第4章 細胞の燃料電池
第4章です。
心肺運動負荷試験の途中で足がつった透析患者・藤井さん。なぜ足がつるのか。なぜ透析患者は疲れやすいのか。その答えを追いかけると、ATPという体の通貨、解糖系、乳酸の濡れ衣、NADHという中間通貨、電子伝達系まで一本の線で繋がっていきます。
「情けなくないかもしれない」——藤井さんのその言葉まで、お付き合いください。
第1節 足がつる理由
五月の終わりが近づいていた。
陽介が運動負荷試験室に呼ばれたのは、午前の業務が一段落した直後だった。
「柏木、手が空いてるか」
廊下で声をかけてきたのは真田だった。「CPXの補助に入れ。山崎先生から要請が来た」
「CPXですか」
「心肺運動負荷試験だ。患者が自転車を漕ぎながら心拍や呼気ガスを計測する。今日の担当は機器のモニタリングだけでいい。ただし異常があればすぐ言え」
「分かりました」
真田はそれだけ言って別の方向へ歩いていった。陽介はナースステーションで担当患者の情報を確認してから運動負荷試験室へ向かった。
扉を開けると、部屋の中央に自転車エルゴメーターが一台、どっしりと置かれていた。ペダルに負荷をかけながら漕ぐための機械だ。そこに心電図の電極ケーブルが何本も繋がり、マスクを通じて呼気ガスを回収する装置が横に立っている。機器の画面には心拍数、酸素摂取量、二酸化炭素排出量が随時表示される。
「お、来た来た」
声をかけてきたのは、理学療法士の橋本だった。三十代前半、陽介より少し先輩にあたる。「担当医の山崎先生はもうすぐ来る。患者さんはまだ着替え中だよ」
「何を担当すればいいですか」
「機器のモニタリングと記録。異常値が出たらすぐ声をかけて」橋本は画面を指した。「心拍が設定値を超えたらアラームが鳴る。酸素摂取量のグラフが急に落ちたときも要注意。それと------」
橋本が言いかけたとき、着替え室のドアが開いた。
出てきたのは六十代後半と見える男性だった。白いTシャツと短パン。細い脚が、半パンから伸びている。胸に電極のパッドがいくつか貼られ、コードが背中を走っていた。
「よろしくお願いします」男性は陽介に向かって頭を下げた。「藤井です。心臓のリハビリで、こちらにお世話になっています」
「柏木です。今日は機器の担当をします」
しばらく後、担当医の山崎が入ってきた。白衣のまま素早く画面を確認し、橋本と二言三言話してから、「始めましょう」と言った。
藤井さんがエルゴメーターにまたがった。橋本が簡単な説明をする。「最初はゆっくりです。先生の指示で少しずつ負荷を上げていきます。しんどくなったらすぐ言ってください。無理して続ける必要はありません」
「分かりました」藤井さんはマスクを装着した。
ペダルが回り始めた。
最初の五分は問題なかった。心拍数はゆっくりと上がり、酸素摂取量のグラフが右肩上がりを描いた。陽介は画面を見守りながら、表示される数値を記録用紙に書き込んでいった。
橋本が「ワット数、上げます」と言い、山崎が「どうぞ」と答えた。負荷が一段上がった。
藤井さんのペダルを漕ぐリズムが少し速まった。
そこから三分ほどが経った頃だった。
「ちょっと、待ってください」
藤井さんの声が、マスクの中から漏れた。ペダルが止まった。
橋本がすぐに近づいた。「どうしましたか」
「足が------」藤井さんは苦しそうに眉を寄せた。「足がつりました。ふくらはぎが」
橋本が膝をついてふくらはぎを確認した。筋肉が固く盛り上がっている。藤井さんは痛みをこらえながら、マスクを外した。
山崎が「一旦中止にしましょう」と言い、橋本が藤井さんをゆっくりエルゴメーターから降ろした。
陽介は機器のアラームを確認し、記録を止め、測定終了の操作をした。画面の数値が固定された。中止直前の心拍数、酸素摂取量、そして呼気中の二酸化炭素濃度。
藤井さんが椅子に腰かけ、橋本がふくらはぎをゆっくりほぐし始めた。しばらくして筋肉の緊張が緩んだのか、藤井さんが「だいぶ楽になってきた」と言った。
「足がつったことは前にもありましたか」山崎が聞いた。
「透析の最中にたまに、という感じで。でも運動中は初めてです」
