第14章 血液が語る言葉
今回は一般病棟が舞台です。
倦怠感と食欲不振が続く堀内さんの血液検査に、ASTとALTの異常値が出ていました。真田さんから「なぜ肝臓と言えるか、自分の頭で考えろ」と問われた陽介と桜は、一日かけて逸脱酵素の意味を解きほぐしていきます。
数字は一枚の写真だ——並べると、動きが見える。そして動きの向こうに、人がいる。
「数字の向こう側にいる人を見るのがCEの仕事」という桜の言葉が、この章の着地点です。
第1節 数字が叫んでいる
朝のカンファレンスは、いつも短い。
CEの朝礼は真田が仕切る。その日の担当患者、機器の状態、申し送り事項。十分もあれば終わる。陽介と桜はその後、それぞれの持ち場に散っていく。それが日常の形になっていた。
その朝、真田がホワイトボードに数字を書いた。
AST 284 ALT 312 γ-GTP 89
「今日、二人に見てもらいたい患者がいる」
真田は振り返らずに言った。
「透析患者じゃない。一般病棟の五十代男性。昨日の定期検査でこの値が出た。担当医から相談が来た」
陽介はホワイトボードの数字を見た。ASTとALTが、基準値の上限をはるかに超えている。γ-GTPも高い。
「肝臓ですか」
桜が言った。
「そう判断するか」
「ASTとALTが高いと、肝臓の数値って言いますよね」
「言う。だがそれだけで判断するな」と真田は言った。「なぜ肝臓と言える。どこから来た数字なのかを、自分の頭で考えろ。それを今日確かめてこい」
真田はそれ以上説明しなかった。
陽介と桜は顔を見合わせた。
一般病棟は透析室から廊下を二つ挟んだところにある。五百十二号室。患者の名前は堀内さん。五十七歳男性。入院理由は精査目的。慢性的な倦怠感と食欲不振が続いていたところに、検査値の異常が出た。
「失礼します」
陽介がドアをノックして入った。
堀内さんはベッドの上に座って、窓の外を見ていた。がっちりとした体格だったのだろうと思わせる骨格だが、頬がこけている。目の下に疲れが滲んでいた。
「臨床工学の柏木と三浦です。機器の確認と状態の確認に伺いました」
「ああ」と堀内さんは言った。「よろしく」
「最近、体はどんな感じですか」
「だるい。ずっとだるい。飯も食えない。何もやる気が出ない」
「いつ頃からですか」
「二か月くらい前から、じわじわと。最初は疲れだと思ってた。仕事が忙しかったし」
「痛みは」
「特にない。ただ、だるい」
陽介はカルテを確認した。飲酒歴あり。ただし最近は減らしていると本人申告。服薬歴、特記なし。
桜が横からカルテを覗いた。
二人は病室を出て、廊下に立った。
「AST284って、どのくらい高いの」
桜が先に口を開いた。
「基準値は大体、四十以下だ」
「じゃあ七倍以上」
「そうなる」
「それが体に出る症状が、だるさと食欲不振か」
「そういうことになる」
桜は少し考えた。
「数字はこんなに大きいのに、痛くもないし、どこが悪いとも分からない感じなんだね」
陽介はうなずいた。
それが、この種の異常の怖さだと思った。数字は叫んでいる。でも体は静かに見える。痛みがない。見た目の激変もない。ただじわじわと、だるくなっていく。
体の内側で何かが壊れているとき、最初に異変を訴えるのは患者本人ではなく、血液の中の数字かもしれない。
「真田さんが言ってた」と桜が続けた。「なぜ肝臓と言えるか、考えろ、って」
「うん」
「ASTとALTって、どうして肝臓の指標になるの。肝臓の中にある物質が、血液に漏れてくるから?」
陽介はその問いを確かめるように繰り返した。
「漏れてくる、というのは正確な見方だ」
「細胞が壊れると、中身が出てくる」
「そう。ASTもALTも、本来は細胞の中にある酵素だ。血液の中にはほとんど存在しない。それが高い値で検出されるということは、細胞が壊れて、中の酵素が血液に漏れ出しているということだ」
桜はしばらく黙った。
「細胞が、壊れている」
「そういうことだ」
廊下の窓から、朝の光が差し込んでいた。
