繋げた。
「そうです。正確にその通りです」
「理屈は分かりました」山田さんは言った。「ただ一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「β酸化が起きるのはミトコンドリアの中、ということは、酸素が必要ですよね。TCA回路と電子伝達系まで繋がるなら」
「はい、酸素が必要です」
「僕の足の動脈が細くなっているということは、足への血流が少ない。血流が少ないということは、酸素の供給も少ない。だとすると、足の筋肉の細胞では、ミトコンドリアが十分に働けない。脂肪も燃やせない。エネルギーが作れない。だから痛くなる、と」
陽介はノートを持ったまま、山田さんを見た。
「その通りです」陽介はゆっくり言った。「間歇性跛行という症状の機序は、まさにそれです。歩くと筋肉がエネルギーを必要とするが、血流が制限されているから酸素が届かない。エネルギーが作れなくなる。だから痛みが出て、足が動かなくなる」
「休むと楽になるのは」
「安静にすると筋肉のエネルギー需要が下がるからです。少ない酸素でも、休んでいる筋肉には足りる」
山田さんは自分の右足を見た。「自分の足の中で起きていることが、少し分かった気がします」
陽介も山田さんの右足を見た。血の巡りが悪い足。動脈が細くなって、酸素が届きにくくなった足。その先の筋肉の細胞では、カルニチンが不足し、β酸化が回りにくく、ミトコンドリアが十分に働けない。
一つの症状の奥に、複数の代謝の問題が重なっていた。
「なぜ動脈が細くなったのか」山田さんは言った。「そこはまだ教えてもらっていない」
「次の話です」陽介は言った。「コレステロールが血管で何をするか、という話に入ります」
「楽しみにしてます」山田さんは言った。皮肉ではなく、本当に楽しみにしている顔だった。「自分の体の話だから、知りたい」
透析の終了アラームまで、まだ一時間以上あった。
機械が規則正しく動いている。山田さんの血液が、チューブの中を流れている。その血液の中に、行き場を探している脂肪酸があるかもしれない。カルニチンが足りなくて、ミトコンドリアに入れない脂肪酸が。
桜が離れたところから小声で言った。「山田さん、鋭い」
「そうだな」陽介は小声で返した。
「血流が少ない→酸素が届かない→ミトコンドリアが働けない→エネルギーが作れない、という連鎖を自分で繋げた」
「理屈を理解したい人だ」陽介は言った。「原田さんと同じ種類の人だ」
桜はうなずいた。「次が大事だね。なぜ動脈が細くなるか」
「コレステロールの話だ」
「ちゃんと整理しておかないと」
「今夜する」
桜は「また夜か」と言いながら、しかし反対はしなかった。
七月の透析室に、機械の音が満ちていた。
第4節 悪玉と善玉の正体
その夜、二人はカンファレンス室に残った。
ファミレスではなく病院の中だったのは、真田が「少し時間が取れる」と言ったからだった。七時を過ぎた病院は静かで、廊下の照明が半分落とされていた。カンファレンス室だけが明るかった。
真田はコーヒーの缶を持って入ってきた。陽介と桜がノートを開いて待っていた。
「LDLとHDLの話をしたい」陽介は言った。「山田さんに次回説明するために」
「山田さんは今日どこまで理解した」
「β酸化まで。血流が少ないと酸素が届かない、ミトコンドリアが働けない、エネルギーが作れない、という連鎖を自分で繋げていました」
「鋭い患者だ」真田は椅子に座った。「ではコレステロールの話から始める。コレステロールが血液中をどう運ばれるか、知っているか」
「リポタンパク質という形で運ばれると習いました」陽介は答えた。「コレステロールや中性脂肪は水に溶けないから、タンパク質で包んで血液中を運ぶ」
「なぜ水に溶けない」
「脂質だからです。リン脂質と同じで、水を嫌う性質がある」
「細胞膜のリン脂質の話が返ってきたな」真田は言った。「配属初日に出てきた話だ」
桜がノートに「コレステロール=水に溶けない→タンパク質で包む→リポタンパク質」と書いた。「LDLとHDLは、このリポタンパク質の種類ですか」
「そうだ」真田はホワイトボードに向かった。「リポタンパク質にはいくつかの種類がある。密度で分類される。LDLは低密度リポタンパク質、HDLは高密度リポタンパク質だ」