陽介は記録用紙を見ながら、中止直前のデータをもう一度確認した。グラフの形が、途中から少し変わっていた。酸素摂取量の上がり方がある時点から鈍くなり、かわりに二酸化炭素の排出量が急に増えていた。
「橋本さん」陽介は声をかけた。「このグラフの変化点、って------」
「そう、それ」橋本がさっと立ち上がって画面を覗いた。「AT(無酸素性代謝閾値)が比較的早い段階で出てる。この患者さん、有酸素運動の余力がそれほど多くない」
「ATというのは」\
橋本は少し考えてから「後で説明する」と言った。「今は藤井さんの対応を先にしよう」
藤井さんは「大丈夫ですよ」と言ったが、まだ顔に疲れが残っていた。
陽介はふくらはぎをほぐされている藤井さんを見た。細い脚に、透析のシャントがある左腕。週三回、透析室に来ている人だ。
なぜ、運動の途中で足がつったのか。
画面のグラフが気になった。あの変化点の前後で、藤井さんの体の中で何かが変わっていた。
「今日はここまでにしましょう」山崎が言った。「次回は負荷の設定を見直します」
藤井さんが「すみません、途中で」と頭を下げた。
「途中で言ってくれて正解です」橋本が答えた。「無理して続ける方がよくない」
陽介は機器の電源を落としながら、グラフの形を頭の中に刻み込んだ。数値が変わるとき、体の中で何かが変わっている。あの変化点に、何か名前がついている。
橋本の「後で説明する」という言葉が、耳の中に残った。
第2節 エネルギーの通貨
検査室を出た陽介は、廊下でしばらく立ち止まった。
橋本は後片付けで部屋に残っている。山崎は別の患者へ向かった。藤井さんは休憩室で休んでいる。陽介の手元には、さっきの記録用紙がある。
グラフの形が頭から離れなかった。
あの変化点の前と後で、何が変わったのか。
血液浄化センターに戻ると、桜がちょうど回路の点検を終えたところだった。記録端末に数字を入力しながら、「お疲れ。CPXはどうだった」と聞いてきた。
「途中で足がつって、中止になった」
「えっ」桜が手を止めた。「大丈夫だったの?」
「患者さんは回復した。ただ」陽介は記録用紙をテーブルに置いた。「このグラフの形が気になってる」
桜が覗き込んだ。「これ、途中から傾きが変わってる」
「酸素摂取量の上がり方が鈍くなって、二酸化炭素の排出が急に増えた。橋本さんはATという言葉を使ってた。無酸素性代謝閾値」
「むさんそせい、だいしゃ、いきち」桜はゆっくり繰り返した。「難しい言葉だ。何それ」
「それが分からない」
「真田さんに聞く?」
「今日の午後、真田さんはICUに呼ばれてる。戻ってくるのが何時になるか」
桜はしばらく考えた。「まず自分で考えてみようよ。無酸素性、ということは、酸素がなくなる、ということでしょ」
「境界線、という意味で閾値という言葉を使う。有酸素の状態から、無酸素の状態に切り替わる境界点、だと思う」
「運動すると酸素が足りなくなるの?」
「激しくなると、足りなくなる」
桜が首を傾けた。「でも呼吸すれば酸素は入ってくるじゃない。なんで足りなくなるの」
陽介は少し考えた。
「息を吸って、肺で酸素を取り込んで、血液で運んで、細胞に届ける。その速度に限界がある。運動の強度が上がると、筋肉が必要とする酸素の量が、届けられる量を超える。だから一部の筋肉が、酸素なしでエネルギーを作ろうとする」
「酸素なしでエネルギーを作れるの」
「作れる。ただし効率が悪い」
桜は「効率が悪い、か」と繰り返した。「エネルギーって、結局ATPのことだよね。この前、真田さんが少し話してた」
「そうだ。ATPがないと、筋肉は動けない」
「ATPって、どうやって作るの。ちゃんと教えてもらったことがなかった気がして」
陽介はホワイトボードの前に立った。真田がよくそうするように。ただし真田と違って、陽介はマジックを取って、何かを書こうとした。
書きかけて、手が止まった。
どこから説明するか、が問題だった。いつも陽介は全部を一度に話そうとして、桜に「速すぎる」と言われる。
「一番大事なことだけ、最初に言う」陽介はマジックを置いた。「ATPというのは、体の中でエネルギーのやりとりに使われる共通の分子だ。お金に例えると、通貨に相当する」