堀内さんは今も病室の窓を向いているだろう。体がだるいまま、何が起きているかを待っている。
その体の中で、どこかの細胞が壊れ続けている。壊れた細胞から漏れ出した酵素が、血液の中で静かに増え続けている。
数字はその声だ。
体が言葉を持たないまま、血液を通して送ってくるSOSだ。
陽介はそれを読む側にいる。今日、自分たちはその声を聞きに来た。
第2節 壊れた細胞が語るもの
昼前に、真田が一般病棟に顔を出した。
陽介と桜が廊下に立っているのを見つけて、近づいてきた。白衣のポケットに手を入れたまま、二人の顔を順番に見た。
「何が分かった」
「逸脱酵素の話を整理していました」と陽介は言った。「ASTとALTが高いのは、細胞が壊れて中の酵素が漏れ出しているからだと」
「それで」
「ただ、ASTは肝臓だけにあるわけじゃない。そこが気になっています」
真田は少し表情を変えた。変えた、というより、わずかに緩んだ。
「続けろ」
「ASTは心臓の筋肉にも、骨格筋にも存在します。だからASTだけが上がっていても、肝臓とは言い切れない。ASTとALTが両方上がっていて、かつALTの方が高いか同程度であれば、肝臓由来の可能性が高くなる」
「堀内さんの数字は」
「AST284、ALT312。ALTの方がわずかに高い」
「それで肝臓と判断したか」
「はい。ただ、断定はできないと思っています」
真田はうなずいた。それだけだった。
桜が横から口を開いた。
「逸脱酵素って、どうして細胞の中にあるんですか。血液の中じゃなくて」
真田は桜を見た。
「お前はいつも、そういうことを聞く」
「変な質問でしたか」
「変じゃない。陽介、答えてやれ」
陽介は少し考えた。
「酵素は、反応が起きる場所で働くからだと思います。ASTもALTも、アミノ酸の代謝に関わる酵素です。アミノ酸の代謝は細胞の中で起きる。だから酵素も細胞の中にいる」
「肝臓で特に多いのは」
「肝臓がアミノ酸代謝の中心だからです。村上さんのアンモニアが上がったとき、肝臓が尿素回路でアンモニアを無毒化する話をしましたよね。アミノ基を取り外して、安全な形に変える。その過程でASTやALTが大きく関わっている」
「そういうことだ」と真田は言った。「肝臓は代謝の工場だと言ったな。工場には道具が揃っている。道具が多いほど、壊れたときに外に出てくるものも多い」
桜はその言葉を繰り返した。
「道具が多い工場」
「肝細胞一個の中に、ASTもALTも大量に詰まっている。その細胞が壊れると、一気に血液に出てくる。だから数字が跳ね上がる」
「堀内さんの細胞が、今それをやってる」
「やっている」
三人は少し黙った。廊下の奥から、ナースコールの音が短く鳴った。
「γ-GTPは」と桜が続けた。「あれも肝臓ですか」
「胆管の細胞に多い」と陽介は言った。「胆汁の流れが滞ると上がりやすい。アルコールでも上がる」
「堀内さん、飲酒歴がありましたよね」
「カルテにはそう書いてあった」
「じゃあ関係あるかもしれない」
「担当医が精査中だと思う。俺たちが今できることは、数字を読んで、状態を把握して、機器管理の観点から何か必要なことがあれば対応することだ」
桜はうなずいた。
真田がまた口を開いた。
「細胞が壊れて酵素が漏れる、という現象はどこでも起きる。心筋梗塞で心臓の細胞が壊れればCKとトロポニンが上がる。横紋筋融解症で筋肉が壊れればCKが上がる。膵炎なら膵臓の酵素が出る」
「それぞれ違う酵素が出てくるんですね」
桜が言った。
「臓器によって、持っている酵素の種類と量が違う。だから漏れてくる酵素を見れば、どこが壊れているかが分かる」
「体が、自分がどこにいるかを教えてくれる」
真田は桜を見た。
「そういうことだ」
短い沈黙があった。
陽介は廊下の窓の外を見た。空は曇っている。午後から雨になるという予報だった。
体の中のどこかで細胞が壊れるたびに、その細胞が持っていた酵素が血液に流れ出す。血液はそれを全身に運ぶ。採血をすれば、その痕跡が数字として現れる。