「密度が違うのはなぜですか」陽介は聞いた。
「タンパク質と脂質の比率が違う。タンパク質は密度が高く、脂質は密度が低い。タンパク質が多いほど密度が高くなる。HDLはタンパク質が多くて密度が高い。LDLは脂質が多くて密度が低い」
「役割は違うんですか」桜が聞いた。
「全く違う」真田はホワイトボードに二つの矢印を描いた。一方は肝臓から末梢へ、もう一方は末梢から肝臓へ。「LDLは肝臓で作られたコレステロールを、全身の細胞に届ける役割を持つ。HDLは逆だ。全身の組織に余ったコレステロールを回収して、肝臓に戻す」
「届ける側と、回収する側か」桜は矢印を書き写した。
「LDLが運ぶコレステロールは、細胞膜の材料になる。ホルモンの材料にもなる。必要なものを届けている。それ自体は正常な機能だ」
「では、なぜLDLが悪玉と呼ばれるんですか」陽介は聞いた。
真田は少し間を置いた。「悪玉という言葉は正確じゃない。問題はLDLそのものではなく、酸化されたLDLだ」
「酸化」陽介は繰り返した。
「LDLが血液中に増えすぎると、血管の壁、内皮細胞の隙間に入り込む。内皮の下に潜り込んだLDLは、活性酸素によって酸化される。酸化LDLになる」
「酸化されると何が変わるんですか」桜が聞いた。
「形が変わる。体にとって異物のように認識される」真田は続けた。「免疫細胞のマクロファージが、その酸化LDLを食べようとする。マクロファージが酸化LDLを取り込んで、泡沫細胞という状態になる」
「泡沫細胞」陽介は書き留めた。
「泡沫細胞が血管の壁の内側に溜まっていく。それがプラーク、粥状硬化巣だ。血管の内側にこぶのように盛り上がって、内腔を狭くしていく」
桜が「それが動脈硬化」と言った。
「そうだ。プラークが大きくなるにつれて、血管の内腔が狭くなる。血液が流れにくくなる。山田さんの足の動脈に起きていることだ」
陽介は図を描いた。正常な血管の断面と、プラークが盛り上がった血管の断面を並べた。内腔の広さが全然違う。
「プラークが破れると」真田は続けた。「その部位に血栓が形成される。一気に血管が塞がれる。それが心筋梗塞や脳梗塞の機序だ」
「プラークが破れるまで、症状が出ないこともある?」陽介は聞いた。
「ある。プラークが大きくなっていても、血管がある程度代償できている間は自覚症状が出ない。山田さんの足のように、血流が明らかに落ちてから症状が出ることが多い」
「では、HDLはどう働くんですか」桜が聞いた。
「HDLは余ったコレステロールを回収して肝臓に戻す、と言った。それだけでなく、HDLは血管壁に沈着したコレステロールを引き抜く作用もある」真田は言った。「プラーク形成を抑える方向に働く。だからHDLが多いほど、動脈硬化のリスクが下がる」
「善玉という呼び方は、そこから来てるんですね」桜は言った。「回収して、引き抜く。掃除役」
「掃除役という言い方は分かりやすい。ただし正確には、LDLが悪でHDLが善、という単純な話ではない」
「どういうことですか」陽介は聞いた。
「LDLが届けるコレステロールは細胞に必要なものだ。LDLが全くなければ細胞膜が作れない。問題はLDLが増えすぎて、酸化されて、血管壁に入り込むことだ。HDLも同様に、多すぎれば良いというわけではない。バランスの問題だ」
「量と場所の問題、ですね」陽介は言った。前回真田が言った言葉だ。
「そうだ」真田はホワイトボードのキャップを閉じた。「透析患者はLDLが高くなりやすい要因がいくつかある。カルニチン不足で脂肪代謝が落ちる。リンの蓄積が血管の石灰化を促す。炎症状態が続くことで酸化ストレスが高まる。酸化LDLが作られやすくなる」
「重なっている」桜は言った。「山田さんの動脈硬化も、一つの原因じゃない」
「透析患者の心血管リスクが高い理由はそこにある」真田は言った。「動脈硬化が普通の人より速く進む。それを知った上で、何ができるかを考えるのが俺たちの仕事だ」
「CEとして、何ができますか」陽介は聞いた。
真田は少し考えた。「透析条件を適切に管理すること。老廃物を十分に除去すること。炎症を最小限にする回路の管理。カルニチン補充の必要性を医師に提言すること。血圧管理。それぞれが血管を守ることに繋がっている」