「通貨か」桜はノートを開いた。「前にミトコンドリアの話のときも出てきたね、造幣局とか発電所とか」
「そうだ。ただ今日はもう少し具体的に考えてみる」陽介は続けた。「日本円で考えてみよう。買い物するとき、物と物を直接交換するのは不便だ。米一升と魚三匹、という交換を毎回するより、一度お金に変えて、それで何でも買えるようにした方がいい」
「物々交換より通貨の方が便利、ってこと」
「体の中も同じだ。グルコースを直接、筋肉の収縮に使うことはできない。脂肪を直接、神経の電気信号に変えることもできない。だから一度、ATPという共通の通貨に変換する。筋肉はATPを分解してエネルギーを取り出す。神経もATPを使う。細胞が物質を運ぶときもATPが要る。何をするにも、ATPが先に必要だ」
「じゃあATPが切れたら」桜は言った。
「何もできなくなる。筋肉が動かせない。神経が信号を出せない。細胞の中の化学反応が止まる」
桜はノートに「ATPがなくなる=細胞の全活動が止まる」と書いた。それからペンを止めて、顔を上げた。
「藤井さんの足がつったのって、それと関係あるの」
陽介は答えを急がずに、少し待った。
「直接かどうかはまだ分からない。ただ、あのグラフの変化点の前後で、ATPを作る方法が切り替わっていた可能性がある。酸素を使う方法から、酸素を使わない方法に」
「方法が二種類あるの」
「ある。効率の全然違う、二種類が」
桜はノートを見ながら「なんか、藤井さんの足の話が、細胞の話になってきた」と言った。
「最初から細胞の話だ」陽介は言った。「足がつる、というのは筋肉の細胞で何かが起きているということだ。体の外から見える症状は、必ず細胞レベルの出来事と繋がっている」
真田が最初の日に言った言葉を、陽介は思い出していた。
地図を持て。
ATPという通貨の話は、その地図の中心に近いところにある。グルコースが通貨に変わり、通貨が仕事に変わる。その変換の仕組みを知らなければ、なぜ藤井さんの足がつったのかを理解することもできない。
「続きは」桜がノートのページを繰りながら言った。「二種類の方法の話?」
「そうだ」陽介は答えた。「ただ今日の午後は------」
廊下からリーダーの呼び出し音が鳴った。陽介のPHSだった。
「柏木さん、透析室Bブロック、回路交換の介助お願いできますか」
「はい、すぐ行きます」
陽介はホワイトボードのマジックを置いて、立ち上がった。桜がノートを閉じながら「続きは今夜ね」と言った。
「ファミレスか」
「いい加減、家で勉強する習慣をつけるべきだと思う」
「それはそうだ」
陽介は廊下に出た。ナースステーション前を通りながら、頭の中でATPという言葉を回した。エネルギーの通貨。体が動くための共通言語。
藤井さんの細いふくらはぎが、強張って固まっていたあの瞬間。あの筋肉の細胞の中で、何かが足りなくなっていた。
通貨が、切れかけていた。
第3節 酸素なしの緊急産生
その夜は結局、ファミレスになった。
桜が「家で勉強する」と宣言してから四時間後、二人は駅前のファミレスの窓際の席に向かい合っていた。
「意志が弱い」陽介は言った。
「家に帰ったら眠くなった」桜はメニューを閉じた。「コーヒーを飲まないと頭が動かない。ファミレスの方が環境として正しい」
「論理が歪んでいる」
「結果オーライ」
コーヒーが来てから、桜がノートを開いた。昼間の続きだ、という顔をしていた。
「二種類の方法の話だったよね。ATPを作る方法が二種類ある、って」
「そうだ」陽介はノートに簡単な図を描き始めた。「まず前提を確認する。グルコースはどこから来るか」
「食べたものから。炭水化物が消化されてグルコースになる」
「そのグルコースが、最終的にATPに変わる。その変換の経路を代謝経路と呼ぶ。代謝経路にはいくつかの段階がある。最初の段階が解糖系だ」
「かいとうけい」桜はひらがなで書いた。「糖を解く、という字?」
「そうだ。グルコースという糖を、分解していく経路だ。細胞の中の、ミトコンドリアの外側、細胞質という場所で起きる」