壊れた場所の記録が、血液の中に残っている。
体は言葉を持たない。痛みがあれば訴えられる。でも肝臓は痛みを感じにくい臓器だ。だから堀内さんはだるさしか感じなかった。
その代わりに、血液が語った。
284と312という数字が、静かに、しかし確かに、何かが壊れていると告げていた。
「午後に担当医から追加の検査結果が出る」と真田が言った。「エコーと追加採血。結果が出たら報告しろ」
「はい」
真田は歩き出した。廊下の角を曲がって、見えなくなった。
桜が陽介の横でつぶやいた。
「血液って、正直だね」
陽介は少し考えてから言った。
「嘘をつかない」
「うん」と桜は言った。「体が黙っていても、血液は話してる」
その言葉が、廊下にしばらく残った。
第3節 臓器の住所を読む
午後の検査結果が出たのは、三時を過ぎた頃だった。
陽介は担当医の井上から内線を受けて、一般病棟のナースステーションに向かった。桜も後から来た。井上はタブレットを持って、検査結果の画面を二人に向けた。
追加採血の結果が並んでいた。
AST 291 ALT 324 γ-GTP 102
LDH 412 ALP 187 総ビリルビン 2.1
CK 54
「CKは正常範囲内ですね」と陽介は言った。
「そう」と井上は言った。「心臓と骨格筋は今のところ問題ない。肝胆道系に絞って考えていい」
桜が数字を順番に見た。
「LDHって何ですか」
「乳酸脱水素酵素です」と陽介は答えた。「解糖系の最終段階で働く酵素で、全身の細胞に広く存在します。肝臓・心臓・筋肉・赤血球にも多い」
「広く存在するなら、どこが壊れたか分からなくないですか」
「単独では分かりにくい。でも他の数字と組み合わせると意味が出てくる。今回はASTとALTが高くて、CKが正常。LDHが上がっている。心臓と筋肉は否定的で、肝臓が怪しいという流れが揃う」
井上がうなずいた。
「ALPは胆管の細胞に多い酵素です」と陽介は続けた。「γ-GTPと一緒に上がっている。胆汁の流れに何か問題がある可能性がある」
「エコーで胆管の拡張は見られなかった」と井上は言った。「ただ、肝臓の輝度が上がっていた。脂肪肝の所見に近い」
「脂肪肝」と桜が繰り返した。
「肝細胞に中性脂肪が溜まる状態です。アルコールや生活習慣が原因になることが多い。初期は症状が出にくいですが、炎症が加わると肝炎になり、細胞が壊れ始める」
「堀内さんの場合は、脂肪肝から炎症が起きて、細胞が壊れていると」
「現時点ではその可能性が高い。ただ確定診断には生検が必要になることもある」
桜はタブレットの画面を見た。数字が並んでいる。それぞれが別の酵素で、別の場所から来ている。
「ASTとALTは肝細胞の中」と桜がゆっくり言った。「γ-GTPとALPは胆管の細胞の中。CKは心臓と筋肉。LDHはどこにでもある」
「そうまとめると正確だ」と陽介は言った。
「じゃあ数字を見れば、どの細胞が壊れているか、だいたい分かる。臓器の住所みたいなものか」
井上が少し笑った。
「いい言い方ですね。臓器の住所」
桜は照れたように視線を外した。
「ビリルビンも上がっていますね」と陽介は言った。
「2.1。軽度上昇。黄疸の手前という感じです」と井上は答えた。「堀内さん、目が少し黄色っぽいのに気づきましたか」
陽介は思い返した。午前中に会ったとき、目の下の疲れは見ていた。でも白目の色までは確認していなかった。
「見ていませんでした」
「確認しておくといい。ビリルビンは赤血球が壊れるときに出るヘモグロビンの分解産物で、肝臓で処理されます。肝臓の機能が落ちると処理しきれなくなって、血液に溜まる。皮膚や白目が黄色くなる」
「黄疸は肝臓が処理できなくなったサインか」と桜が言った。
「そういうことです」
陽介は数字の並びをもう一度見た。
AST・ALT・γ-GTP・ALP・LDH・総ビリルビン・CK。それぞれが別の酵素で、別の細胞から来ている。一つ一つは断片だ。でも並べると、物語になる。
