第2章 食べたものの旅路
第2章です。
「カリウムが多い食品はダメ」と言われ続けた木村さんが「八年間、理由を知らなかった」と言います。透析を始めたばかりの原田さんは「理由が分かる方が我慢できる」と言います。
食べたものがどうなるか——糖質、脂質、タンパク質、それぞれの旅路を追いながら、陽介と桜が「知っていること」と「伝えられること」の違いに気づいていく章です。
第1節 食べてはいけないもの
透析室に、食事の匂いは似合わない。
そう陽介が思ったのは、二日目の朝、血液浄化センターに入った瞬間だった。昨日と同じ機械の音、同じ消毒薬の匂い。しかし今日は何かが加わっていた。患者の一人が持参した弁当を開いていた。白米、煮物、卵焼き。ごく普通の昼食に見えたが、隣のベッドの患者が「それ、いいな」と羨ましそうに言った。
「うちの嫁が作ってくれたんや」弁当の男性が言った。「カリウムとリンを全部計算して」
「大変やなあ」
「大変なのは嫁の方や」男性は苦笑した。「俺はただ食べるだけやけど、作る方は毎回頭使わなあかんから」
陽介はその会話を聞きながら、昨日の田中さんの弁当を思い出した。普通の弁当とは少し違っていた。色が地味だった。緑の野菜が少なかった。
「おはようございます」
北村菜々子が奥から歩いてきた。五十代、透析室の看護師長だ。昨日は挨拶程度しか言葉を交わしていなかったが、今日は陽介たちに向けて「少し付き合いなさい」と声をかけた。
連れていかれたのは、センターの端にある小さなカンファレンス室だった。丸テーブルに椅子が四脚。壁に食品のポスターが貼ってある。カリウムを多く含む食品の一覧だった。バナナ、ほうれん草、じゃがいも、納豆——見慣れた食べ物が、ずらりと並んでいた。
「今日の午前中、栄養士の先生と一緒に患者さんへの食事指導に入ってもらいます」北村は言った。「見学でいい。ただし、なぜその食品がいけないのか、説明できるようにしておくこと」
「カリウムの問題ですよね」桜が言った。
「カリウムだけじゃないわ」北村は壁のポスターの横に貼られた別の紙を指した。リンを多く含む食品の一覧だった。「リンも、タンパク質も、水分も。透析患者さんの食事制限は多岐にわたる。なぜ制限が必要なのか、体の中で何が起きるから制限するのか、それを理解しないと患者さんに説明できない」
「はい」
「特にカリウムは」北村は続けた。「数値が上がりすぎると心臓に影響が出る。不整脈、最悪の場合は心停止。食事の一つ一つが、直接命に関わる」
陽介はポスターをもう一度見た。バナナ。ほうれん草。じゃがいも。スーパーの棚に普通に並んでいる食べ物が、透析患者にとっては管理の対象になる。
「質問していいですか」桜が手を挙げた。
「どうぞ」
「カリウムって、そもそも体の中で何をしてる物質なんですか。悪いものなら最初からいらないんじゃないかと思って」
北村は少し目を細めた。悪い質問ではないと判断した顔だった。「それは栄養士の先生に聞きなさい。私が答えるより、その方がいい」
カンファレンス室のドアが開いて、三十代の女性が入ってきた。白衣に栄養士のバッジをつけている。
「お待たせしました、山口です」山口栄養士は二人に軽く頭を下げた。「新しいCEさんたちね。一緒に回りましょう」
最初に訪ねたのは六十代の女性患者、木村さんだった。透析歴八年のベテランだ。山口栄養士が先週の食事記録を広げ、気になる点を確認していく。陽介と桜は壁際に立って見ていた。
「木村さん、先週の木曜日、バナナ食べましたね」
「ちょっとだけよ」木村さんが言った。「半分だけ」
「半分でも、バナナのカリウムは多いんです。先週の透析前のカリウム値、少し高めでしたよ」
「分かってるけど、食べたくなる時があるのよ。あれ、美味しいから」
山口栄養士は怒らなかった。「気持ちはよく分かります。だからこそ、他の日で調整しましょう。バナナを食べた日の翌日は、カリウムの少ない果物に変える。リンゴとか、ブドウなら比較的少ない」
木村さんは納得したような、していないような顔をした。
「ねえ」木村さんが桜の方を見た。「あなた、新人さん?」
「はい、昨日からです」
「じゃあ教えてくれる? カリウムって何でいけないの。食事指導を受けるたびに『いけません』って言われるけど、なんでいけないかをちゃんと教えてもらったことがない気がして」