「全部、動脈硬化の進行を遅らせるための仕事だ」陽介は言った。
「遅らせることしかできない、という言い方もできる」真田は言った。「進んでしまった動脈硬化を元に戻す方法は、今のところない。だから進ませないことが重要だ」
桜が「山田さんの足」と小声で言った。「もう進んでしまった分は戻らない」
「戻らない」真田は静かに言った。「だから今以上に進ませないために、俺たちが週三回ここに来ている意味がある」
部屋が少し静かになった。
機械の音もない、患者の声もない、静かなカンファレンス室だった。
陽介はノートのLDLとHDLの図を見た。肝臓から末梢へ向かう矢印と、末梢から肝臓へ向かう矢印。届ける側と、回収する側。そのバランスが崩れたとき、血管の壁にコレステロールが積み重なっていく。
山田さんは七年間、週三回この部屋に来ていた。その七年間、動脈のどこかでプラークが少しずつ育っていた。それを止める方法は、完全にはなかった。しかし遅らせることは、できた。
「次回、山田さんにどう話すか」真田が二人を見た。
「LDLとHDLの話と、プラーク形成の仕組みを説明します」陽介は言った。「ただ、動脈硬化が戻らないという話は、どこまで伝えるか迷っています」
「山田さんはどんな人だ」
「理屈を知りたい人です。自分の体で起きていることを理解したい」
「なら話せ」真田は言った。「戻らないという事実を知ることで、今からできることに集中できる。知らないままでいる方が、山田さんには失礼だ」
陽介はうなずいた。
真田が立ち上がって、カンファレンス室を出た。
桜がノートを閉じながら言った。「LDLが悪玉で、HDLが善玉、という言い方、なんか単純すぎたんだね」
「単純な言葉の方が広まりやすい」陽介は言った。「でも単純にしすぎると、本当の意味が消える」
「LDLだって、届けなければならないコレステロールがある。それが増えすぎて、酸化されて、場所を間違えたときに問題になる」
「量と場所だ」
桜はしばらく考えた。「悪玉と善玉、か。人間も同じかもしれないね。同じ人が、場所と量によって、助けになったり邪魔になったりする」
陽介は何も言わなかった。
廊下の照明が半分落とされた病院の夜は静かだった。どこかの病室に、まだ明かりがついていた。
第5節 敵じゃなく、量の問題
三日後の透析が始まって一時間ほど経った頃、北村看護師長が山田さんのベッドの近くを通りかかった。
陽介が椅子を引いて山田さんの横に座っているのを見て、「説明の続きですか」と言った。
「はい」陽介は答えた。
「邪魔しないようにするわ」北村は言ったが、少し離れたところで記録を始めた。聞いているのだと、陽介には分かった。
桜も近くにいた。別の患者の確認をしながら、耳を向けていた。
「前回、脂肪が燃えるまでの話をしました」陽介は山田さんに言った。「今日はコレステロールが血管でどう動くかを話します」
「LDLとHDLの話ですね」山田さんは言った。「自分でも少し調べてきました。LDLが悪玉で、HDLが善玉だと」
「調べてきてくれたんですね」陽介は言った。「ただ、悪玉善玉という呼び方は少し単純すぎるところがあって、もう少し正確な話をさせてください」
「どう違うんですか」
「LDLは肝臓で作られたコレステロールを全身の細胞に届ける役割を持っています。細胞膜の材料や、ホルモンの材料として必要なコレステロールを届ける。それ自体は正常な、必要な機能です」
「LDLは必要なものを運んでいる」山田さんは繰り返した。
「そうです。問題が起きるのは、LDLが血液中に増えすぎたときです。増えたLDLが血管の壁の内側に入り込む。そこで活性酸素によって酸化される。酸化LDLになる」
「酸化されると何が変わるんですか」
「形が変わります。体が異物として認識する。免疫細胞が食べようとする。その免疫細胞が血管壁の中で膨らんで、プラークと呼ばれるかたまりになっていく」陽介は手元の小さな図を山田さんに見せた。昨夜描いておいたものだ。正常な血管の断面と、プラークが育った断面。「血管の内側が、こんな風に狭くなっていく」
山田さんは図を見た。しばらく黙っていた。
「これが僕の足の動脈で起きていることですか」