肝細胞が壊れている。胆管にも影響が出ている。心臓と筋肉は今のところ無事だ。赤血球の処理が追いつかなくなりつつある。
その物語の主語は、堀内さんの体だ。
「CEとして今できることは」と井上が言った。「堀内さんが今後透析や体外循環が必要になった場合に備えて、肝機能の状態を把握しておくことです。抗凝固薬の代謝も肝臓ですから、回路管理に影響が出ることがある」
「分かりました」と陽介は言った。「経過を追います」
井上はタブレットを閉じた。
陽介と桜はナースステーションを出た。廊下を並んで歩いた。雨が始まっていた。窓に細かい水滴が張り付いている。
「ねえ」と桜が言った。
「何」
「数字って、最初は記号みたいだったけど」
「うん」
「今は、ちゃんと声に聞こえる」
陽介は足を止めなかった。でも、その言葉を胸の中に入れた。
AST284。ALT312。その数字が初めてホワイトボードに書かれた朝、陽介も桜も、まず数字として見た。基準値と比べた。高い低いを判断した。
でも数字の向こうには、五十七歳の男性がいる。二か月間だるさを抱えて、仕事だと思って堪えていた人間がいる。その体の中で、肝細胞が静かに壊れ続けていた。
声は最初からあった。ただ、読める言葉になるまでに時間がかかった。
「俺も最初は記号だった」と陽介は言った。
「今は?」
「今は、少しだけ聞こえる」
桜はそれを聞いて、小さくうなずいた。
雨の音が窓の外から続いていた。
第4節 組み合わせが、真実に近づく
翌日の朝、真田がまたホワイトボードの前に立っていた。
今日は数字ではなく、図を書いた。丸が三つ。それぞれに「肝」「心」「筋」と書いた。丸の中に小さく「AST」と書いて、矢印を引いた。
「ASTはどこにある」
「肝臓、心臓、骨格筋です」と陽介は答えた。
「ALTは」
「主に肝臓です。他にも少量ありますが、肝臓が圧倒的に多い」
「だからASTとALTが両方上がっていて、ALTが優位なら」
「肝臓由来の可能性が高い」
真田はうなずいて、今度はホワイトボードに別の組み合わせを書いた。
AST↑ ALT→ CK↑
「これは」
陽介は少し考えた。
「ASTが上がってALTが正常で、CKも上がっている。心筋か骨格筋の損傷を考えます」
「例えば」
「心筋梗塞、あるいは激しい筋肉の損傷。横紋筋融解症など」
真田はまた別の組み合わせを書いた。
AST↑ ALT↑ ALP↑ γ-GTP↑
桜が先に口を開いた。
「全部上がってる。肝臓と胆管、両方」
「胆汁の流れが詰まっているとき、こうなりやすい」と陽介が補った。「胆石や胆管の炎症で、胆汁が逆流すると肝細胞にもダメージが出る」
「堀内さんはこれに近い?」
「ALPとγ-GTPは上がっているが、エコーで胆管の拡張は見られなかった。詰まりよりも、脂肪肝からの炎症の方が可能性が高いと井上先生は見ていた」
真田はホワイトボードのペンを置いた。
「一つの数字で臓器を特定しようとするな。組み合わせで読め。数字は一枚の地図の断片だ。断片を並べて初めて全体が見える」
地図、という言葉が陽介の耳に残った。
配属初日に真田が言った言葉だ。地図を持て。その言葉が、ここで戻ってくる。
「ASTには、もう一つ考えなければいけないことがある」と真田は続けた。「局在だ」
「ミトコンドリアと細胞質、ですか」と陽介は言った。
「そうだ。ASTには二種類ある。細胞質にいるものと、ミトコンドリアの中にいるもの。どちらが多く出てくるかで、細胞の壊れ方が分かる」
桜が首を傾けた。
「細胞質のASTが出るのは、細胞膜が傷んだだけで中身が漏れる程度の損傷。ミトコンドリアのASTが出るのは、細胞がより深く壊れたとき。ミトコンドリアは細胞の中の、さらに奥にある」
「奥まで壊れているかどうかが、ASTの種類で分かるんだ」と桜は言った。
「臨床では簡易的にAST全体の値として見ることが多いが、損傷の深さを意識することは大事だ」
真田はそこで一度止まった。