桜は一瞬、陽介を見た。陽介も桜を見た。
どちらも、完全な答えを持っていなかった。
「カリウムは」桜は慎重に言葉を選んだ。「心臓や筋肉の動きを調整するのに必要な物質で——」
「必要なものなのね」
「はい。ただ、多すぎると心臓の電気的な信号がうまく伝わらなくなる。健康な腎臓があれば、余ったカリウムを尿で捨てられるんですが——」
「私の腎臓は働いてないから、捨てられない」木村さんは静かに言った。「だから溜まる」
「そうです」
木村さんは少しの間、窓の外を見た。「そういうことか」木村さんは言った。「八年間食事制限してきたけど、そういう説明を受けたのは初めてかもしれない。いつも『カリウムが高い、食事に気をつけて』だけだった」
陽介は木村さんの横顔を見た。
八年間。週三回の透析、毎日の食事制限、それを八年間続けてきた人が「初めて分かった」と言っている。知識の伝え方が、患者の納得を大きく左右する。それは機械の操作とは別の、しかし同じくらい重要な何かだと陽介は感じた。
山口栄養士が桜の肩を軽く叩いた。「上手に説明できたわ」と小声で言った。
桜は少し赤くなった。
カンファレンス室に戻る廊下で、陽介は桜に言った。「なぜカリウムがいけないか、ちゃんと答えられたな」
「でも全部は分かってない」桜は言った。「カリウムが体の中で具体的に何をしてるか、まだよく分かってない。なんで心臓に影響するのか」
「それは追々分かっていく」
「追々じゃ遅い気がする」桜は言った。「木村さんは八年間、理由を知らないまま食事を我慢してたんだよ」
「俺たちも昨日まで知らなかった」
桜が陽介を見た。
「それは違う」
「どこが違う」
「私たちは入職一日目だった。木村さんは八年間、毎回説明を受けてた。同じじゃない」
陽介は少し考えた。「分かっている人間が誰もいなかったとは限らない。ちゃんと伝えた人もいたかもしれない。木村さんが覚えていなかっただけかもしれない」
桜は黙った。
「患者が理解しているかどうかは、患者の問題でもある」陽介は続けた。「俺たちがどれだけ正確に伝えても、受け取る側が受け取らなければ伝わらない。それはCEの責任じゃない」
「そうは思わない」桜は静かに言った。
「なぜ」
「伝わらなかったなら、伝え方が間違ってたということだから」
陽介は答えなかった。
答えられなかったのか、答える必要がないと思ったのか、自分でも分からなかった。
廊下の窓から、今日も春の空が見えた。昨日より少し雲が多かった。
第2節 最小単位まで砕く
午後のカンファレンスは、小さな部屋に四人が集まる形で始まった。
陽介、桜、山口栄養士、そして今日初めて顔を合わせる研修医の川島という若い男だった。川島は陽介たちより二つ三つ年上に見えたが、透析患者の栄養管理については「まだ勉強中」と正直に言った。
「今日は三大栄養素の消化と吸収について整理しましょう」山口栄養士が小さなホワイトボードにマジックで書き始めた。「糖質、脂質、タンパク質。この三つが食事の主成分で、それぞれ体の中で違う経路をたどって吸収される」
「なぜ経路が違うんですか」桜が聞いた。
「分子の大きさと性質が違うから」山口は答えた。「食べたものをそのままの形で血液に乗せることはできない。細胞が吸収できるサイズまで、消化器官が分解する必要がある」
「最小単位、ということですか」
「そう。それぞれの栄養素には吸収される形、つまり最小単位がある。今日はそれを確認しましょう」
陽介はノートを開いた。養成校でも習った内容だが、あのときと今とでは聞こえ方が違う予感がした。昨日の田中さん、今朝の木村さん、そういう人たちの体の中で起きていることとして聞くと、同じ言葉が別の重さを持つ。
「まず糖質から」山口はホワイトボードに「デンプン→?」と書いた。「私たちが普段食べているご飯やパンの主成分はデンプン。デンプンは糖がたくさん繋がった大きな分子、多糖と呼ばれる。これが消化の過程でどうなるか」
「グルコースになる」陽介は言った。
「正解。ただし一気になるわけじゃない」山口はホワイトボードに矢印を加えた。「まず口の中で唾液アミラーゼという酵素が働いて、デンプンを麦芽糖などの二糖に分解し始める。それが胃を通って小腸に入ると、膵液のアミラーゼがさらに分解を進める。最後は小腸の粘膜にある酵素が二糖を単糖まで切り刻む」
