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第1章 命の工場へようこそ

 新連載です。

 『CEです。何でもござれ!』に引き続き、臨床工学技士を主人公にした物語をお届けします。今度は新人の男女二人。プロローグと第1章、合わせてお届けします。

 四月の朝、血液浄化センターの扉の前に二人が立つところから始まります。

プロローグ 声がある

 体は、黙っていない。

 言葉は持っていない。訴える口もない。痛みを感じれば信号を出すが、痛みさえ感じない場所では、ただ静かに変化していく。

 それでも、黙っていない。

 血液の中に、数字を置いていく。pHが下がる。カリウムが上がる。BUNが積み重なる。酵素が漏れ出す。血糖が溢れる。重炭酸イオンが削れていく。一つひとつの数字が、体の内側で起きていることの報告だ。声を持たない体が、唯一使える言語で、何かを伝えようとしている。

 その言語を読める人間が、必要だ。

 東崎総合病院の血液浄化センターには、朝になると機械の音が満ちる。ポンプが回り、透析液が流れ、血液が体の外を巡って戻っていく。十六床のベッドに、十六人の患者がいる。それぞれの体が、それぞれの言語で、それぞれのことを語っている。

 臨床工学技士はその声を聞く側にいる。

 機械を動かす。数字を読む。患者の体で何が起きているかを、言葉にする。その言葉を持つために、生化学がある。体の化学反応を知らなければ、機械をなぜその設定にするのかが分からない。数字が何を意味するのかが分からない。体が何を訴えているのかが分からない。

 これは、その言語を学んでいく二人の話だ。

 四月の朝、白い廊下に二人が立つところから始まる。


第1章 命の工場へようこそ

第1節 チューブの向こう側

 四月の朝は、思ったより白かった。

 柏木陽介は廊下の端に立ち、目の前の扉を見つめていた。磨りガラスの向こうで何かが動いている気配があった。機械の低い唸り声が、廊下まで染み出してきていた。

 「東崎総合病院 血液浄化センター」と書かれたプレートが、蛍光灯の光を鈍く反射していた。

 一歩踏み出す前に、隣から声がした。

 「入りたくないの?」

 三浦桜が、陽介の斜め後ろで腕を組んでいた。新品の白衣の胸ポケットには、まだ折り目のついた名刺が覗いていた。同期だ。養成校で三年間同じ教室にいたくせに、なぜか入職初日というのは妙によそよそしい空気が流れる。

 「入りたくないわけじゃない」陽介は言った。「ちょっと、気合いを入れていた」

 「三分も?」

 返す言葉もなく、陽介は扉を押した。

 瞬間、複数の匂いが一度に来た。消毒薬の鋭さ、生臭さとも機械油ともつかない何か、そして微かな血の気配。目が慣れるより先に耳が情報を拾った。ダイアライザーが回る音、アラームの電子音、ベッドのきしむ音、誰かの低い呻き声、看護師の足音。

 ベッドが十六床、並んでいた。

 すべてに患者がいた。すべての患者の腕から、透明なチューブが伸びていた。チューブの中を、赤い液体が流れていた。

 血液だ、と陽介は思った。当たり前のことを、今さらのように思った。

 人間の血液が、体の外を流れている。

 「来たか」

 低い声がした。ベッドとベッドの間から、一人の男が歩いてきた。三十代半ば、日焼けした顔に無精髭、白衣の袖をまくり上げている。胸のネームプレートには「真田浩二」とあった。

 「真田さんですか」桜が先に頭を下げた。「本日からお世話になります、三浦桜です」

 「柏木陽介です。よろしくお願いします」

 「ああ」真田は二人をざっと見て、「邪魔になる前に壁際に立っとけ」とだけ言った。

 愛想は皆無だった。

 それでも二人は黙って壁際に並んだ。陽介は正面のベッドを見た。六十代と思しき男性が横たわっている。左腕に二本の針が刺さり、そこから出たチューブが機械へと繋がっていた。機械の中で、血液がゆっくりと巡っている。

 「田中さん」真田がベッド脇の機械を確認しながら声をかけた。「調子はどうですか」

 「まあまあやな」田中と呼ばれた男性は目を細めた。「今日は新人さんか」

 「四月ですから」

 「そうか。せいぜい頑張りや」

 田中さんは陽介たちに向けて、針の刺さっていない右手を小さく振った。

 真田が機械のパネルを確認し、手元の記録用紙に数字を書き込んでいく。陽介はその動作を目で追いながら、頭の中で無意識に教科書の内容と照合していた。血液流量、透析液流量、膜間圧力差——養成校で習った数字の羅列が、今は現実の患者と繋がっていた。

