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第3章 身体を動かす職人たち

 第3章です。

 アラームが鳴る理由が分子レベルで分かると、機械の意味が変わります。鍵と鍵穴の関係で動く酵素の話、至適という言葉の本当の意味、ビタミンが補酵素として酵素を動かす仕組み、そして一か所の連鎖が止まるとドミノのように全体に波及するという怖さと——その連鎖を守る仕事の意味まで。

 陽介と桜の三日目、お付き合いください。

第1節 アラームが鳴った理由

 朝のプライミングが終わって間もなく、アラームが鳴った。

 甲高い電子音ではなく、低く断続的な警告音だった。血液浄化センターの奥、七番ベッドの機械だ。陽介はすぐにそちらへ向かった。桜も後に続いた。

 七番ベッドの患者は、六十代後半の男性で名前を岸本さんといった。透析歴は十二年のベテランで、アラームが鳴っても表情一つ変えずに天井を見ている。慣れているのだ。

 陽介は機械のパネルを確認した。静脈圧上昇のアラームだった。血液が静脈側のチューブを通って体に戻るとき、その圧力が設定値を超えている。

 「静脈圧が上がってます」陽介は言った。「チューブのどこかで流れが妨げられてる可能性があります」

 「見てみ」岸本さんが億劫そうに腕を差し出した。

 陽介は静脈側の針周辺を確認した。針がわずかにずれていた。体動で動いたのだろう。針の角度を慎重に調整すると、圧力が正常値に戻った。アラームが止んだ。

 「ありがとう」岸本さんは言った。「あんた、昨日から見てるけど、手つきが随分慣れてきたな」

 「まだ二日目です」

 「そうか。でも落ち着いてる。焦った顔してないのがええ」

 陽介は軽く頭を下げて、機械のパネルに記録を入れた。

 「お手本みたいだったね」桜が隣で小声で言った。

 「手順通りにやっただけだ」

 「それができない人もいるんだよ、焦ると」

 そのとき、後ろから真田の声がした。「陽介」

 振り向くと、真田が腕を組んで立っていた。「なぜ静脈圧が上がったか、分かるか」

 「針がずれていて、血液の戻り道が狭くなっていたからです」

 「それは現象だ」真田は言った。「なぜ圧力が上がると機械がアラームを出すのか、分子レベルで言えるか」

 陽介は少し考えた。「血液の流れが妨げられると、チューブ内の圧力が上がる。静脈圧の上昇はまず返血路のどこかに問題があるサインで、針先のずれ、回路の屈曲、凝血などを疑う。そのまま放置すれば、返血不良や回路凝固、さらには赤血球の膜が壊れる溶血へとつながる可能性がある」

 「赤血球の膜が壊れる、とはどういうことだ」

 「細胞膜のリン脂質二層構造が物理的なストレスで破綻する。中のヘモグロビンが外に出る」

 「なぜそれがいけない」

 「ヘモグロビンが血中に大量に出ると腎臓に負担をかける。透析患者はただでさえ腎機能がないから、溶血は重大な合併症につながる」

 真田は黙って陽介を見た。数秒の沈黙があった。

 「合格だ」真田は言った。「昨日より答えが速くなった」

 それだけ言って、真田は別のベッドへ歩いていった。

 桜が「また褒められた」と小声で言った。

 「二回目だ」

 「数えてるの」

 「数えてないと気づかない褒め方をする人だから」

 岸本さんがその会話を聞いていたらしく、くくっと笑った。「真田くんに褒められるのは珍しいで。あの人、めったに褒めへんから」

 「そうなんですか」桜が聞いた。

 「十二年通ってるけど、俺は褒められたことないな」岸本さんは言った。「まあ、俺は患者やからな。褒められる機会自体がない」岸本さんは少し間を置いた。「でも真田くんは腕がええよ。何かあったらすぐ来る。夜中でも来る。怖い顔してるけど、この部屋の誰も死なせへんという顔してる」

 陽介はその言葉を聞いて、真田の背中を目で追った。今は別のベッドで、別の患者のデータを確認している。白衣の背中が、少し違って見えた。

 「ねえ」桜が陽介に囁いた。「さっき真田さんに聞かれたこと、私には答えられなかったと思う」

 「どの部分が」

 「赤血球の膜が壊れる、というところ。細胞膜の話は一昨日習ったけど、それが圧力で壊れるイメージが結びついてなかった」

 「膜は物理的な力でも壊れる」陽介は言った。「リン脂質の二層構造は柔軟性があるけど、限界を超えると破断する。透析回路の中で血球に過剰な圧力や剪断力がかかると、それが起きる」

 「剪断力?」

 「流体が層状に流れるときに生まれる、ずらすような力だ。ポンプの回転やチューブの狭窄部分で発生する。赤血球はある程度変形できるから、狭い毛細血管も通れる。でもその変形能にも限界がある」