「ミトコンドリアの外で起きるんだ」
「ここが重要なところだ」陽介はノートの図に「細胞質」と「ミトコンドリア」の二つの区画を描いた。「解糖系は細胞質で起きる。酸素を必要としない」
桜がペンを止めた。「酸素がなくても動く?」
「動く。グルコース一分子が、ピルビン酸という物質二分子に分解される。その過程で、ATPが二分子作られる」
「二個か」桜は書き留めた。「少ない気がする」
「少ない。だがここで大事なのは、酸素がなくても作れる、という点だ」陽介は続けた。「たとえば激しい運動をするとき、筋肉が必要とするATPの量が、酸素を使って作れる量を超える。そのとき細胞は解糖系だけを使って、酸素なしで緊急にATPを作ろうとする」
「藤井さんのグラフが変わったのは、そこに差し掛かったから?」
「おそらく。有酸素でATPを作れる限界を越えた。その境界点がATだ。無酸素性代謝閾値」
桜はしばらくコーヒーカップを両手で持ったまま考えていた。
「でも」桜は言った。「酸素なしで作れるなら、そのまま続ければいいじゃない。なんで足がつるの」
陽介はそこを待っていた。
「解糖系だけで動かし続けると、問題が出てくる」陽介は図に書き込みを加えた。「解糖系でグルコースが分解されると、ピルビン酸が作られる。通常はピルビン酸がミトコンドリアの中に入って、次の経路で大量のATPが作られる。ただし、そのためには酸素が必要だ」
「酸素が足りないと、ピルビン酸がミトコンドリアに入れない?」
「入れない。そこでピルビン酸は別の行き先を取る。乳酸に変換される」
「にゅうさん」桜がゆっくり書いた。
「乳酸に変換するとき、NADHという物質が再生される。これが解糖系を回し続けるために必要なものだ。だから乳酸を作ることで、酸素なしでも解糖系が回り続けられる」
桜は図を見ながら「つまり」と言った。「乳酸を作ることで、緊急にATPを作り続けられる、ということ?」
「そうだ」
「じゃあ乳酸は、役に立っているもの、ってこと?」
「そういうことになる」
桜が「なんか意外」と言った。「乳酸って、疲れたときに溜まる悪いもの、ってイメージがあった」
「その話は次だ」陽介は少し待った。「まず今日の話を整理する。解糖系は酸素なしで動く。グルコースからピルビン酸を経てATPを作る。酸素が足りなくなると、ピルビン酸は乳酸に変換されて、解糖系が回り続ける。それが無酸素性のエネルギー産生だ」
桜はノートに矢印で流れを書いた。グルコース→ピルビン酸→(酸素あり)ミトコンドリアへ、(酸素なし)乳酸へ。
「問題は」陽介は続けた。「この方法で作られるATPが、たったの二分子だということだ」
「さっき言ってたやつ。少ない、って」
「酸素を使う経路だと、グルコース一分子から最大で三十八分子のATPが作られる」
桜がペンを止めた。「三十八?」
「二と三十八だ」
桜はその数字をノートに並べて書いた。しばらく二つの数字を見比べていた。
「十九倍か」桜は言った。「同じグルコースを使って、方法が違うだけで、十九倍の差がある」
「それだけ酸素を使う経路が効率的だということだ」
「じゃあ、酸素なしの緊急産生だけに頼っていたら」桜はゆっくり言葉を選んだ。「同じグルコースを使っても、ほとんどエネルギーが作れない。すぐに燃料切れになる」
「その通りだ」
「だから足がつる」
陽介は少し間を置いた。「筋肉の収縮にはATPが必要だ。ATPが急激に足りなくなると、筋肉の弛緩ができなくなる。縮んだまま戻れなくなる。それが筋肉がつる、という状態の一つの機序だ」
桜が「弛緩ができなくなる」と書いた。そしてペンを置いた。
「なんか、怖いね」桜は言った。「筋肉って、縮む力だけじゃなくて、緩む力にもATPが要るんだ」
「要る。動くためにも、止まるためにもエネルギーが必要だ」
「機械みたい」桜は窓の外を見た。夜の駅前に、タクシーが一台停まっていた。「車も走るためにもガソリンが要るし、ブレーキを踏むときにも力が要る。動くだけじゃなくて、制御するためにもエネルギーが要る」
「悪くない例えだ」