 「質問があるなら今のうちに言え」

 真田が振り向かずに言った。

 陽介は一瞬迷ってから口を開いた。「この機械は、腎臓の代わりをしているんですよね」

 「そうだ」

 「腎臓が本来やっていることを、機械がやっている」

 「それだけか」

 「それだけ、というのは」

 真田がようやく振り向いた。値踏みするような目だった。「お前が今言ったことは正しい。だが、浅い。腎臓が本来やっていることの意味が、まだ分かっていない」

 陽介は黙った。

 桜が小声で、「陽介、怒られてる」と囁いた。

 「分かってる」

 「腎臓は何をやっているんだと思う」真田は続けた。机の前の教師みたいな口調ではなく、もっと乾いた問い方だった。「田中さんの血液の中には今、何が溜まっている。なぜその機械が必要なんだ」

 陽介は田中さんの腕のチューブを見た。透明なチューブの中を赤い血液が流れている。赤い血液の中には、溶けて見えないが、何かが含まれている。体が作り出した、いらないものが。

 答えかけたとき、桜が先に口を開いた。

 「体の、ゴミですよね」

 真田の口元が、わずかに動いた。笑ったのかもしれなかった。「まあ、そういうことだ」

 田中さんが「ゴミ言うな」と苦笑した。

 「すみません」桜が頭を下げた。「体が使った後に出てくるもの、という意味で」

 「分かってる。冗談や」田中さんはまた右手を振った。「俺の腎臓はもうゴミを捨てられへんから、機械に頼んでる。そういうことやろ」

 「はい」

 「ええ仕事やで、お前らの。俺みたいな人間には、なくてはならん」

 陽介は田中さんを見た。六十代の男性の腕から、機械に向かってチューブが伸びている。一分間に二百ミリリットルの血液が、体の外に出て、また戻ってくる。その繰り返しが週に三回、一回四時間。

 なくてはならない。

 その言葉が、陽介の胸の中で思ったより静かに落ちた。

 「さて」真田が次のベッドへ歩き出した。「ついてこい。見ているだけでいい。ただし、目を閉じるな」

 二人は並んで後に続いた。

 廊下から染み出してきた機械の低い唸り声が、今は全方向から聞こえていた。陽介はその音が、誰かの体のリズムに合わせて鳴っているようだった。血液が外を流れて戻ってくる、その一往復ごとに。

 四月の朝は、思ったより白かった。そして思ったより、赤かった。


第2節 なぜ血液は、外に出られるのか

 午前の回診が終わったのは十時過ぎだった。

 真田は「昼まで自由にしていい」とだけ言い残し、どこかへ消えた。自由にしていい、という言葉が実質的には「邪魔をするな」を意味していることは、二人にも理解できた。

 陽介と桜は血液浄化センターの隅にある小さなスタッフ用のテーブルに並んで座り、しばらく何も言わなかった。目の前では相変わらず十六床の透析が続いている。機械が唸り、血液がチューブを流れ、患者たちがそれぞれの時間を過ごしている。テレビを見ている人、眠っている人、天井をぼんやり見上げている人。

 「ねえ」桜が口を開いた。

 「なに」

 「さっきからずっと気になってるんだけど」

 「何が」

 「あのチューブ」桜は田中さんのベッドの方向に視線を向けた。「血液が入ってるチューブ。なんで血液って、外に出ても固まらないの?」

 陽介はそちらを見た。確かに、チューブの中の血液はさらさらと流れている。傷口から血が出ればすぐに固まるのに、あのチューブの中では固まっていない。

 「抗凝固剤を使ってるから」陽介は答えた。「ヘパリンとか、メシル酸ナファモスタットとか。血液が固まる反応を薬で抑えてる」

 「そっちじゃなくて」桜は首を振った。「そもそも血液って、なんで体の外に出ることができるの? 血液って、ただの液体じゃないでしょ。細胞が入ってる。赤血球とか。細胞って、外に出たら壊れそうじゃない?」