 「赤血球って変形するんだ」

 「円盤型で、真ん中がへこんでる形をしてる。その形が、変形しやすい構造になっている。細い血管を通るとき、赤血球は自分の形を変えて通り抜ける」

 桜はしばらくそれを考えた。「それも細胞膜の柔軟性のおかげ?」

 「リン脂質の二層は固い壁じゃなくて、液体に近い性質を持ってる。膜の中でリン脂質が横に動ける。だから膜全体が変形できる」

 「じゃあ、さっきの静脈圧が上がった状態が続いてたら」

 「赤血球が変形の限界を超えて、膜が壊れ始める。溶血が進む。それを機械が圧力として検知して、アラームを出した」

 桜は機械のパネルをもう一度見た。「アラームって、細胞を守るために鳴るんだね」

 陽介はその言い方を少し意外に思ったが、「そうだな」と言った。

 機械のアラームは、設定値を超えた数字への反応だ。しかしその数字の背後には、細胞膜が壊れ始めるという生物学的な臨界点がある。アラームの設定値は、生化学的な限界値から逆算して決められている。

 機械の論理と、細胞の論理が、同じ場所を指している。

 「真田さんが言ってたことが今日、分かった」陽介は言った。

 「なにを」

 「なぜそのアラームが鳴るか、分子レベルで言えるかって最初の日に聞かれた。あのときは答えられなかった。今日は答えられた」

 「成長してる」桜は言った。

 「まだ入口だ」

 岸本さんがまたくくっと笑った。「若いのは、成長が早くていいな」

 陽介は岸本さんを見た。十二年間、週三回この部屋に来ている人が言っている。その十二年間の間に、どれだけのアラームが鳴り、どれだけのCEが対応し、岸本さんの血液を守り続けてきたのか。

 機械が細胞を守る。

 その言葉が、今日初めて、腑に落ちた。


第2節 鍵と鍵穴の話

 午前の回診が一通り終わった後、真田が「少し時間を取れ」と言った。

 連れていかれたのは、昨日も使ったカンファレンス室だった。今日は山口栄養士も北村看護師長もいない。真田と陽介と桜の三人だけで、丸テーブルを囲んだ。真田はホワイトボードに何も書かず、椅子に座って腕を組んだ。

 「酵素の話をする」と真田は言った。

 陽介はノートを開いた。桜も同じようにした。

 「昨日、原田さんのところでアミノ酸の話をした。アミノ酸からタンパク質が合成される、という話だ。タンパク質には色々な種類がある。構造を作るもの、物質を運ぶもの、免疫に関わるもの。その中で今日話すのは、酵素として働くタンパク質だ」

 「酵素は化学反応を助けるものですよね」桜が言った。「触媒、というやつ」

 「そうだ。体内で行われる化学反応は、何万種類もある。その一つ一つに、専用の酵素が存在している。酵素がなければ、体温という穏やかな条件下では反応が進まない、あるいは進んでも何千年もかかる」

 「何千年」桜が繰り返した。「それが酵素があると?」

 「瞬時に、あるいは秒単位で進む。それが触媒の力だ」

 陽介は昨日のアラームの話を思い出した。細胞膜が物理的な限界を持つように、化学反応にも限界がある。温度や圧力を極端に上げれば反応は進むが、体の中ではそれはできない。だから酵素が必要になる。

 「酵素にはルールがある」真田は続けた。「一つ目は基質特異性だ」

 「基質というのは」陽介は聞いた。

 「酵素が作用する相手の物質のことだ。酵素は何にでも作用するわけじゃない。決まった相手にしか作用しない。例えばアミラーゼはデンプンを分解するが、タンパク質には作用しない。リパーゼは脂質に作用するが、糖質には手を出さない」

 「なぜ特定の相手にしか作用しないんですか」桜が聞いた。

 真田はホワイトボードにマジックで二つの形を描いた。凸型の形と、それにぴったりはまる凹型の形。「鍵と鍵穴の関係だ。酵素には活性部位という特定の構造があって、基質の形とぴったり合う場合だけ結合できる。形が合わない相手は、そもそも近づけない」

 「タンパク質の立体構造が、鍵穴の形を決めてるんですか」陽介は言った。

 「そうだ。タンパク質はアミノ酸の配列によって、特定の三次元構造に折りたたまれる。その形が酵素の機能を決める。だからDNAの情報が変わってアミノ酸配列が変わると、折りたたみ方が変わって、鍵穴の形が崩れる。酵素が機能しなくなる」

 「それが遺伝子の病気に繋がる」陽介は言った。

 「そういうことだ」

 桜がホワイトボードの鍵と鍵穴の絵を見ながら、「受容体も同じですか」と聞いた。「インスリンが細胞に作用するとき、受容体に結合するって習ったことがある」

 「同じ原理だ。インスリンという鍵が、細胞膜の受容体という鍵穴に合うから、グルコースの取り込みが始まる。鍵穴の形が変わっていたら、鍵を差し込んでも動かない。それが糖尿病の一形態、インスリン抵抗性だ」