「単糖が最小単位」桜が言った。
「そう。主にグルコース、つまりブドウ糖の形で吸収される。フルクトースやガラクトースという単糖もあるけど、日本人の食事では圧倒的にグルコースが多い」
川島研修医がメモを取りながら「グルコースになって初めて小腸から血液に入れる、ということですね」と確認した。
「その通り。小腸の粘膜細胞の膜を通過できる大きさまで小さくしないと、吸収されない」
陽介は昨日の話を思い出した。細胞膜には物質の出入りを管理するタンパク質がある。グルコースも、そのタンパク質の輸送体を通じて細胞の中に取り込まれる。最小単位まで分解されるのは、その門をくぐるためだ。
「次は脂質」山口がホワイトボードに「中性脂肪→?」と書いた。「脂質の消化は糖質と少し違う。脂質は水に溶けないという問題がある」
「油と水が混ざらないのと同じですか」桜が言った。
「同じ原理。だから小腸で消化する前に、まず肝臓で作られた胆汁が十二指腸に分泌されて、脂質を細かい粒に乳化する。そうすることで、膵液に含まれるリパーゼという酵素が脂質に触れやすくなる。リパーゼが中性脂肪を脂肪酸とモノグリセリドに分解したあと、それらが胆汁酸と組み合わさってミセルという構造を作り、小腸から吸収される」
「乳化というと、マヨネーズみたいな」川島が言った。
「イメージとしてはそれに近い。油を水の中に細かく分散させる。そうすることで、膵液に含まれるリパーゼという酵素が脂質に触れやすくなる」
「リパーゼが脂質を切る」陽介は言った。
「そう。中性脂肪、つまりトリグリセリドを脂肪酸とモノグリセリドに分解する。これが脂質の最小単位。この形で小腸から吸収される」
「糖質とは最小単位の種類が全然違うんですね」桜が言った。
「栄養素によって全部違う。そしてタンパク質はさらに違う」山口は「タンパク質→?」と書き加えた。「タンパク質は何でできているか、分かる?」
「アミノ酸」桜が即座に答えた。「アミノ酸がたくさん繋がったものがタンパク質」
「正解。だからタンパク質の最小単位はアミノ酸。ただしタンパク質の消化は段階的で、まず胃のペプシンが大まかに切断する。それから小腸で膵液のトリプシンなどが細かく切り、最終的に小腸粘膜の酵素がアミノ酸や、二〜三個つながった短いペプチドまで分解する。その形で小腸から吸収されたあと、細胞の中でアミノ酸にまで分解される」
「ペプシンが胃で働くということは」陽介は言った。「胃酸の強い酸性環境でも機能する酵素ということですか」
「そう。ペプシンの至適pHは約二。普通の酵素なら変性して働けなくなる環境で、ペプシンは最もよく働く。酵素は種類によって最も活性の高いpHが決まっている」
陽介はノートに書き留めた。至適pH。昨日の真田の言葉が重なった。酵素には働ける環境の条件がある。温度もpHも、ある範囲を外れると機能しなくなる。
「整理しましょう」山口がホワイトボードを指した。
「糖質の最小単位はグルコースなどの単糖。脂質の最小単位は脂肪酸とモノグリセリド。タンパク質の最小単位はアミノ酸。この三つ、透析患者の栄養管理を考えるときに全部関係してくる」
「タンパク質が関係するのは」桜が言った。「アミノ酸が分解されるとアンモニアが出て、それが尿素になって——腎臓で捨てられるはずだから?」
山口栄養士が手を止めた。川島研修医も顔を上げた。
「よく知ってるわね」山口は言った。「そう。タンパク質を摂りすぎると代謝産物が増えて、腎臓の仕事が増える。だから透析が始まる前は、タンパク質を控えることが腎臓への負担を減らすことに繋がった。ただし透析に入った後は、話が変わってくる。透析の過程でアミノ酸も失われていくから、今度は不足しすぎないことが大切になる。少なすぎると筋肉が落ちるし、体のタンパク質合成が追いつかなくなる。制限と補充、どちらが必要かは透析の前か後かで変わる。そのバランスを探るのが、透析患者さんの栄養管理の難しさよ」
桜はそれを聞いて少し考えてから、「全部繋がってるんだ」と言った。
「全部繋がってる」山口は静かに繰り返した。「食べたものが体の中でどうなるかを知らないと、何をどれだけ食べていいかが分からない。分からないまま制限だけ言っても、患者さんは納得して守れない。今朝の木村さんみたいに」