「程度の差はありますが、同じ仕組みです」
「長い時間をかけて、少しずつ」
「はい」
山田さんはまた図を見た。それから自分の右足に視線を落とした。
「HDLは」山田さんは言った。「回収する役割と聞きました」
「そうです。血管壁に溜まったコレステロールを引き抜いて、肝臓に戻す。プラークの形成を抑える方向に働く。だからHDLが多い方が、動脈硬化のリスクが下がる」
「善玉という言い方は、そこから来てるんですね」
「ただ、LDLが全て悪いわけではない、というのが伝えたかった点です」陽介は言った。「LDLが届けるコレステロールがなければ、細胞膜が作れない。コレステロールは体に必要なものです。問題は量と、場所です。増えすぎて、本来いてはいけない場所に入り込んだときに問題になる」
山田さんはしばらく考えてから「コレステロールは敵じゃない、ということですか」と言った。
「敵じゃなく、量の問題だと思います」
後ろで何かが動く気配がした。北村だった。記録から目を上げて、陽介の方を見ていた。静かにうなずいた。
山田さんは「なるほど」と言った。「食事に気をつけてきたのに動脈硬化が進んだのは、食事だけが原因じゃないということですか」
「食事は大事な要因の一つです。ただ透析患者さんの場合、それ以外の要因も重なっています」陽介は言った。「カルニチンが不足して脂肪代謝が落ちること。炎症状態が続くことで酸化ストレスが高まること。腎臓の機能がないことで老廃物が蓄積しやすいこと。それが全部、動脈硬化を進めやすくする」
「透析していること自体が、リスクになっている」山田さんは静かに言った。
「透析は腎臓の代わりをしてくれていますが、完全な代替ではありません。透析では除けないものもある。透析があるから生きていられる一方で、透析を続けることで起きやすくなる問題もある」
山田さんはしばらく機械の音を聞いていた。チューブの中を血液が流れている。赤いチューブが、機械に向かって伸びている。
「七年間」山田さは言った。「週三回来るたびに、少しずつ動脈が細くなっていたんですね」
陽介は答えなかった。答えを持っていたが、すぐには言えなかった。
「怒っているわけじゃないですよ」山田さんは続けた。「透析のおかげで生きているのは分かってる。ただ、そういうことだったんだな、と思って」
「そういうことです」陽介はようやく言った。「だから僕たちは、動脈硬化をこれ以上進めないために、透析の条件を一つ一つ管理しています。老廃物を十分に除去すること、炎症を最小限にすること、血圧を安定させること。全部、血管を守るための管理です」
「週三回、血管を守りに来てくれているわけだ」山田さんは言った。
「そういうことになります」
山田さんは少し目を細めた。笑っているようにも、遠くを見ているようにも見えた。「理屈が分かると、この椅子に座っている意味が変わって見えますね。機械に繋がれている時間が、ただの時間じゃなくなる」
陽介はその言葉を聞いて、少し胸の中で何かが動いた。
田中さんが最初の日に言っていた。なくてはならん、と。岸本さんが透析室を「通ってる場所」ではなく「帰ってくる場所」のように話していた。原田さんが「理由が分かる方が、我慢できる」と言っていた。藤井さんが「情けなくないかもしれない」と言っていた。
そして今、山田さんが「ただの時間じゃなくなる」と言った。
知ることが、何かを変える。
機械を動かすことと、言葉を届けることが、同じ仕事の両側にある。
透析が終了に近づいて、機械がアラームを鳴らす準備音を出した。陽介は立ち上がって確認した。問題なかった。あと十分ほどで終了だ。
北村が近づいてきた。後片付けの準備を始めながら、陽介に小声で言った。「いい説明だったわ」
「ありがとうございます」
「コレステロールは敵じゃなく量の問題、という言い方、山田さんに合ってたと思う」北村は穿刺部位の確認をしながら続けた。「患者さんって、自分が何かと戦っているイメージを持ちやすいの。病気と戦う、悪玉と戦う。でも実際は戦う相手じゃなくて、量とバランスの管理なんだよね。その方が、長く付き合っていける」
陽介はその言葉を聞きながら、北村が十年以上この部屋で患者たちと向き合ってきたことを思った。透析室の看護師長として、同じ患者と週三回顔を合わせながら、同じ言葉を何年もかけて磨いてきた言葉だ。