 陽介は少し考えた。

 言われてみると、単純なようで答えにくい問いだった。

 「細胞は」陽介はゆっくり言葉を選んだ。「膜で包まれてる。細胞膜があるから、中身がそう簡単には壊れない」

 「細胞膜って、何でできてるの」

 「リン脂質。二層構造になってて——」

 「リン脂質って?」

 陽介は桜を見た。桜は至って真剣な顔をしていた。意地悪で聞いているのではなく、本当に分からないのだ。養成校で同じ授業を受けたはずなのに、と思いかけて、陽介は止めた。知識は習ったかどうかより、腑に落ちているかどうかの方がずっと大事だと、今朝の真田の言葉が教えていた。

 「リン脂質はな」陽介はテーブルの上に指で円を描いた。「頭の部分が水になじむ性質で、しっぽの部分が水を嫌う性質を持ってる。水好きと水嫌いが、一つの分子に同居してる」

 「それがどうして膜になるの」

 「水の中に放り込んだら、水嫌いのしっぽ同士が内側に向き合って、水好きの頭が外を向く。そういう並び方が自然に安定する。それが二層に重なって、膜ができる」

 桜がしばらく天井を見た。

 「ということは」桜はゆっくり言った。「細胞の外も水、内側も水で、膜がその境界になってるってこと?」

「そう。細胞は水の中に浮かんでいて、自分自身も水の中に水を閉じ込めてる袋みたいなものだ。血液だって、その八割は水でできてる。赤血球はすごく柔軟な膜で包まれてるから、人工のチューブの中を流れても、形をうまく変えて、そう簡単には中身が漏れないんだ」

 「なるほど」桜は素直にそう言った。「じゃあ、膜が壊れたら?」

 「中身が出てくる。それが溶血だ。透析中に赤血球が壊れると、中のヘモグロビンが血漿に溶け出して、血漿が赤く染まる。回路の血液はもともと濃い赤色だから目視では分かりにくい。だからこそ終了後の排液の色や、患者の症状、検査値が重要な手がかりになる。機械にある血液漏れ検知器は、透析液側に血液成分が漏れていないかを見張るためのもので、溶血の検知とは別の話だ」

 桜は田中さんのベッドの横に立つ機械を、改めて見た。パネルに数字が並び、細いチューブが幾筋も走っている。その内側を、赤血球が膜に包まれたまま通り抜けている。

 「じゃあ」桜がまた言った。「細胞膜って、ただの壁じゃないんだね」

 「どういう意味だ」

 「膜の中にタンパク質が埋まってるって、教科書に書いてあった気がする。受容体とか、輸送体とか」

 「ああ」陽介はうなずいた。「リン脂質の二層の中に、タンパク質がぷかぷか浮いてるイメージだ。タンパク質がないと、物質の出し入れができない。細胞が必要なものを取り込んで、不要なものを捨てる。その窓口がタンパク質でできてる」

 「透析膜みたいだね」

 陽介は桜を見た。桜は機械の方を見ていた。

 確かに、と陽介は思った。透析に使うダイアライザーの膜は、小さな物質は通すが大きな物質は通さない半透膜でできている。細胞膜も同じだ。何でも通すわけではなく、通す物質と通さない物質を選んでいる。細胞の内と外の環境を厳密に管理している。

 透析膜は、細胞膜の模倣だ。

 「真田さんが言ってた」陽介は口に出した。「腎臓が本来やっていることの意味が分かっていない、って」

 「うん」

 「俺が答えようとしたのは、腎臓の機能の話だった。でも田中さんの言い方の方が正確だったと思う。体のゴミを捨てる、じゃなくて——体の内側の環境を守る、ってことじゃないか」

 「難しいこと言うね」

 「そうか?」

 「でも分かる気がする」桜は少しの間考えた。「細胞が生きていくためには、膜の内側の環境を一定に保たないといけない。腎臓はその調整をしてる。腎臓が働けなくなったら、その環境が崩れる。だから機械が代わりをしてる」

 「そういうことだと思う」

 「生化学って」桜がぽつりと言った。「そういう話だったんだね。細胞の中で何が起きてるか、って話」

 陽介は答えなかった。答えの代わりに、田中さんのチューブを見た。透明なチューブの中を、赤血球が膜に守られながら流れている。一つ一つの細胞の内側では、今も化学反応が続いている。エネルギーが作られ、物質が運ばれ、不要なものが仕分けられている。