陽介は木村さんの「八年間知らなかった」という言葉を思い出した。
食べたものの旅路を知ること。口に入れたデンプンが唾液で分解され、胃を通り、小腸でグルコースになって血液に乗る。その旅路を知っている人と知らない人では、食事制限の意味の受け取り方が違う。
「一つ質問していいですか」陽介は言った。
「どうぞ」
「脂質が吸収された後、小腸の細胞の中でまたトリグリセリドに再合成されると聞いたことがあります。わざわざ分解してまた合成するのは、なぜですか」
山口は少し目を細めた。「いい質問ね」山口は言った。「脂質は水に溶けないから、血液にそのまま乗せることができない。だから吸収後にキロミクロンというタンパク質の殻に包まれた粒子に作り替えて、リンパ管経由で血液に送り込む。一度バラバラにして、運びやすい形に組み直す。体は非常に手間をかけている」
「効率が悪いように見えて」陽介は言った。「そうしないと運べないから、そうしている」
「生体の仕組みはだいたいそういうもの」山口は言った。「遠回りに見えることが、実は唯一の方法だったりする」
カンファレンスが終わったのは夕方近かった。
廊下に出ると、桜が「お腹が空いた」と言った。
「当然だ」陽介は言った。「食べ物の話を二時間した」
「グルコースが足りてない」
「解糖系が回らない」
二人は顔を見合わせて、少し笑った。
食堂に向かいながら、陽介はトレイを持つ手の向こうに並ぶ料理を見た。ご飯、味噌汁、焼き魚、煮物。何気なく選んで口に入れるものが、体の中でどう分解され、どんな最小単位になって吸収されるか。昨日までは考えたこともなかった。
今日からは、少し違う目で見るだろうと思った。
第3節 ブドウ糖の話をうまくできなかった日
翌朝、陽介は少し早く出勤した。
昨夜、アパートの部屋で教科書を開いて糖質の消化経路を読み直した。グルコース、フルクトース、ガラクトース。三つの単糖の構造式を眺めながら、山口栄養士の説明を頭の中で再生した。デンプンが唾液アミラーゼで分解され、膵液アミラーゼがさらに切り、腸粘膜の酵素が単糖まで砕く。経路そのものは理解できた。
ただ、それを人に説明できるかどうかは別の話だと、今朝になって気づいた。
血液浄化センターに入ると、真田がすでに回診を始めていた。陽介は壁際で見学しながら、今日の患者の顔と名前を一致させようとした。十六床、十六人。昨日までに話しかけてくれたのは田中さんと木村さんだけだが、残りの患者たちにも当然それぞれの事情と生活がある。
桜は陽介より五分遅れて入ってきた。「おはよう」と言いながら白衣の袖を通している。「今日は何があるの」
「午前中に患者説明の補助が一件ある。新しく透析を始める患者さんへの食事指導」
「昨日の続きみたいだね」
「そうだな」
新規透析導入の患者は、五十代の男性で名前を原田さんといった。糖尿病性腎症で腎機能が低下し、先週から週三回の透析を開始したばかりだ。まだ透析に慣れておらず、食事制限についても今日が最初の本格的な説明になる。
山口栄養士が説明の主体で、陽介と桜は同席するだけでいい、と北村看護師長から言われていた。しかし山口栄養士が「途中で補足してもらって構わない」と言ったので、二人はメモを持って臨んだ。
原田さんはベッドに半身を起こして待っていた。がっちりした体格で、もとは体力仕事をしていたような風貌だった。表情は硬い。新しく始まった透析生活への戸惑いが、顔に出ていた。
「原田さん、今日は食事のことをお話しします」山口栄養士が資料を広げた。「まずカリウムとリンについて——」
「先生」原田さんが遮った。「一個だけ先に聞いていいですか」
「どうぞ」
「俺、糖尿病で透析になったんですよね」原田さんは言った。「糖尿病やから、ずっと甘いものと炭水化物を控えてきた。ご飯も少なめにしてた。それが正しかったんじゃないんですか。なんで腎臓が悪くなったんですか」
山口栄養士が少し間を置いた。
「食事の管理をされていたことは正しかったです」山口は言った。「ただ糖尿病の合併症は、血糖値のコントロールだけでなく、長い時間をかけて血管にダメージが蓄積することで起きる。腎臓の細い血管も、その影響を受けた」
「じゃあ俺のせいじゃないってこと?」
「そういう意味じゃなくて——」