「今日、真田さんがいなかったから、自分たちで考えた」桜は少し笑った。「真田さんに言ったら何点もらえるかな」
「採点してくれるとは限らない」
「でも」桜はコーヒーを一口飲んだ。「藤井さんの足がつった理由が、少し分かってきた気がする。グルコースはあっても、酸素が足りなくて効率よくATPが作れない。緊急産生だけでは量が追いつかない。筋肉がATP切れになる」
「透析患者さんに心肺機能の低下が重なると、運動中に酸素の供給がさらに制限される。ATが早い段階で来るのも、そういう背景がある」
「橋本さんが言ってた、有酸素運動の余力が少ない、というのも同じ話?」
「同じ文脈だ」
桜はもう一度ノートの図を見た。グルコースから始まる二本の矢印。一方はミトコンドリアへ向かい、三十八のATPを生む。もう一方は乳酸へ向かい、二のATPを生む。
「ねえ」桜が言った。「乳酸が疲れの原因じゃない、って言ってたじゃない。じゃあ乳酸って、本当は何者なの」
陽介はコーヒーカップを置いた。
「それが次の話だ」
「また次か」桜は笑った。「今夜中に全部終わらないね」
「終わらなくていい。一節に一つだ」
「真田さんみたいなことを言う」
陽介は何も言わなかった。
窓の外で、タクシーが走り去った。夜の駅前が、少し静かになった。
第4節 乳酸の濡れ衣
翌朝、藤井さんが透析室の廊下を歩いているのを陽介は見かけた。
昨日と同じゆっくりとした歩き方だったが、顔色は悪くなかった。陽介に気づいて、「昨日はお世話になりました」と頭を下げた。
「足の具合はどうですか」
「だいぶ楽です。寝たら治りました」藤井さんは少し苦笑した。「情けないですね。少し自転車を漕いだだけで」
「情けなくないですよ」
「いや、情けない」藤井さんは言った。「昔はもっと動けたのに。透析を始めてから、すぐ疲れるようになった。足もすぐつる。体が弱くなった気がして、情けない」
陽介は何か言おうとして、うまい言葉が出てこなかった。
「透析の後が特にしんどいんですよ」藤井さんは続けた。「体がだるくて、足が重くて。老いたなあ、と思います」
「老いではないかもしれないです」陽介は言いかけた。
藤井さんが「え?」という顔をした。
「あの、まだ僕も勉強中なので、正確なことは言えないんですが」陽介は言葉を選んだ。「乳酸のこととか、エネルギーの作り方の話を昨日整理していて。疲れやすいのには、理由があるかもしれないと思って」
「乳酸?」藤井さんは首を傾けた。「乳酸って、疲労物質でしょ。運動すると溜まる、悪いやつ」
「実はそれ、少し違うかもしれないんです」
廊下に人が増えてきた。陽介は「今日の透析の後でよければ、少しお話しできますか」と言った。「まだ僕が確認している途中なので、正式な説明ではないんですが」
藤井さんはしばらく陽介を見てから、「聞かせてもらえるなら」と言った。
午前の業務が終わった後、桜に話すと「私も聞きたい」と言った。二人で透析終了後の藤井さんのベッドサイドへ向かった。真田は午後から手術室の応援に入っていて、センターにいない。北村看護師長に一言断ってから、椅子を引いた。
「昨日の続きですか」藤井さんは透析の針を抜いた後の左腕を押さえながら言った。
「はい」陽介は言った。「乳酸の話です。乳酸は疲労物質だと思っていませんか」
「思ってた。違うの?」桜が先に言った。藤井さんが少し笑った。
「乳酸は長い間、疲労の原因だと思われていました」陽介は続けた。「激しい運動の後に筋肉が痛くなるのは、乳酸が溜まるせいだ、と」
「違うんですか」藤井さんが聞いた。
「今は違う、という方向に理解が変わっています。乳酸そのものが筋肉を傷めるわけではない。むしろ乳酸は、酸素が足りないときに体が緊急でエネルギーを作るための、副産物です」
「副産物」藤井さんは繰り返した。
「昨日の解糖系の話を思い出して」桜が陽介に言った。「藤井さんに説明してみて」
陽介はうなずいた。「グルコースという糖がエネルギーに変わるとき、二段階の経路があります。一つ目は細胞の中で酸素なしで動く解糖系。グルコースがピルビン酸という物質に分解されて、少しだけATPが作られる。二つ目はミトコンドリアの中で酸素を使う経路。こちらで大量のATPが作られます」