 原田さんの顔が陽介の頭に浮かんだ。糖尿病性腎症で透析導入になった患者。インスリンの鍵が、細胞の鍵穴に合わなくなっていた。だからグルコースが細胞に入れず、血液に溜まり続けた。

 「二つ目のルールは反応特異性だ」真田は続けた。「酵素は基質を選ぶだけでなく、反応の種類も選ぶ。同じ基質に対しても、切断するのか、合成するのか、酸化するのか、還元するのか、それぞれ専用の酵素が担当する」

 「代謝経路というのは」陽介は言った。「その専用酵素が順番に並んでいるものですか」

 「そう理解していい。物質Aが物質Bに変わり、BがCに変わり、CがDになる。各ステップに一つの酵素が仲介役として立っている。その連鎖が代謝経路だ」

 「だから一つの酵素が欠けると」桜が言った。「連鎖が途中で止まる」

 「止まるか、あるいは迂回路を探す。迂回路がない場合、その先の産物が作れなくなる。あるいは手前の物質が溜まりすぎる。どちらも病態に繋がりうる」

 陽介はノートに書きながら、昨日の原田さんへの説明を思い出した。今日の明け方、ファミレスで桜と一緒に準備した内容だ。タンパク質はアミノ酸に分解されて吸収される。アミノ酸からタンパク質が合成される。その合成を担うのが酵素だ。原田さんの体でも、アミノ酸からアルブミンを作る過程に、何段階もの酵素が関わっている。

 「タンパク質が材料不足だと」陽介は言った。「酵素自体も合成できなくなる可能性があるということですか」

 「ある」真田は言った。「酵素もタンパク質だ。アミノ酸が足りなければ、酵素の合成も滞る。酵素が減れば、その酵素が担当していた反応が遅くなる。代謝全体が落ちる」

 「悪循環だ」桜が言った。

 「栄養状態の悪化と代謝機能の低下は、互いを悪化させる。透析患者でアルブミンが低い状態が続くと、感染に弱くなり、創傷治癒が遅れ、薬の効き方も変わる。アルブミンは薬の運搬にも関わるから」

 アルブミンが薬を運ぶ。一昨日の話が返ってきた。タンパク質の材料が足りないと、アルブミンが作れない。アルブミンが足りないと、薬が正しく運ばれない。薬が届かなければ、治療効果が出ない。

 一つの欠損が、思わぬ場所まで波紋を広げる。

 「今日の原田さんへの説明」真田は二人を見た。「準備できているか」

 「できています」陽介は答えた。「昨夜、桜と整理しました」

 「どう説明する」

 陽介はノートを見ずに答えた。「透析前はタンパク質を控えることで腎臓への負担を減らしていた。それは正しい判断だった。しかし透析を始めた今は状況が変わっている。透析の過程でアミノ酸が失われるため、食事で補わないとタンパク質の合成に必要な材料が足りなくなる。アルブミンが低下すると、体の様々な機能が落ちる。だから今は積極的に良質なタンパク質を摂ることが大切だ、という順番で話します」

 真田は黙って聞いていた。

 「ただ一点」陽介は続けた。「タンパク質を増やす一方で、リンの摂りすぎには注意が必要です。タンパク質を多く含む食品はリンも多い傾向があるので、その兼ね合いを山口さんと一緒に具体的に示したいと思います」

 真田の口元がわずかに動いた。

 「よく整理できている」真田は言った。「原田さんは理由を知りたい人だ。論理の順番が正しければ、納得してくれる」

 桜が「練習の甲斐があった」と小さく言った。昨夜のファミレスで、二人は何度も説明の順番を入れ替えながら確認し合った。桜が原田さん役をやり、陽介が説明する役をやった。途中で桜が鋭い質問を投げてきて、陽介が詰まる場面が何度もあった。

 「一つ確認させてください」桜が真田に言った。「酵素の話で、至適温度と至適pHがあると習ったんですが」

 「ある。酵素には最もよく働く温度とpHの範囲がある。人間の酵素の多くは体温に近い三十五度から四十度で最もよく働く」

 「それを外れると?」

 「活性が落ちる。高熱が続くと体に悪い理由の一つは、体温が上がることで酵素の立体構造が崩れ、活性が低下するからだ。タンパク質が熱で変性する、という現象だ」

 「卵が熱で固まるのと同じ?」桜が言った。

 「原理は同じだ。卵白のタンパク質が熱で変性して、元に戻れなくなる。酵素も同様に、一定以上の温度にさらされると構造が壊れて、冷やしても元に戻らない」

 「透析液の温度管理も、それに関係しますか」陽介は聞いた。

 「関係する。透析液の温度が適切でないと、血液の温度に影響する。血液が冷えすぎれば患者が寒がるだけでなく、代謝にも影響しうる。機械の温度設定は、患者の体内環境を守るための設定でもある」