「俺のせいだ」原田さんは静かに言った。怒っているのではなく、確認しているような口調だった。「若い頃から食い意地が張ってたのは事実やから。まあいい。今さら言っても仕方ない。で、これからは何を食べたらいいんですか」
山口栄養士が説明を再開した。カリウムの多い食品、リンの多い食品、水分制限。資料を指しながら、丁寧に話す。原田さんは黙って聞いていたが、資料に目を落としたまま、ふと言った。
「ご飯は食べていいんですか」
「食べていいですよ。糖質はエネルギー源として大切ですから」
「でも糖尿病やのに、ご飯食べたら血糖値が上がるんちゃうんですか」
山口栄養士が答えようとしたとき、原田さんの視線がなぜか陽介に向いた。
「あなた、機械の人やんね。機械じゃなくて、体のことも勉強してるの」
「しています」陽介は答えた。「養成校で生化学も習いました」
「じゃあ聞くけど」原田さんは言った。「ご飯を食べたら、体の中でどうなるの。血糖値が上がるのはなんで」
陽介は一瞬、言葉を選んだ。
昨夜読み直した内容が頭にある。デンプンは多糖で、消化酵素によってグルコースまで分解される。グルコースが小腸から吸収されて血液に入ることで、血糖値が上がる。論理は分かっている。
しかし原田さんに伝わる言葉で言えるかどうかが、問題だった。
「ご飯に含まれるデンプンは」陽介は慎重に始めた。「糖がたくさん繋がった大きな分子で、そのままでは吸収できないんです。だから唾液と胃と小腸で酵素が働いて、グルコースという小さな分子に切り刻まれる。グルコースが小腸から血液に入ることで、血糖値が上がります」
「グルコースって、ブドウ糖のことか」
「そうです」
「ブドウ糖が血液に入って、それからどうなるの」
「インスリンというホルモンが膵臓から出て、グルコースを細胞の中に取り込む手助けをします。細胞の中でグルコースはエネルギーに変えられる」
「俺は糖尿病やから、そのインスリンがうまく出んか、出ても効かんかする」
「はい」
「で、グルコースが血液の中に溜まって、血糖値が高い状態が続く。それで血管がやられた」
「……そういうことです」
原田さんはしばらく黙った。資料に目を戻し、また陽介を見た。
「ブドウ糖が体のエネルギー源なのは分かった。でも、なんで炭水化物を抜くと痩せるの。エネルギーがなくなるから?」
陽介は答えようとして、止まった。
脂質がエネルギー源として使われるから、という説明が頭に浮かんだ。しかしそれを説明するには脂質の代謝の話が必要で、それを今ここで展開するのが適切かどうか判断できなかった。何より、原田さんの本当の疑問がそこにあるのかどうかも分からなかった。
「それは」陽介は言った。「少し複雑な話になるので——」
「分からないなら分からないって言っていい」原田さんは穏やかに言った。「俺も全部分かりたいわけやないから。ただ、なんで食べてはいけないのかは知りたい。理由が分かる方が、我慢できる気がするから」
陽介はその言葉を聞いて、うまく返せなかった。
山口栄養士が静かに引き取った。「炭水化物を減らすと脂肪がエネルギーとして使われやすくなる、という仕組みがあります。詳しくはまた次回お話しします。今日はまず食品の選び方を一緒に確認しましょう」
説明が再開された。陽介は壁際に戻り、ノートに「炭水化物→脂質代謝との関係」と書いた。今日答えられなかったことは、次に答えられるようにする。
隣で桜が小声で言った。「難しいね」
「何が」
「知ってることと、伝えられることは違う」
陽介は答えなかった。
原田さんが資料を見ながら山口栄養士の話を聞いている。五十代の男が、初めての食事制限の説明を受けている。理由が分かる方が我慢できる、と言った人が。
それは機械の操作マニュアルには書いていないことだった。
第4節 脂肪が溶けない理由
原田さんへの説明が終わったのは昼前だった。
山口栄養士が資料を片付けながら「お疲れ様」と二人に言った。「最初はああいうものよ。患者さんの質問に全部答えようとしなくていい。答えられないことを正直に言える方が、長い目で見て信頼される」
「すみません、途中で詰まってしまって」陽介は言った。
「謝らなくていい。あなたが詰まったところ、私も最初の頃は詰まってた」山口は言った。「炭水化物と脂肪の関係は、代謝の話が絡むから説明が難しい。でも原田さんは本当に理解したい人だから、次回までに整理しておきましょう」