「どれくらい違うの」桜が藤井さんに向けて言った。「陽介、数字で言って」
「酸素なしだと二分子。酸素を使うと最大三十八分子です」
「二と三十八か」藤井さんは目を細めた。「全然違う」
「はい。だから体は酸素を使う経路をできるだけ使いたい。ただし激しい運動をすると、筋肉が必要とするATPの量が、酸素を使って作れる量を超える。そのとき、緊急に解糖系だけを回し始める」
「それで酸素なしの産生になる」
「そうです。解糖系でピルビン酸が作られる。酸素がなくてミトコンドリアに入れないピルビン酸は、乳酸に変換される。乳酸を作ることで、解糖系が回り続けられる。だから乳酸は、緊急エネルギー産生を支えるための産物なんです」
藤井さんはしばらく黙った。
「乳酸が、悪者じゃない?」
「悪者というより」陽介は言葉を選んだ。「緊急事態への対応の痕跡、という方が近いかもしれません。乳酸が増えているということは、体が懸命にエネルギーを作ろうとした証拠です」
「じゃあ何が問題なの」桜が聞いた。自分が分からないのではなく、藤井さんのために聞いている口調だった。
「乳酸が増えると、血液が酸性に傾きます」陽介は続けた。「酸性になると、酵素の働きが落ちる。筋肉の収縮と弛緩に関わるタンパク質の動きも鈍くなる。それが筋肉のだるさや、つりやすさに繋がっていると考えられています」
「乳酸が直接悪いんじゃなくて」藤井さんはゆっくり言った。「乳酸が増えたことで血液が酸性になる、その影響が出る、ということ?」
「そうです」
藤井さんはまた少し黙った。窓の外を見て、それから手元を見た。左腕の穿刺部位に貼られたテープを、右手の指でそっと触った。
「透析患者って」藤井さは言った。「もともと血液が酸性に傾きやすいって聞いたことがある」
陽介はそれを聞いて、少し前のめりになった。「腎臓が働いていると、血液の酸性度を調整できるんです。腎臓が機能していないと、その調整が難しくなる。透析がその代わりをしているんですが」
「透析と透析の間は」藤井さは言った。「調整できない時間があるわけだ」
「はい」
「だから余計に、乳酸が増えやすい。疲れやすい」
「そう考えられます」
藤井さんは腕のテープをもう一度触った。それから顔を上げて、「情けなくないかもしれないな」と言った。
低い声だったが、さっきとは少し違う色をしていた。
「体が弱くなったんじゃなくて」藤井さは続けた。「体の条件が変わったから、エネルギーの作り方が変わった。だから疲れやすい。そういうことか」
「正確には、もう少し複雑な要因が重なっていると思います」陽介は慎重に言った。「ただ、体が弱くなったという話とは、少し違うと思っています」
藤井さんはしばらく沈黙した。
桜が隣で小さく息を吸うのが聞こえた。
「ありがとう」藤井さは陽介に言った。「理由が分かると、ちょっと楽になる」
陽介は返す言葉を探した。見つからなかった。
「原田さんも同じことを言ってた」桜が帰り道に言った。
「理由が分かる方が、我慢できる、という話か」
「うん」桜はしばらく歩いた。「でも今日の藤井さんは、我慢、というより、そういうことか、って感じだった。諦めじゃなくて、納得、みたいな」
陽介はうなずいた。
廊下の角を曲がりながら、陽介は乳酸という言葉を頭の中で転がした。長い間、疲労物質と呼ばれた物質。悪者の烙印を押されていた分子。しかし実際は、酸素が足りない中で懸命にエネルギーを作り続けた、緊急対応の証だった。
濡れ衣だ、と陽介は思った。
乳酸は、ずっと濡れ衣を着せられていた。
第5節 二と三十八の間にあるもの
翌日の昼休み、陽介はひとりでカンファレンス室にいた。
桜は北村看護師長に呼ばれて別室にいる。真田は昼食を取りに出た。静かな部屋で、陽介はノートを広げて今週の内容を整理していた。
解糖系。ピルビン酸。乳酸。ATP。
図を書いては消し、矢印を引いては書き直す。ノートの余白に数字が並んだ。二と三十八。
この差が、ずっと頭に引っかかっていた。