「コレステロールは敵じゃなく、量の問題。北村さんが前から患者さんに使っている言葉ですか」
北村は少し笑った。「そうよ。誰かに教わったわけじゃないけど、長く使ってきた言葉。患者さんの表情を見ながら、少しずつ変えてきた」
臨床の言葉は、教科書から来るのではなく、患者の反応から育っていく。
透析終了のアラームが鳴った。
陽介は手順通りに終了操作をした。山田さんの腕から針を抜き、止血の確認をした。山田さんはゆっくり起き上がって、「ありがとう」と言った。
「次回また、何か疑問があれば聞いてください」
「あります」山田さんはすぐに言った。「コレステロールが細胞膜の材料になると言っていたけど、それはどういうことなのか。細胞膜はリン脂質でできているんじゃないんですか」
陽介は少し驚いた。配属初日に話した細胞膜の話を、山田さんが覚えていた。いや、山田さんは自分で調べていた。
「次回、その話をします」陽介は言った。
山田さんはゆっくり立ち上がり、右足をかばいながら出口へ向かった。その背中を見ながら、陽介は次回の説明を頭の中で組み立て始めた。
コレステロールと細胞膜。コレステロールとホルモン。コレステロールは、体の設計そのものに組み込まれている。
桜が「次回の話、難しくなりそうだね」と言った。
「山田さんが引き出してくれた」陽介は言った。
「患者さんが話を作っていく感じがする」桜はしみじみと言った。「私たちが説明するんじゃなくて、患者さんの疑問が次の話を決めていく」
陽介はうなずいた。
透析室の午後が続いていた。機械が別の患者の血液を浄化している。チューブが赤く、窓から夏の光が入っていた。
第6節 コレステロールという建築材料
次の透析日、山田さんは約束を覚えていた。
ベッドに腰かけるなり「前回の続きを聞かせてもらえますか」と言った。穿刺が終わって透析が安定したのを確認してから、陽介は椅子を引いた。
「細胞膜の材料の話でしたね」陽介は言った。
「リン脂質でできているんじゃないのか、と思って」山田さんは言った。「以前、血液が体の外に出られる理由を聞いたとき、細胞膜はリン脂質の二層構造でできていると教えてもらったことがあって」
陽介は少し驚いた。山田さんが「以前教えてもらった」と言ったのは、陽介から直接聞いたのではなく、自分で調べた知識のはずだった。しかし山田さんの中では、透析室で積み重ねてきた話として繋がっていた。
「そうです」陽介は言った。「細胞膜の主な材料はリン脂質です。ただコレステロールも、細胞膜の中に組み込まれています」
「両方が入っている?」
「リン脂質の二層の中に、コレステロールが混じって存在しています。ちょうど、煉瓦で作った壁の目地にセメントが入っているような感じです」
「セメントが何をするんですか」
「膜の硬さと柔らかさを調整します」陽介は続けた。「リン脂質だけだと、温度によって膜が柔らかくなりすぎたり、固くなりすぎたりする。コレステロールが混じることで、温度が変わっても膜の流動性が一定に保たれる」
「体温が多少変わっても、細胞膜が安定している理由がそこにある?」
「そうです。コレステロールは膜の緩衝材として働いている」
山田さんはしばらく考えた。「だからコレステロールが全くなくなると、細胞膜が不安定になる」
「なります。だから体は自分でコレステロールを作る能力を持っています。食事から摂るだけでなく、肝臓が必要に応じて合成する。それほど体にとって欠かせない物質です」
「肝臓が作るんですか」山田さんは少し意外な顔をした。「食べ物から来るだけじゃないんですね」
「食事で摂るコレステロールが増えると、肝臓での合成が抑えられます。減ると合成が増える。体が量を調整しようとする仕組みがある」
「賢いな」山田さんは言った。「自動調整がついている」
「ただしその調整能力には限界があります。食事や生活習慣、あるいは遺伝的な要因で、調整が追いつかなくなることがある。そのときにLDLが増えすぎる」
山田さんはうなずいた。「コレステロールがホルモンの材料にもなると言っていたけど、それはどういうことですか」