 その営みを、この機械が外側から支えている。

 「そういう話だな」陽介はようやく言った。

 窓の外で、春の雲が動いていた。


第3節 発電所と設計図

 昼休みに入ると、血液浄化センターは少し静かになった。

 透析そのものは続いているが、スタッフの動きが落ち着き、患者たちも思い思いに昼食を取っている。ただし田中さんをはじめ、透析中の患者は食事の内容が厳しく管理されている。カリウムの多い野菜は避け、リンを含む乳製品も制限される。弁当箱の中身は、普通の昼食とは少し違った。

 陽介と桜は廊下のベンチで買ってきたサンドイッチを食べていた。

 「さっきの話の続きなんだけど」

 桜が食べながら言った。口を動かしながら話すのは行儀が悪いが、病院の廊下では今さら気にする者もいない。

 「細胞膜の話か」

 「その内側。細胞の中に、ミトコンドリアがあるじゃない」

 「ある」

 「ミトコンドリアって、エネルギーを作るって習ったけど」桜はサンドイッチを一口かじった。「エネルギーって、具体的に何を作るの? 電気? 熱?」

 「ATPだ」

 「えーてぃーぴー」

 「アデノシン三リン酸。体の中でエネルギーのやりとりをするときの、共通の通貨みたいなものだ。筋肉が動くのも、神経が信号を送るのも、細胞が物質を運ぶのも、全部ATPを使う」

 桜はしばらくそれを咀嚼した。サンドイッチではなく、話の方を。

 「通貨か」桜は繰り返した。「じゃあ、ミトコンドリアは造幣局みたいなものってこと?」

 「発電所の方がよく言われるけど、造幣局でもまあ合ってる」

 「田中さんの細胞の中でも、今もATPが作られてる?」

 「作られてる。透析で血液をきれいにしてもらいながら、細胞の中では普通に代謝が続いてる」

 桜は窓の向こうの血液浄化センターを見た。磨りガラスの向こうで、機械が動いている。その先のベッドで、田中さんが昼食を取っている。その田中さんの全身の細胞の中で、ミトコンドリアが今もATPを作り続けている。

 「すごいな」桜が小さく言った。「機械に血液を預けながら、細胞はちゃんと自分で動いてるんだ」

 「そうだ。透析は腎臓の代わりをしてるけど、細胞の代わりはできない。細胞が自分で動ける状態を保つために、腎臓の仕事を機械が肩代わりしてる、という順番だ」

 「なるほど」桜はようやく腑に落ちた顔をした。「機械が主役じゃなくて、細胞が主役なんだ」

 陽介は少し考えてから、「俺もさっき気がついた」と言った。

 正直に言えば、養成校でミトコンドリアを習ったとき、陽介はそれを試験のための知識として覚えていた。ATPはエネルギーの通貨、ミトコンドリアは発電所。語呂合わせで記憶して、試験が終われば引き出しの奥にしまっていた。

 今朝、田中さんの腕からチューブが伸びているのを見るまで、その引き出しを開けようとは思っていなかった。

 「ねえ、もう一個聞いていい?」

 「どうぞ」

 「細胞の核、あるじゃない。DNAが入ってるところ」

 「ある」

 「DNAって、設計図って言うけど、何の設計図なの? 細胞全体の?」

 「タンパク質の設計図だ」陽介は答えた。「体を動かすのはタンパク質だから、結果的に体全体の設計図になる。さっき言った細胞膜のタンパク質も、ミトコンドリアの中で働くタンパク質も、全部DNAの情報から作られてる」

 「じゃあDNAが壊れたら」

 「正しいタンパク質が作れなくなる。代謝がうまく回らなくなる。それが積み重なると、病気になる」

 桜は黙った。少しの間、サンドイッチの残りを見つめてから、「がんって、そういうこと?」と言った。

 「がんの多くはDNAの傷が原因だ。設計図が書き換わって、おかしなタンパク質が作られたり、細胞の増殖にブレーキがかからなくなったりする」

 「生化学って」桜がまた言った。今度は昼前とは少し違う声のトーンで。「病気の話でもあるんだね」

 「そうだよ」

 「なんか、怖いな。細胞の中でそういうことが起きてても、外からは全然見えない」

 「見えないから、機械で測る。血液検査も、透析のモニタリングも、全部『細胞の中で何が起きているか』を外から読もうとしてる行為だ」

 桜はそれを聞いて、少し間を置いた。

 「それがCE(臨床工学技士)の仕事、ってこと?」

 陽介は答えを持っていなかった。少なくとも、今日の午前中の時点では。

 そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。真田だった。片手にコーヒーの缶を持ち、もう片方の手に何かの記録用紙を持っている。二人の前を通りすぎようとして、一瞬だけ足を止めた。