 機械の設定値と、体内の酵素の至適環境が、また繋がった。

 陽介はノートに「温度設定=酵素活性を守るための設定」と書いた。

 「では行くか」真田が立ち上がった。「原田さんが待っている」

 三人はカンファレンス室を出た。廊下を歩きながら、陽介は自分の手を見た。昨日アラームに対応したとき、針の位置を調整した手。今日原田さんに説明をする手。同じ手が、機械を扱い、言葉を扱う。

 鍵と鍵穴の話を、今日また使うことになるかもしれない。インスリンと受容体の話は、原田さんにとって自分の体の話だ。

 理由が分かる方が、我慢できる。

 原田さんの言葉が、また戻ってきた。


第3節 至適という言葉の意味

 原田さんの顔は、昨日より少し柔らかくなっていた。

 ベッドに半身を起こし、手元に昨日もらった食事指導の資料を広げている。読んできたのだ、と陽介は思った。自分なりに予習してきた人の顔をしていた。

 「来てくれたか」原田さんは言った。「昨日の続きを聞かせてもらえるんやね」

 「はい」陽介は椅子を引いてベッド脇に座った。桜は少し後ろに立った。山口栄養士はまだ来ていない。「少し早く来てしまいましたが、よければ先に話しておいていいですか」

 「ええよ」原田さんは資料を脇に置いた。「昨日、炭水化物を抜いたら脂肪が燃えるって聞きかけた話、続きを聞かせてくれるか」

 陽介は準備してきた説明の順番を頭の中で確認した。

 「まず体のエネルギー源についてです」陽介は始めた。「体はエネルギーを得るために、主にグルコースを使っています。ご飯やパンのデンプンが消化されてグルコースになり、血液に乗って全身の細胞へ届く。細胞はグルコースを使ってATP、つまりエネルギーの通貨を作ります」

 「グルコースが入ってこないと?」

 「次の候補が使われます。体に蓄えていた脂肪です。脂肪細胞の中の中性脂肪が分解されて、脂肪酸として血液に放出される。脂肪酸が細胞のミトコンドリアに入って、エネルギーになる」

 「ミトコンドリア」原田さんは繰り返した。「学校で習ったな、昔。発電所とか言われるやつ」

 「そうです。その発電所で、グルコースも脂肪酸も最終的に同じ経路を通ってエネルギーに変えられます。ただ脂肪酸の方が、一グラムあたりのエネルギー量が二倍以上多い」

 「脂肪の方が燃費がいい」

 「貯蔵という意味では優秀な燃料です。だから体は余ったエネルギーを脂肪として蓄える。炭水化物を減らすと、その脂肪が使われる機会が増える。それが体重が落ちる理由です」

 原田さんはうなずいた。昨日とは違う、腑に落ちた顔のうなずき方だった。

 「じゃあ聞くけど」原田さんは続けた。「俺みたいに糖尿病がある場合、炭水化物を完全にやめた方がいいんか」

 陽介は少し間を置いた。これは昨夜桜と話し合った論点だった。

 「やめすぎると別の問題が起きます」陽介は言った。「グルコースが全く入ってこない状態が続くと、体は脂肪を大量に燃やそうとする。その過程でケトン体という物質が増えます」

 「ケトン体」

 「脂肪が燃えるときの副産物です。少量なら問題ありませんが、大量に溜まると血液が酸性に傾く。それが糖尿病の重篤な合併症の一つ、ケトアシドーシスです」

 「聞いたことがある」原田さんの表情がわずかに引き締まった。「怖いやつやな」

 「だから炭水化物はゼロにするのではなく、適量を保ちながら血糖値を管理することが大切です。その適量を決めるのが、山口先生の役割で——」

 ドアが開いて、山口栄養士が入ってきた。「お待たせしました。もう始めてたのね」

 「基本的なところを話していました」陽介は言った。

 「聞いてたわ、廊下で少し」山口は言った。「続けて」

 陽介は原田さんに向き直った。「今日の本題はタンパク質の話です。昨日のアルブミンの数値のことを、原田さんには説明していいですか」

 「ええよ。俺の数値やから、知る権利がある」

 陽介は昨夜整理した順番で話し始めた。透析前にタンパク質を控えていたことは正しかった。しかし透析を始めた今、状況が変わっている。透析の過程でアミノ酸が失われる。だから今は補わなければならない。

 原田さんは黙って聞いていた。途中で一度だけ「透析で栄養が抜けていくんか」と確認するように言ったが、陽介が「小さな分子は膜を通ってしまう」と答えると、「なるほどな」とだけ言った。

 説明が終わったとき、原田さんはしばらく沈黙した。

 「一つ聞いていいか」原田さんは言った。「俺が今まで控えてたのは、間違いやったんか」

 陽介は慎重に答えた。「透析前の判断としては間違いではありませんでした。腎臓に負担をかけないために、タンパク質を控えることは理にかなっていた。ただ状況が変わった。透析という治療が始まって、体の条件が変わった。だから食事の方針も変える必要がある」