山口栄養士が去った後、陽介と桜は廊下のベンチに並んで座った。
「ねえ」桜が言った。
「なに」
「炭水化物を抜くと脂肪が燃える、って原田さんが聞いてたじゃない。それ、結局どういう仕組みなの」
「俺も完全には説明できなかったけど」陽介はノートを開いた。「順番に考えると、まずグルコースが体の主なエネルギー源だ。細胞はできればグルコースを使いたい。でも炭水化物を食べないとグルコースが入ってこないから、代わりのエネルギー源が必要になる」
「それが脂肪」
「そう。体に蓄えていた中性脂肪を分解して、エネルギーとして使い始める。だから体重が落ちる」
「脂肪ってどうやって分解するの」桜はノートを覗き込んだ。「脂肪も最小単位があるんでしょ。昨日、脂肪酸とモノグリセリドって習ったけど」
「消化のときの最小単位と、代謝のときの話は少し違う」陽介は言った。「食事から摂った脂質は消化されて脂肪酸とモノグリセリドになって吸収される。でも体に蓄えるときは、また中性脂肪、つまりトリグリセリドに合成し直されて、脂肪細胞に貯められる」
「一回バラバラにして、また合成する」
「そう。で、エネルギーが必要になると、今度は脂肪細胞の中の酵素が中性脂肪を分解して脂肪酸を血液に放出する。脂肪酸が血液を流れて各細胞に届いて、エネルギーに変えられる」
「脂肪酸がエネルギーになるのは、どこで?」
「ミトコンドリアの中だ。脂肪酸はβ酸化という経路で分解されて、最終的にアセチルCoAという物質になる。それがTCA回路に入って、大量のATPが作られる」
桜はしばらく考えた。「ミトコンドリア、また出てきた」
「全部ミトコンドリアに繋がる。エネルギー産生の本丸だから」
「脂肪の方がご飯より体にいっぱいエネルギーが入ってるって聞いたことがある。それって本当?」
「本当だ」陽介は言った。「糖質は一グラムあたり四キロカロリーだけど、脂質は一グラムあたり九キロカロリーある。二倍以上だ」
「なんでそんなに違うの」
陽介は少し考えた。「脂肪酸は炭素と水素が中心の分子で、酸素がほとんど含まれていない。酸化、つまり燃焼させるときに取り出せるエネルギーが多い。糖質は分子の中にすでに酸素が含まれているから、その分エネルギーとして取り出せる量が少ない」
「分子の構造でエネルギー量が変わるんだ」
「そういうことだ」
桜はしばらくベンチの背もたれに寄りかかって天井を見た。「ということはさ」桜はゆっくり言った。「透析患者さんが太りやすいのって、もしかして脂肪が燃えにくいから?」
陽介は桜を見た。「どういう意味だ」
「透析患者さんって、運動制限がある人も多いじゃない。昨日から見てると、ベッドでほとんど動かない時間が長い。動かないと筋肉がグルコースを使わないから、脂肪が分解される機会も少ない。だから脂肪が溜まりやすくなるのかなって」
陽介は少し間を置いた。「大筋は合ってる。ただ透析患者さんの場合、腎臓が作るホルモンの異常や、炎症反応なども代謝に影響するから、もう少し複雑だ。でも運動が代謝に関わるという考え方は正しい」
「合ってた」桜は少し嬉しそうに言った。
「半分な」
「半分でも合ってれば上出来よ」
昼食を終えて午後の業務に戻ったとき、真田が血液浄化センターの入口で二人を待っていた。
「午前中、原田さんのところに入ったな」真田は言った。
「はい」陽介は答えた。「途中で詰まりました。炭水化物と脂肪の関係を聞かれて、うまく説明できなかった」
「それはどこが分からなかった」
「分からなかったというより」陽介は言った。「説明の順番が分からなかった。知識はあるつもりだったけど、相手に合わせて組み立てられなかった」
真田は腕を組んだ。「正直な分析だ。では聞くが、脂肪が水に溶けないことが、なぜ体の設計に関係すると思う」
陽介は「どういう意味ですか」と聞いた。
「脂肪は水に溶けない。血液は水ベースだ。では脂肪はどうやって血液の中を移動する」
「タンパク質に包まれて運ばれる。リポタンパク質という構造になる」
「なぜそんな面倒な仕組みが必要なのか」
「水に溶けないから、そのままでは運べない」陽介は言った。「だから運搬用のタンパク質の殻が必要になる」
「体はなぜ、わざわざ水に溶けない物質を大量にエネルギーとして蓄えるのか」