 「飯食いながら何を話してた」

 「細胞の構造について」桜が答えた。「ミトコンドリアとDNAの話になりました」

 真田は缶コーヒーを一口飲んだ。「どこまで分かった」

 「細胞が主役で、機械は補助だって分かりました」

 真田の口元がわずかに動いた。昨日と同じ、笑ったのかもしれない動き方だった。

 「合格だ」真田は歩き出しながら言った。「午後は実際に回路の組み立てを見せる。生化学と機械が繋がって見えるようになったら、一人前に近づいたと思え」

 足音が廊下の先に消えた。

 「褒められた?」桜が陽介に囁いた。

 「たぶん」

 「真田さん、思ったより悪い人じゃないかもね」

 「まだ半日しか経ってない」

 二人はほぼ同時に残りのサンドイッチを口に入れた。

 廊下の窓から、四月の空が見えた。白く、高く、どこまでも続いていた。その空の下で、東崎総合病院の全員の細胞が、今もせっせとATPを作り続けていた。


第4節 工場の地図

 午後の業務は、回路の組み立て講習だった。

 真田が透析用の回路一式をトレイに並べた。動脈側チューブ、静脈側チューブ、ダイアライザー、生理食塩水のバッグ、それぞれのクランプとコネクター。陽介には見覚えのある部品ばかりだったが、養成校の実習室で触ったものとは少し型番が違った。

 「まず見ていろ」

 真田の手が動き始めた。迷いがなかった。どこを持ち、どこを差し込み、どこを閉じるか、すべての動作に無駄がない。おそらく何千回と繰り返してきた手順だった。二分もかからずに回路が組み上がった。

 「次はお前らがやる。間違えても怒らない。ただし、なぜ間違えたかは自分で説明しろ」

 桜が先に手を伸ばした。陽介は横で見ながら、手順を頭の中で追った。

 桜の手つきは慎重だった。一つ接続するたびに真田の顔を確認しようとして、しかし真田が一切表情を変えないので、自分で判断するしかなかった。それでも大きな間違いなく組み上がった。

 「悪くない」真田は言った。「陽介」

 陽介はトレイの前に立った。手を動かしながら、さっきから引っかかっていた疑問が口から出た。

 「このダイアライザーの膜って、何でできてるんですか」

 「セルロース系か合成高分子系かで素材は違う。何が聞きたい」

 「さっき桜が、透析膜は細胞膜に似てるって言ったんです。それが、ずっと頭に残ってて」

 真田は腕を組んだ。「続けろ」

 「細胞膜はリン脂質の二層で、タンパク質が埋まってて、物質の出入りを選んでる。透析膜も、小さい分子は通すけど大きい分子は通さない。構造は違うけど、やってることは似てる」

 「それで?」

 「人間は細胞膜の仕組みを参考にして、透析膜を作ったんですか」

 真田はしばらく黙った。それから、「逆だ」と言った。

 「逆?」

 「透析の歴史の方が古い。細胞膜の詳しい構造が分かってきたのは、透析が臨床で使われるようになってからずっと後だ。人間は細胞膜を真似たんじゃなく、細胞膜と同じ原理に自然と辿り着いた」

 陽介は手を止めた。

 「生命が三十八億年かけて作り上げた仕組みと、人間が百年足らずで辿り着いた仕組みが、結果的に似ていた」真田は回路の完成品を一瞥した。「それがどういう意味か、考えてみろ」

 陽介は答えを出せなかった。しかし何かが胸の中で動いた感覚があった。

 桜が隣で「すごい話だ」と小声で言った。

 講習はそのまま一時間続いた。回路の組み立てと取り外し、プライミングの手順、機械のパラメータ確認。真田は無駄な言葉を使わず、しかし問いには必ず答えた。陽介はメモを取りながら、頭の別の場所でずっと「細胞膜と透析膜」のことを考えていた。