同じグルコースから出発して、同じ細胞の中で起きているのに、作られるATPの量が十九倍も違う。解糖系だけでは二分子。ミトコンドリアを使う経路まで通すと三十八分子。
その差はどこから来るのか。
陽介はノートに「NADH」と書いた。
昨夜、一人で教科書を開いていたときに出てきた言葉だ。解糖系の話を桜に説明したとき、乳酸を作る理由として「NADHが再生される」と口にしたが、その意味を深く説明しなかった。桜も深く聞かなかった。
しかしそこに、二と三十八の差を説明する鍵がある気がしていた。
「何を書いている」
ドアが開いて、真田が入ってきた。コーヒーの缶を片手に持っている。昼食を終えて戻ってきたらしい。陽介が昼休みに一人でここにいるのを見て、少し目を細めた。
「NADHのことを考えていました」陽介は言った。
真田は椅子を引いて座った。「続けろ」
「二と三十八の差がどこから来るのか、整理しようとしていて。解糖系でATPが二分子作られる。でも同時にNADHという物質も作られる。それがミトコンドリアの中でさらに大量のATPを生む、ということは分かったんですが、仕組みがまだ曖昧で」
「NADHが何か言ってみろ」
陽介は少し考えた。「電子を運ぶ分子、だと思います。解糖系やその後の経路で、グルコースが分解されるときに出てくる電子を受け取って、ミトコンドリアの内膜にある電子伝達系まで運ぶ」
「電子伝達系で何が起きる」
「電子がNADHから放出されて、一連のタンパク質を伝わっていく。その流れを使って、ATPが合成される。最後に電子は酸素と結合して水になる」
「それが酸素が必要な理由だ」真田は言った。「電子の最終的な受け取り手が酸素だ。酸素がなければ電子を受け取る相手がいない。電子伝達が止まる。NADHからATPが作れなくなる」
「だから酸素なしだとATPが二分子しか作れない」陽介は言った。「解糖系で直接作られる分だけだ。NADHを使った大量産生ができない」
「そういうことだ」真田はコーヒーを一口飲んだ。「NADHは言わば、エネルギーの中間貯蔵形態だ。解糖系で作られたNADHは、そのままではATPではない。ミトコンドリアに持ち込んで、電子伝達系を通して初めてATPに換算される」
「中間通貨みたいなものですか」陽介は言った。「ATPが最終的な通貨だとすると、NADHはまだ両替前の状態」
「まあそういうことだ」真田は言った。
陽介はノートに書き込んだ。NADH=中間貯蔵。電子伝達系=両替所。酸素=両替に必要な触媒。
「一つ、自分で考えたことがあります」陽介は言った。
「言ってみろ」
「透析患者さんが疲れやすい理由を、藤井さんに説明したとき、乳酸と血液の酸性化の話をしました。でも話しながら、もう一つ別の要因があるんじゃないかと思って」
真田は何も言わなかった。続けろ、という沈黙だ。
「透析の患者さんは、腎性貧血がある方が多い。赤血球が少ない。赤血球が少ないということは、血液が運べる酸素の量が少ない。酸素の供給が制限される。だとすると、通常の運動強度でも、筋肉への酸素供給が不足しやすい」
「続けろ」
「酸素が足りなければ、ミトコンドリアの電子伝達系が十分に動かない。NADHからATPを大量に作れない。解糖系への依存が増える。乳酸が増えやすくなる。血液が酸性に傾きやすい」陽介は一度止まった。「さらに、透析でビタミンB群が失われると、解糖系からミトコンドリアへのピルビン酸の受け渡しに必要な補酵素も足りなくなる。二重に、ミトコンドリアでのATP産生が妨げられる」
真田がコーヒーの缶をテーブルに置いた。
「つまり」陽介は続けた。「透析患者さんが疲れやすいのは、体が弱くなったからではなくて、ATPを効率よく作るための条件が、複数同時に欠けているからじゃないかと思って。貧血で酸素が足りない。ビタミンが失われて補酵素が足りない。腎臓の機能がないから血液の酸性化を調整しにくい。それが重なっている」
部屋が静かだった。
真田はしばらく陽介を見ていた。
「それは仮説か、それとも調べたことか」
「仮説です」陽介は答えた。「まだ根拠を全部確認できていない。ただ今週習ったことを繋げたら、そう見えてきた」