 「正解が変わった、ということか」

 「はい」

 原田さんは少し笑った。苦い笑い方だったが、それまでの硬い表情よりは柔らかかった。「人生みたいやな。昨日の正解が今日の正解とは限らん」

 桜が後ろで小さく息をのむ気配がした。

 山口栄養士が具体的な食品の話に移った。タンパク質を多く含む食品の選び方、リンとのバランスの取り方、一日の目標量。原田さんは資料に書き込みながら聞いた。

 説明が終わって三人が廊下に出ると、山口栄養士が「よかったわよ」と陽介に言った。「特に状況が変わって正解が変わる、という話の持っていき方が」

 「原田さんが引き取ってくれました」

 「患者さんが自分で言葉を見つけてくれるのが一番いい。それを引き出せたのはあなたの話し方のおかげよ」

 山口栄養士が去った後、桜が「人生みたいやな、って言葉」と言った。

 「良かったな、あの言葉」

 「陽介が丁寧に説明したから、原田さんが自分で辿り着いた言葉だよ」

 「買いかぶりすぎだ」

 「そうかな」桜は少し考えた。「でも正解が変わる、って透析の管理全体に言えることだよね。昨日の設定が今日も正しいとは限らない。患者さんの状態が変われば、機械の設定も変わる」

 陽介は廊下を歩きながら、その言葉を反芻した。

 至適、という言葉を今朝の真田との話で考えた。酵素には至適温度と至適pHがある。最もよく働く条件がある。しかしその条件は固定ではない。体の状態が変われば、必要な条件も変わりうる。

 原田さんの体も、透析前と透析後で条件が変わった。必要な栄養素の量が変わった。その変化に合わせて、食事という「設定」を変える必要があった。

 至適という言葉は、ある時点における最善を指す。それは永遠の正解ではない。

 「真田さんに報告しないといけないな」陽介は言った。

 「うまくいったって言える?」

 「言える」

 桜は少し微笑んだ。「じゃあ一緒に行こう」

 血液浄化センターに戻ると、岸本さんが「原田さんのとこに行ってたんか」と声をかけてきた。

 「はい」

 「どうやった」

 「何とか話せました」

 「原田さん、ちょっと表情が変わったで」岸本さんは奥の方を顎で示した。「さっき見たら、資料をまた読んでた。さっきより真剣な顔で」

 陽介はその方向を見た。原田さんのベッドは遠くて顔は見えないが、手元に資料があるのは分かった。

 理由が分かる方が、我慢できる。

 その言葉の通り、原田さんは理由を手に入れた。正解が変わった理由を。だから今日、もう一度資料を開いている。

 酵素が基質を認識して反応する。その仕組みを鍵と鍵穴と呼ぶなら、言葉と人の間にも同じようなことがある、と陽介は思った。正しい説明が、相手の中の何かにぴったりはまる瞬間がある。

 はまったとき、人は自分で言葉を見つける。

 人生みたいやな、と原田さんは言った。

 それは陽介が用意した言葉ではなかった。


第4節 ビタミンという縁の下

 午後の業務が一段落した頃、北村看護師長が血液浄化センターに入ってきた。

 手に小さなバインダーを持ち、いくつかのベッドを回りながら患者に声をかけている。陽介はその様子を横目で見ながら回路の点検記録を入力していた。北村が何人かの患者と短い会話を交わした後、陽介たちの方へ歩いてきた。

 「少しいい?」北村は言った。命令形ではなく、しかし断れない種類の問いかけだった。

 「はい」

 「透析患者さんへのビタミン補充について、理解できているか確認させてほしいの」北村はバインダーを開いた。「うちの患者さんの何人かに、水溶性ビタミンの補充薬が処方されている。なぜ補充が必要か、分かる?」

 陽介は考えた。水溶性ビタミン。ビタミンB群とビタミンC。水に溶けるということは——。

 「透析で抜けるからですか」陽介は言った。「アミノ酸と同じように、水溶性の小さな分子は透析膜を通過してしまう」

 「正解」北村はうなずいた。「透析のたびに水溶性ビタミンが失われる。食事で補おうとしても、透析患者さんはカリウムやリンの制限があるから、ビタミンを多く含む食品も制限されることがある。だから薬として補充する」

 「脂溶性ビタミンは?」桜が聞いた。「ビタミンAとかDとかは抜けないんですか」

 「脂溶性ビタミンは水に溶けないから、透析では抜けにくい。ただし今度は逆に、腎臓で活性化されるビタミンDが問題になる。腎臓が働いていないと、ビタミンDが活性型に変換されない」