陽介は少し考えた。「水に溶けないということは、水を引き連れない。だからコンパクトに蓄えられる。グルコースは水と一緒に蓄えられるから、同じエネルギー量を貯めるのにずっと場所を取る」
「そうだ」真田は言った。「脂肪は単位重量あたりのエネルギーが高い上に、水なしで蓄えられる。生物が長い進化の中でエネルギー貯蔵の方法として脂肪を選んだのは、合理的な理由がある。水に溶けないという性質が、実は貯蔵に最適だった」
桜が「欠点が利点になってる」と言った。
「生体の仕組みはそういうものが多い」真田は言った。「弱点に見えることが、別の角度から見ると設計の核心だったりする。脂質が血液に溶けないから、リポタンパク質という精密な運搬システムが必要になった。そのリポタンパク質の異常が動脈硬化を招く。全部繋がっている」
「動脈硬化まで繋がるんですか」桜が言った。
「コレステロールの話をすれば分かる。それは追々だ」真田は二人を促した。「午後の回路確認を始める。来い」
歩き出しながら、陽介は今朝の原田さんの言葉を思い返した。
理由が分かる方が、我慢できる気がする。
脂肪が水に溶けない理由。溶けないから体に蓄えやすい理由。蓄えやすいから、食べすぎると血管に影響が出る理由。一本の糸が、食事から血管まで繋がっている。
原田さんに次に会うときは、もう少しうまく話せるかもしれないと陽介は思った。
確証はなかった。しかしノートに書いた「炭水化物→脂質代謝との関係」の文字の横に、今日の真田の言葉を書き足した。
脂肪が溶けない理由が、貯蔵の理由で、運搬の理由で、病気の理由だ。
第5節 アミノ酸が抜けていく
夕方の透析室は、朝とは違う静けさがある。
午後の透析が始まって二時間が経つと、患者たちの多くは眠っているか、目を閉じて横たわっている。機械の音だけが変わらず鳴り続けている。陽介はその音を聞きながら、今日の記録を整理していた。
真田が隣に立った。「原田さんのデータを見ておけ」と言いながら、クリップボードを渡した。
陽介はデータを受け取った。血液検査の結果が並んでいる。BUN、クレアチニン、カリウム、リン、アルブミン——数字の列が縦に続いている。養成校で習った項目ばかりだが、実際の患者のデータとして見ると、それぞれの数字の意味が急に重くなる。
「アルブミンが低いですね」陽介は言った。三・二グラム。基準値より下だ。
「原田さんは透析導入前からタンパク質を控えめにしていた」真田は言った。「糖尿病の食事指導でそう言われていたらしい。タンパク質を減らすと腎臓への負担が減る、という考え方があるから」
「それは間違いじゃないんですよね」
「間違いじゃない。ただやりすぎた。タンパク質を極端に減らすと、体の材料が足りなくなる。アルブミンはタンパク質でできているから、材料不足で合成できなくなる」
アルブミン。血液の中に最も多く含まれるタンパク質で、物質の運搬や浸透圧の維持に関わる。陽介は養成校の教科書の文章を思い出しながら、しかし今は数字として目の前にあるそれを見ていた。
「タンパク質の最小単位はアミノ酸ですよね」陽介は言った。「食事でタンパク質を摂ると、消化されてアミノ酸になって吸収される。そのアミノ酸から体のタンパク質が合成される」
「そうだ」
「原田さんはアミノ酸の原料が足りていないから、アルブミンが作れない」
「それだけじゃない」真田は言った。「透析そのものもアルブミン低下の一因だ」
陽介は顔を上げた。「どういうことですか」
「透析膜は小さな分子を通す。アルブミンは比較的大きいから通らないが、アミノ酸は小さいから透析液側に抜けていく」
陽介はその言葉を聞いて、しばらく黙った。
透析は血液の中の不要物を取り除く。しかしその過程で、体が必要としているアミノ酸も一緒に失われていく。
「一回の透析で、どのくらい抜けるんですか」
「数グラムから十グラム程度と言われている。週三回なら、毎週それだけのアミノ酸が透析液に捨てられる」
桜がいつの間にか隣に来ていた。データを覗き込んで、「捨てたくて捨ててるわけじゃないのに」と言った。
「そうだ」真田は言った。「透析は不要物を取り除く仕組みだが、必要なものと不要なものを完璧に選り分けることはできない。膜を通れる大きさの分子は、必要なものも一緒に通ってしまう」
「だから透析患者さんは、普通の人より多くタンパク質を摂る必要があるんですか」桜が言った。