 講習が終わったのは三時過ぎだった。

 「最後に一つ聞く」真田がトレイを片付けながら言った。「今日一日で、人体の何が分かった」

 桜が先に答えた。「細胞が主役だということ」

 「陽介は」

 陽介は少し考えた。「人体は工場だということ。ミトコンドリアが発電所で、核が設計図室で、細胞膜が搬入口で。それぞれの部署が役割を持って動いてる」

 「工場か」真田は繰り返した。「悪い言い方じゃない。ただし工場と違うのは、この工場は設計図から部品まで全部自分で作るという点だ」

 「自己複製ですか」

 「そうだ。設計図であるDNAを自分でコピーして、そのコピーを使ってタンパク質を作る。タンパク質が酵素として化学反応を動かし、化学反応がATPを作り、ATPが細胞の全活動を支える。その連鎖が止まらない限り、生命は続く」

 桜がゆっくりと口を開いた。「じゃあ、その連鎖のどこかが壊れたとき——」

 「臓器が傷む。代謝が乱れる。そこへ俺たちが機械を持って入っていく」真田はトレイを棚に収めた。「生化学を知らないCEは、地図を持たずに工場の中を歩き回ってるのと同じだ。機械は動かせても、何のために動かしているかが分からない」

 静かな断言だった。

 陽介はその言葉を、そのまま手帳に書き留めた。桜も同じことをしていた。二人が同時に同じ動作をしていることに、しばらくしてから互いに気づいて、どちらともなく視線を外した。

 「明日から透析患者の検査データを読む練習をさせる」真田は言った。「今日はもう上がっていい。ただし」

 真田が振り向いた。

 「今日見たこと、聞いたこと。全部、なぜそうなのかを自分の言葉で説明できるようにしておけ。教科書に書いてある言葉を並べるだけなら、俺は聞かない」

 それだけ言って、真田は次のベッドへ歩いていった。

 陽介と桜は並んで立ったまま、しばらくその背中を見ていた。

 「厳しいね」桜が言った。

 「そうだな」

 「でも」桜は血液浄化センター全体を見渡した。十六台の機械、十六人の患者、流れ続けるチューブの中の血液。「なんか、分かる気がする。地図がないと怖い」

 陽介はうなずいた。

 工場の地図。人体という工場の、細胞レベルの地図。自分たちはこれから、その地図を少しずつ手に入れていくのだ。機械の使い方を覚えながら、患者の体の中で何が起きているかを理解しながら。

 「帰ったら復習する」陽介は言った。

 「私も」桜は素直に言った。「教科書より、今日の話の方が頭に入る気がする」

 「それはお前の理解力の問題じゃなくて——」

 「分かってる」桜は遮った。「本物を見たから、でしょ」

 陽介は何も言わなかった。

 廊下を歩きながら、ロッカー室に向かいながら、陽介はもう一度だけ血液浄化センターの磨りガラスを振り返った。向こうで機械が動いている。向こうで血液が流れている。向こうで、細胞が化学反応を続けている。

 地図は、まだほとんど白紙だった。

 しかしその白紙に、今日初めて一本の線が引かれた。


第5節 教科書と違う、でも繋がっている

 更衣室を出たのは、午後四時を少し回った頃だった。

 四月の夕方はまだ明るい。病院の正面玄関を抜けると、西日が低い角度から差し込んで、駐車場のアスファルトを橙色に染めていた。送迎バスが一台、ゆっくりと敷地を出ていくところだった。

 「どこで帰り道が分かれるんだっけ」桜が鞄の肩紐を直しながら言った。

 「バス停まで同じ方向だ」

 「じゃあ一緒に行く」

 二人は並んで歩き出した。正面玄関から病院の外に出るのは、今日これが初めてだった。朝に入ってきたときとは景色が違って見えた。同じ道なのに、何かが変わった後に通ると違う場所のように感じることがある。

 しばらく無言で歩いた。

 「ねえ」桜が言った。

 「また質問か」

 「違う」桜は少し笑った。「感想」

 「聞く」

 「思ってたのと違った」

 陽介は前を向いたまま、「どう違った」と聞いた。

 「なんていうか——」桜は言葉を探すように少し空を見た。「机の上で習ったことって、全部バラバラな感じがしてたんだよね。細胞膜はリン脂質、ミトコンドリアはATP、DNAは設計図。それぞれ覚えたけど、それが何のためにあるのか、繋がってなかった」

 「繋がった?」

 「今日少し、繋がった気がした」桜は言った。「田中さんを見て、チューブを見て、真田さんの話を聞いて。細胞膜があるから血液が外に出られて、ミトコンドリアがあるから細胞が動けて、DNAがあるからタンパク質が作られて——それが全部、田中さんの体の中で今も起きてる」