 「活性型でないと、どうなるんですか」

 「カルシウムの吸収が落ちる。骨が弱くなる。透析患者さんに骨の問題が多いのは、そこにも原因がある」

 桜はノートに書きながら「ビタミンD、腎臓で活性化、カルシウム吸収」と小声で読み上げた。

 北村はそれを見て少し目を細めた。「ちゃんと書いてる。いいわ」

 北村が去った後、陽介は「補酵素の話が来た」と言った。

 「補酵素?」桜が顔を上げた。

 「今朝の真田さんの話で出てくるはずだったやつだ。酵素の話の続き」

 「あ、まだ補酵素のところを聞いてなかった」桜はノートを繰った。「真田さん、原田さんへの説明の流れで途中になってたね」

 陽介はカンファレンス室に向かおうとして、廊下で真田と鉢合わせした。真田は手に記録用紙を持ち、どこかへ向かうところだった。

 「補酵素の話の続きを聞かせてもらえますか」陽介は言った。「北村さんからビタミン補充の話が出て、繋がっている気がして」

 真田は少し立ち止まった。「今から五分だけ時間がある。立ち話でいいか」

 「はい」

 真田は廊下の壁に背をもたせかけた。「酵素の中には、単独では働けないものがある。低分子の有機化合物と結合して初めて活性を持つ。その有機化合物を補酵素と呼ぶ」

 「ビタミンB群が補酵素になるんですよね」陽介は言った。

 「そうだ。例えばビタミンB1はチアミン二リン酸という補酵素の材料になる。これはピルビン酸をアセチルCoAに変換する酵素の補酵素として必要だ」

 「ピルビン酸からアセチルCoAへの変換」陽介は繰り返した。「それはグルコースがエネルギーに変わる経路の途中ですよね。解糖系の後、ミトコンドリアに入る前の段階」

 「正確に言えばその通りだ。ビタミンB1が不足すると、この変換ができなくなる。グルコースを食べてもエネルギーに変えられない。それが脚気という病気の正体だ」

 「脚気」桜が言った。「江戸時代の病気ですよね。白米を食べすぎると——」

 「白米中心の食事ではビタミンB1が不足する。グルコースが増えるのに、それをエネルギーに変える補酵素が足りない。神経や心臓の機能が落ちる」

 「現代でも透析患者さんには起きうる?」陽介は聞いた。

 「透析でビタミンB1も抜けるから、補充しないと同様のリスクがある。だから北村さんが言った通り、水溶性ビタミンの補充は必須だ」

 陽介はノートに「B1→チアミン二リン酸→ピルビン酸→アセチルCoA変換」と書いた。昨日から何度も出てきたアセチルCoAという物質が、また繋がり方を増やした。

 「アポ酵素とホロ酵素という言葉を聞いたことがありますか」桜が言った。

 真田は少し意外な顔をした。「どこで知った」

 「昨夜、陽介と勉強していて教科書に出てきました。補酵素が結合していない状態がアポ酵素、結合した状態がホロ酵素って」

 「合っている。補酵素なしのアポ酵素は活性がない。ただのタンパク質だ。補酵素と結合してホロ酵素になって初めて、触媒として働ける」

 「ということは」陽介は言った。「透析でビタミンが抜けると、酵素はあっても補酵素がないから活性が持てない。酵素が揃っていても、代謝が回らなくなる」

 「そういうことだ」

 「工場に機械はあるのに、燃料がない状態」桜が言った。

 真田は短く「いい例えだ」と言った。

 陽介は廊下の窓から差し込む夕方の光を見ながら、工場という比喩をまた考えた。第一日目に真田が言った言葉だ。生化学を知らないCEは地図なしで工場の中を歩いている。

 工場には機械が要る。動かす人間が要る。設計図が要る。そして燃料が要る。

 酵素が機械なら、補酵素は燃料だ。材料であるアミノ酸が設計図の指示でタンパク質として組み立てられ、その中に酵素という機械が含まれる。しかし機械だけあっても動かない。ビタミンという燃料が補酵素として結合して、初めて機械が動き出す。

 透析はその燃料を定期的に奪っていく。

 だから補充する。薬として。週三回の透析のたびに失われるものを、食事と薬で取り戻す。

 「一つ、素朴な疑問があります」桜が言った。

 「どうぞ」真田は記録用紙に目を落としながら答えた。

 「ビタミンって、なぜ体の中で合成できないんですか。アミノ酸からタンパク質を合成するように、ビタミンも自分で作れればいいのに」

 真田は少し考えた。「進化の産物だからだ、というのが一つの答えだ。生物が誕生した当初は、環境にビタミンが豊富にあった。合成する能力を持っていなくても、外から取り込めれば十分だった。合成経路を維持するコストより、外から取り込む方が効率的だった」