「その通りだ。透析患者の食事ガイドラインでは、一般の人より多いタンパク質摂取量が推奨されている。腎臓への負担という観点でタンパク質を減らしていた原田さんには、今日から考え方を切り替えてもらわないといけない」
陽介はデータの「アルブミン3.2」という数字を見た。
タンパク質を減らしていた理由は間違っていなかった。透析前は腎臓への負担を減らすために正しい選択だった。しかし透析を始めた今は、状況が変わった。アミノ酸が透析で抜けていく以上、むしろ積極的に補わなければならない。
同じ患者の、同じ体なのに、状況によって正解が変わる。
「原田さんに、どう説明するんですか」陽介は真田に聞いた。「今まで控えてたものを急に食べろと言われても、混乱するんじゃないかと思って」
「お前が説明してみろ」
陽介は真田を見た。「俺が?」
「明日、原田さんに時間を取ってもらう。山口さんと一緒に入って、タンパク質の話をしろ。今日一日で学んだことを使え」
「でも——」
「今日答えられなかったから、明日答えろ。それだけだ」
真田はそれだけ言って、次のベッドへ歩いていった。
陽介は手の中のクリップボードを見た。アルブミン3.2という数字が、さっきより少し違う意味を持って見えた。
「大変だね」桜が言った。
「お前も来るんだぞ」
「え」桜は少し顔をしかめた。「私も?」
「一人で行けるか」
「……一緒に行く」
二人は並んで、今日のデータをノートに書き写した。BUN、クレアチニン、カリウム、リン、アルブミン。数字の隣に、それぞれの意味を短く書いた。BUNはタンパク質代謝の産物。クレアチニンは筋肉の代謝産物。カリウムは心臓と筋肉の調整に関わる電解質。リンは骨と細胞膜の材料。アルブミンは血液中の運搬役タンパク質。
「アルブミンって」桜がペンを持ちながら言った。「運搬役って書いたけど、具体的に何を運んでるの」
「脂肪酸とか、カルシウムとか、薬とか」陽介は言った。「水に溶けない物質を血液中で運ぶのに使われる。昨日の脂肪の話でも出てきた」
「また繋がった」
「そうだな」
「全部繋がってるんだね、本当に」桜はノートを閉じた。「食べたものがアミノ酸になって吸収されて、タンパク質が合成されて、アルブミンになって、脂肪酸を運んで——それが透析で少しずつ抜けていく」
陽介はうなずいた。
抜けていく。その言葉が少し引っかかった。透析は体を助ける装置だ。しかし助ける過程で、体が必要なものを一部連れ去っていく。完璧な代替はない。腎臓という臓器が果たしていた役割の精密さを、機械はまだ完全には再現できていない。
だからCEが考え続けなければならない、と陽介は思った。
データを見て、患者の状態を読んで、機械の設定を判断して、足りないものを補う方法を考える。透析膜の向こうに流れていくアミノ酸の量を頭に置きながら、今日の食事指導の内容を明日の説明に繋げる。
窓の外が暗くなっていた。
透析室の明かりは変わらない。機械の音も変わらない。患者たちはまだ横たわっている。その一人一人の血液が、今もチューブを流れて機械を通って戻ってきている。その中のアミノ酸が、少しずつ、透析液の側へと移っていく。
「明日の説明」桜が言った。「一緒に準備しよう。今夜」
「アパートが近いのか」
「バス停まで同じ方向でしょ。途中のファミレスで二時間くらい」
陽介は少し考えてから、「分かった」と言った。
ノートの余白に書いた。「タンパク質:透析前は制限、透析後は補充。なぜ変わるのかを原田さんの言葉で説明すること」
食べたものの旅路は、口から始まって胃腸を通り、血液に乗り、細胞へと届く。しかし透析患者の体では、その旅路の途中に機械という関所がある。関所は通れる者と通れない者を選ばずに、大きさだけで判断する。
アミノ酸は小さいから、通ってしまう。
それを知った上で、何をどれだけ食べるかを考える。それが、この仕事の一部だった。
お読みいただきありがとうございました。
「アミノ酸は小さいから、透析膜を通ってしまう」——透析は体を助ける装置ですが、助ける過程で体が必要なものを一部連れ去っていく。完璧な代替はない。その事実を前にして、陽介が「だからCEが考え続けなければならない」と思う場面が、この章で一番書きたかった場所です。
次回、第3章「身体を動かす職人たち」です。