「仮説を立てることと、証明することは別だ」真田は言った。「ただし仮説を立てられない人間は、何も考えていないのと同じだ」
陽介は真田の目を見た。
「お前の仮説は方向として間違っていない」真田は続けた。「透析患者の運動耐容能が低い理由は、実際に多因子だ。貧血、心機能低下、筋肉量の減少、栄養状態、血液の酸塩基平衡。それぞれが絡み合っている。一つの原因に還元できない」
「藤井さんに話したのは、乳酸の話だけでした」陽介は言った。「全部は話せなかった」
「全部話す必要はない」真田は言った。「患者に必要なのは、今日役に立つ理解だ。全部の機序を一度に渡しても消化できない。昨日の説明で藤井さんが何を受け取ったか、覚えているか」
「情けなくないかもしれない、と言っていました」
「それで十分だ」真田は立ち上がった。「仮説の続きは、臨床のデータを見ながら検証しろ。藤井さんの血液検査のデータ、次の回診のときに一緒に見る」
真田がドアへ向かった。
「真田さん」陽介は声をかけた。「NADHとATPの話、桜にも説明したいんですが、どこから始めればいいですか」
真田はドアを開けながら振り向いた。「お前が今日俺に説明したことを、そのまま桜に言えばいい」
「僕の説明で伝わるかどうか」
「伝わらなかったら、桜が質問する。その質問に答えるうちに、お前の理解も深まる」真田はドアの外に出た。「それが教えるということだ」
足音が廊下に消えた。
陽介はノートを見た。書き込まれた図と数字と矢印。二と三十八。NADHと電子伝達系。貧血とビタミン不足と酸塩基平衡。
バラバラに見えていたものが、一つの患者の体の中で同時に起きている。
藤井さんの細いふくらはぎを思った。透析のたびに血液を浄化しながら、細胞の中ではエネルギーを作るための条件がいくつも欠けていく。それでも体は動こうとする。解糖系を回し、乳酸を作り、できる範囲でATPを作り続ける。
情けなくない。
藤井さんが言った言葉が、今日少し違う重さを持った。
ドアが開いて、桜が入ってきた。「あ、いた。北村さんとの話が終わって------何その顔」
「別に」
「何か分かった顔してる」桜はノートを覗き込んだ。「NADHって書いてある。それ、昨日の続き?」
「そうだ」陽介はノートを開いたまま桜の方に向けた。「教えてやる」
「上から目線」桜は椅子を引いた。「でも聞く」
陽介はノートの図を指で示しながら、話し始めた。
真田が言った通りだった。桜がすぐに質問を挟んできた。「電子って何」「両替所ってどういう意味」「酸素が受け取り手って、水ができるってこと?」。一つ一つ答えるうちに、陽介自身の言葉が少しずつ整っていった。
昼休みが終わる頃、桜がノートを閉じて言った。
「二と三十八の差って、酸素があるかないかの差なんだね」
「そうだ」
「透析患者さんは、その差が出やすい条件が重なってる」
「そういうことだ」
桜はしばらく考えた。「ということは」と、ゆっくり言った。「貧血を治す、ビタミンを補う、透析で酸性化を抑える。それが全部、三十八に近づけるための仕事、ってこと?」
陽介はその言い方を聞いて、少し間を置いた。
「そういうことだと思う」
「CEの仕事って」桜は静かに言った。「二を、三十八に近づける仕事なのかもしれない」
PHSが鳴った。午後の業務が始まる時間だった。
二人は立ち上がり、ノートを閉じ、カンファレンス室を出た。
廊下の先に透析室がある。その中に藤井さんがいる。田中さんがいる。岸本さんがいる。それぞれの細胞の中で、今もATPが作られ続けている。二分子であれ、三十八分子であれ、できる限りの通貨を作りながら、体は動き続けている。
その体に寄り添うための地図が、また一枚、厚くなった。
お読みいただきありがとうございました。
「二を、三十八に近づける仕事」——桜のこの言葉は、この章を書きながら自分でも一番しっくりきた言葉でした。機械を動かすことの意味が、細胞レベルの話と繋がったとき、CEという仕事の輪郭が少し変わって見えます。
「情けなくないかもしれない」という藤井さんの言葉も、この章で大切にしたい場面でした。
次回、第5章「発電所、フル稼働」です。