 「合成する遺伝子を捨てた?」

 「使わない能力は退化する。進化の過程で、合成経路が失われた生物の方が生存競争に負けなかった。だから今の人間には、その能力がほとんど残っていない」

 「捨てたら困るものを捨てた」桜は言った。

 「環境が変わったら困る、ということだ。食事が偏れば不足する。透析で失われれば枯渇する。環境前提で設計された仕組みは、環境が変われば脆くなる」

 「透析という環境も、生物の進化が想定していなかった環境ですよね」陽介は言った。「だから余計に、意識して補わないといけない」

 真田は少し黙った。それから「そういうことだ」と言って、廊下を歩き始めた。「記録を仕上げておけ。今日は残業になる」

 背中が廊下の先に消えていった。

 桜が「残業か」と小声で言った。

 「仕方ない」

 「でも今日は色々分かったね。ビタミンが補酵素で、補酵素がないと酵素が働けなくて、透析で抜けていくから補充が必要で」

 「全部繋がった」

 「全部繋がったね」桜は満足そうにノートを閉じた。「工場に機械はあっても燃料がないと動かない。それが患者さんの体で起きてることだって分かった」

 陽介は記録端末に向かいながら、今日一日を振り返った。

 アラームが鳴り、原田さんに説明し、至適という言葉の意味を考え、ビタミンが補酵素の材料だと知った。それぞれは別々の出来事だったが、一本の糸で繋がっていた。酵素という職人が働くためには、設計図と材料と燃料と、適切な環境が全部揃っていなければならない。

 どれか一つが欠けても、工場は止まる。

 透析患者の体では、その欠けやすいものが複数ある。CEはその欠けを把握して、機械と薬と食事と、使えるものを全部使って補い続ける。

 縁の下、という言葉が頭に浮かんだ。

 ビタミンは縁の下だ。表に出ない。名前を呼ばれない。しかしビタミンがなければ、酵素という職人は仕事ができない。職人が仕事をできなければ、工場は動かない。

 縁の下を知っているかどうかが、工場の地図を持っているかどうかの差だ、と陽介は思った。


第5節 連鎖が止まるとき

 残業は二時間で終わった。

 記録の入力、回路の最終確認、翌日分の準備。真田の指示に従って二人が手を動かす間、血液浄化センターの患者たちは順番に帰宅していった。田中さんが「お疲れさん」と手を振り、岸本さんが「また明日」と言い、原田さんが「ありがとう」と頭を下げた。

 最後の患者が帰り、機械の電源が落とされ、センターが静かになった。

 片付けを終えた陽介は、椅子に座って今日の記録を見直していた。桜は向かいに座って、ノートの整理をしていた。真田はまだ奥の処置室で何かをしている。

 「ねえ」桜がペンを持ちながら言った。

 「なに」

 「今日の話、全部繋がってるのは分かったんだけど、一個だけまだもやっとしてることがあって」

 「どの部分だ」

 「酵素が欠けたら連鎖が止まる、って真田さんが言ってたじゃない。今日の話だけじゃなくて、第一日目からずっとそういう話が出てくる。でも実際に連鎖が止まるって、どういうことなのかイメージができていない」

 陽介はノートを繰った。初日に真田が言った言葉が書いてある。「設計図であるDNAを自分でコピーして、そのコピーを使ってタンパク質を作る。タンパク質が酵素として化学反応を動かし、化学反応がATPを作り、ATPが細胞の全活動を支える。その連鎖が止まらない限り、生命は続く」

 連鎖が止まらない限り、生命は続く。

 裏返せば、連鎖が止まれば、生命が危うくなる。

 「具体的な例で考えてみるか」陽介は言った。「ビタミンB1の話で出てきたピルビン酸をアセチルCoAに変換する酵素がある。あの酵素の補酵素はビタミンB1から作られる。ビタミンB1が透析で抜けて補充されなかったとする」

 「補酵素がなくなる」

 「だから酵素がアポ酵素のまま、ホロ酵素になれない。ピルビン酸がアセチルCoAに変換されない」

 「ピルビン酸が溜まる?」

 「そうだ。溜まったピルビン酸は乳酸に変換される。乳酸が増えると血液が酸性に傾く」

 桜は「それって」と言いかけて止まった。「血液が酸性になると、さっき脚気の話が出たけど、それだけじゃなくて、酵素全体の働きが落ちるよね。至適pHを外れるから」

 「その通りだ。一か所が止まると、他の場所にも影響が波及する。連鎖が止まる、というのは一点が崩れて全体に広がる、という意味だ」

 桜はしばらくノートを見つめた。

 「ドミノ倒しだ」桜は言った。

 「悪い方向への、な」

 「でも逆もある?」桜は顔を上げた。「一か所を治すと、全体が回り始める、という良い方向のドミノ」

 陽介は少し考えた。「ある。ビタミンを補充したら補酵素が作られてホロ酵素になって、代謝が回り始める。タンパク質を適切に摂ったらアルブミンが増えて、薬の効きが改善される。透析で不要物を取り除いたら、残っていた酵素が至適環境で働けるようになる」