「ステロイドホルモンと呼ばれる種類のホルモンが、コレステロールから作られます」陽介は言った。「副腎皮質ホルモン、性ホルモン、そしてビタミンDもコレステロールから作られます」
「ビタミンDも?」
「コレステロールを原料に、皮膚で紫外線を受けて前駆体が作られる。それが肝臓と腎臓で活性化されてビタミンDになります」
山田さんの表情がわずかに変わった。「腎臓で活性化される、というのは」
「透析患者さんは腎臓の機能がないため、ビタミンDが最終的な活性型に変換されにくい。だからカルシウムの吸収が落ちて、骨が弱くなりやすい」
「それも透析と繋がっているんですね」山田さんは静かに言った。「コレステロールから始まって、腎臓の話に戻ってくる」
陽介はその言い方を聞いて、少し立ち止まった。
コレステロールから細胞膜の安定性へ。コレステロールからステロイドホルモンへ。コレステロールからビタミンDへ。ビタミンDから腎臓へ。腎臓から透析へ。
全部が一本の糸で繋がっていた。
そのとき、後ろから北村が近づいてきた。山田さんの記録を確認しながら、自然な口調で話に加わった。
「山田さん、ビタミンDの補充薬、ちゃんと飲めていますか」
「飲んでいます」山田さんは答えた。「でも理由が、今日初めてちゃんと分かりました」
「そうですか」北村は少し目を細めた。「理由が分かって飲む薬と、言われたから飲む薬は、続き方が違いますからね」
「全く違います」山田さんは言った。「飲み忘れることが減りそうです」
北村が記録を終えて離れた後、山田さんが陽介に言った。「コレステロールって、本当に色々なところに関わっているんですね」
「関わっています」陽介は言った。「細胞膜の安定性、ホルモンの合成、ビタミンDの原料、胆汁酸の材料。体の設計の中に、最初から組み込まれている物質です」
「なのに悪者扱いされている」
「量と場所の問題です」陽介は繰り返した。「増えすぎて、酸化されて、血管の壁に入り込んだときに問題になる。コレステロールそのものは、体に必要不可欠な建築材料です」
山田さんはしばらく窓の外を見た。七月の空が白く光っていた。
「七年間、コレステロールを悪者だと思って生きてきた」山田さんは言った。「もう少し早く、こういう話を聞けていたら良かったな」
陽介は何も言えなかった。
七年間という時間が、この部屋の空気の中にあった。週三回、同じ椅子に座って、同じ機械に繋がれながら、コレステロールと戦っていると思っていた七年間。
戦う相手ではなかった。管理する相手だった。
「でも」山田さんは続けた。「今から分かっても遅くはないでしょう」
「遅くないです」陽介は言った。
「そうですよね」山田さんは機械の音を聞きながら言った。「腎臓が動かなくても、週三回ここに来れば血液がきれいになる。コレステロールの仕組みが分からなくても、薬を飲んで食事に気をつければ管理できる。ただ、分かってやる方が、ずっといい」
「分かってやる方が、ずっといい」
陽介はその言葉を、そのまま繰り返した。
他に言葉が見つからなかった。
山田さんが小さく笑った。チューブの中の血液が、静かに流れていた。
桜が離れたところから小声で言った。「山田さんの言葉、手帳に書いておいた方がいいよ」
「分かってる」陽介は小声で返した。
窓から夏の光が斜めに差し込んでいた。透析室の午後が、穏やかに続いていた。
今回は山田さんという新しい患者さんを中心に、脂質代謝と動脈硬化の仕組みを書きました。
「コレステロールは悪者じゃない」という話を書くのは、実は以前から温めていたテーマでした。LDL=悪玉、HDL=善玉という単純な図式が広まりすぎていて、患者さんが「コレステロールと戦っている」という感覚で長年過ごしてしまうことがある。戦う相手ではなく、量とバランスを管理する相手だ、ということを、物語の中で一度ちゃんと伝えたかった。
山田さんの「七年間、コレステロールを悪者だと思って生きてきた」というセリフは、書いていて少し胸が痛くなりました。そして「今から分かっても遅くはないでしょう」と自分で立て直すところが、山田さんという人の強さだと思っています。
北村看護師長の「理由が分かって飲む薬と、言われたから飲む薬は、続き方が違う」という言葉も、この章のもう一つの柱として機能してくれました。次回以降も山田さんの話は続きます。