 陽介はうなずいた。

 「俺も同じだった」陽介は言った。「養成校の生化学の授業は、ずっと試験のための科目だった。代謝経路を覚えて、酵素の名前を覚えて、それだけだった」

 「今日で変わった?」

 「変わったというより——」陽介は少し考えた。「解像度が上がった、という感じだ。知ってると思っていたものが、実はまだ粗い絵だったと分かった」

 バス停が見えてきた。ベンチに老人が一人座って、遠くを見ていた。

 「真田さんのことは」桜が言った。「どう思った」

 「怖いかと思ったけど、そうでもない」

 「私も。怖いより——真剣って感じがした」

 「患者に向かう顔が、機械に向かう顔と同じだった」陽介は言った。「田中さんに声をかけるときも、回路を組むときも、同じ集中の仕方をしてた」

 桜は少しの間、それを噛み締めるように黙っていた。

 「ねえ、最後にもう一個だけ」

 「どうぞ」

 「生化学って、結局何の学問なの。一言で言うと」

 陽介は答えを考えた。教科書的な答えは出てくる。生命現象を化学の視点でひもとく学問。分子レベルで生命を理解する学問。しかしそれは今日の桜の問いに対する答えとしては、少し遠い。

 「体の中で何が起きているかを知るための言語、だと思う」陽介はゆっくり言った。「体は外から見えない。血液検査の数字も、機械のアラームも、全部体の内側からのメッセージだ。そのメッセージを読むために必要な文法が、生化学じゃないか」

 桜はしばらくそれを聞いていた。

 「うまいこと言うね」

 「思いつきだ」

 「でも合ってると思う」桜はバス停のベンチの横に立った。「田中さんが『なくてはならん』って言ってたじゃない。あれ、ずっと頭に残ってる」

 「俺も」

 「なくてはならない、って言ってもらえる仕事って——結構すごいことだよね」桜は夕焼けの方を向いた。「機械を動かしてるだけじゃなくて、その機械が誰かの体の代わりをしてるって分かって動かすのと、分からないで動かすのとじゃ、全然違うと思う」

 陽介は桜の横顔を見た。

 養成校のときからそうだったが、桜は時々、陽介が論理で辿り着くより先に、感覚で核心に触れることがある。言葉にするのが遅いだけで、見えているものは陽介より広いのかもしれないと思うことがあった。今日もそうだった。

 バスが来た。

 老人が立ち上がり、桜がICカードを取り出した。陽介は少し後ろに続いた。

 「明日も透析室?」桜がステップを上りながら言った。

 「だと思う。検査データを読む練習をするって言ってた」

 「生化学の続きだね」

 「そうだな」

 バスのドアが閉まった。シートに並んで座ると、窓の外を病院の建物が流れていった。白い壁、整然と並んだ窓、正面玄関のガラス扉。あの建物の中で今も、十六台の機械が動いている。十六人の体の中で、細胞が化学反応を続けている。

 教科書と違う、と陽介は思った。

 教科書は正しかった。細胞膜はリン脂質でできていて、ミトコンドリアはATPを作り、DNAはタンパク質の設計図だ。書いてあることは一つも間違っていない。

 ただ、教科書には田中さんがいなかった。チューブを流れる血液の赤さがなかった。真田の手が回路を組む速さがなかった。それらが加わって初めて、知識が知識以上のものになる。

 繋がっている、と桜は言った。

 そうだ、と陽介は思った。繋がっている。細胞の中の化学反応と、廊下の外まで聞こえる機械の音が。教科書の文字と、田中さんの「なくてはならん」という言葉が。

 バスは夕暮れの道を走り続けた。

 二人は並んで座ったまま、それぞれ窓の外を見ていた。同じ方向を向いて、おそらく少し違うことを考えながら、同じ一日目の終わりを持ち帰っていた。

 白紙の地図に引かれた最初の一本の線は、思ったよりしっかりと、そこに残っていた。


 お読みいただきありがとうございました。

 「体は、黙っていない」から始まり、「白紙の地図に引かれた最初の一本の線は、思ったよりしっかりと、そこに残っていた」で終わる第1回でした。

 細胞が主役で、機械は補助。田中さんの「なくてはならん」という言葉が、陽介と桜の一日目に静かに落ちています。

 次回、第2章「食べたものの旅路」です。

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