 「つまり」桜はゆっくり言った。「CEの仕事って、良い方向のドミノを起こすための仕事、ということ?」

 陽介は答えを持っていなかった。しかし否定もできなかった。

 そのとき、処置室のドアが開いて真田が出てきた。手を洗いながら、二人の方を見た。「まだいたか」

 「記録の見直しをしていました」陽介は言った。

 「桜が補酵素と連鎖の話を整理していて」

 真田はタオルで手を拭いながら椅子を引いて座った。今日初めて、真田が自分から腰を落ち着けた。

 「連鎖の話か」真田は言った。「何が分からなかった」

 「連鎖が止まるイメージがつかめていませんでした」桜は言った。「でも今、陽介がビタミンB1の例で説明してくれて、少し分かりました」

 「どう分かった」

 「一か所が止まると、そこに溜まるものが増えて、その先が作れなくなって、波及する。ドミノ倒しだと思いました」

 真田は少しの間、桜を見た。「悪くない理解だ」

 「でも」桜は続けた。「実際に患者さんで連鎖が止まっているのを、どうやって知るんですか。細胞の中は見えないから」

 「血液検査だ」真田は言った。「連鎖が止まると、止まった場所の手前に物質が溜まる。あるいは止まった場所の先で作られるはずのものが減る。その変化が血液に出てくる」

 「だから血液検査を見ると、どこが詰まっているか分かる」陽介は言った。

 「詰まっている場所の手がかりが分かる、というのが正確だ。一つの数値だけで判断はできない。複数の数値の組み合わせと、患者の症状と、機械のデータを合わせて考える」

 「パズルみたいですね」桜が言った。

 「医療はほとんどパズルだ」真田は言った。「ただし答えが一つとは限らないし、時間制限がある」

 陽介はその言葉を書き留めた。

 真田がテーブルに肘をついた。「今日一日で、お前らはタンパク質と酵素と補酵素の話を全部繋げた。初週の三日目としては悪くない進み方だ」

 陽介と桜は顔を見合わせた。真田が「悪くない」と言うのは、普段の語り口からすれば相当の評価だ。

 「ただし」真田は続けた。「知識が繋がることと、臨床で使えることは別だ。今週学んだことが本当に身についているかどうかは、来週患者さんの前で試される。頭の中に入れた知識を、必要なときに引き出せるかどうかだ」

 「引き出し方も練習しないといけない」陽介は言った。

 「原田さんへの説明が、その最初の練習だった。うまくいったのは、夜に準備したからだ。準備のない人間は、現場で詰まる。お前らはまだ準備が必要な段階だ。それを恥じるな。ただし準備を怠るな」

 真田は立ち上がった。「帰れ。明日も早い」

 それだけ言って、また処置室の方へ歩いていった。

 陽介と桜はノートと鞄を持って立ち上がった。センターを出て廊下を歩き、更衣室で白衣を脱いだ。病院の正面玄関を出ると、夜の空気が冷たかった。四月の夜はまだ肌寒い。

 バス停へ向かいながら、桜が言った。「連鎖が止まるとき、って怖い言葉だね」

 「そうだな」

 「でも連鎖を守れるかもしれない仕事、って考えると、少し違って見える」

 陽介は夜空を見た。星はほとんど見えなかった。街の明かりが空を白く染めていた。その下で、東崎総合病院の全員の細胞が、今も代謝の連鎖を続けている。ミトコンドリアがATPを作り、酵素が化学反応を仲介し、補酵素が酵素を助けている。

 どこかで連鎖が危うくなったとき、CEが機械を持って入っていく。

 真田が十二年間、この病院で何人もの患者に対してやってきたことだ。

 「来週も準備しないといけないな」陽介は言った。

 「今夜は休む」桜はきっぱり言った。「三日連続でファミレスは体が持たない」

 「それは同意する」

 バスが来た。二人は乗り込んで、並んで座った。車窓の外を病院の建物が流れ、やがて夜の住宅街に変わった。

 陽介はシートに背中を預けながら、今週学んだことを頭の中で順番に並べた。細胞膜、ミトコンドリア、DNA、消化と吸収、アミノ酸、酵素、補酵素、連鎖。

 バラバラだった知識が、一本の糸で繋がり始めていた。

 まだ白紙の部分の方が多い地図に、少しずつ線が増えていた。その線の先に何があるか、まだ全部は見えていない。しかし線が増えるたびに、工場の全体像が少しずつ輪郭を持ち始めていた。

 連鎖が止まらない限り、生命は続く。

 その連鎖を守るための仕事が、自分たちの仕事だ。

 バスは夜の道を走り続けた。


 お読みいただきありがとうございました。

 「医療はほとんどパズルだ。ただし答えが一つとは限らないし、時間制限がある」——真田さんのこの言葉を書くために、この章があったと思っています。

 そして「連鎖を守れるかもしれない仕事」という桜の言葉が、陽介の、この物語全体の、一つの答えの形をしています。

 次回、第4章「細胞の燃料電池」です。

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