陽介は黙って聞いていた。真田の説明は、いつも必要なことだけを言う。余分がない。だから一言ごとに重さがある。
「前に言ったな」と真田は言った。「鍵と鍵穴の話を」
陽介と桜は同時にうなずいた。
「酵素は基質に特異的に結合して、特定の反応を触媒する。それが逆に言えば、酵素の種類が分かれば、どの反応が壊れているかも分かる」
「逸脱酵素は、その壊れた反応の痕跡か」と桜が言った。
「そういうことだ」
陽介は頭の中で整理した。
酵素は反応を起こす道具だ。反応が起きる場所に存在する。細胞が壊れると、その道具が外に出てくる。外に出てきた道具の種類と量を見れば、どこで何が壊れたかが分かる。
道具の名前が、臓器の住所になる。
昨日の桜の言葉が戻ってきた。
「堀内さんの今日の状態は」と真田が言った。
「昨日より倦怠感が少し楽になっていると話していました。食事も少し食べられたようです」と陽介は答えた。
「数字は」
「まだ昨日の値しか出ていません。今日の採血結果は午後に出ます」
「出たら確認しろ。上がっているか、横ばいか、下がり始めているか。その変化が次の判断材料になる」
「はい」
真田はホワイトボードの図を消した。丸三つと矢印が、白い跡を残して消えた。
「数字は一瞬の写真だ」と真田は言った。「一枚では分からなくても、並べると動きが見える。動きが見えると、体が何をしようとしているかが分かる」
「回復しようとしているか、まだ壊れ続けているか」と桜が言った。
「そういうことだ」
真田は白衣のポケットに手を入れて、部屋を出た。
陽介はホワイトボードの白い跡を見た。丸が三つあった場所。矢印があった場所。数字が並んでいた場所。
全部消えても、頭の中には残っている。
数字は一瞬の写真だ。並べると動きが見える。
陽介は今日の午後の採血結果を、待つことにした。上がっているか。横ばいか。下がり始めているか。
その変化の中に、堀内さんの体が何をしようとしているかが、書いてある。
第5節 数値の向こう側
午後の採血結果が出たのは、四時近くだった。
陽介は一般病棟のナースステーションで、タブレットの画面を開いた。桜が隣に立った。
AST 198 ALT 241 γ-GTP 94
昨日より下がっている。
ASTが291から198へ。ALTが324から241へ。γ-GTPはわずかだが94から動いていない。
「下がった」と桜が言った。
「下がり始めた」と陽介は言い直した。「まだ正常値には程遠い。でも方向が変わった」
「それって、大事なことだよね」
「上がり続けているのか、止まったのか、下がり始めたのか。その方向が、今の体の状態を示している」
桜はもう一度数字を見た。
「細胞が壊れるのが、少し落ち着いてきたってこと?」
「そう考えるのが自然だ。ただ、なぜ落ち着いたかは別の話だ。食事が改善されたのか、安静が効いたのか、あるいは自然経過なのか。数字が下がった理由を考えないと、また上がる可能性がある」
「原因が分からないと、また繰り返す」
「そういうことだ」
陽介は結果を記録して、井上医師に報告した。井上は「ひとまず良い方向です」と言って、治療方針の継続を確認した。
病室に向かった。
堀内さんはベッドに座って、今日は本を読んでいた。昨日と比べると、目の焦点が少し定まっているように見えた。
「柏木さんか。今日も来てくれたのか」
「様子を見に来ました。先生からお話はありましたか」
「ああ、さっき来てくれた。数値が下がってきたって。ただ、数字の意味がよく分からなくて」
「少し話しましょうか」
堀内さんは窓の外を見た。雨は上がっていた。雲の切れ間から、夕方の光が差している。
「昨日から、少し飯が食えるようになった。味が分かる気がする」
「それは良かったです」
「二か月、ずっとだるかった。何を食べても味が薄い感じがして、仕事も面白くなくて。体のどこかがおかしいとは思ってたが、まさか肝臓とは思わなかった」
「肝臓は痛みが出にくい臓器なので」
「沈黙の臓器、って言うんだろ。どこかで読んだことがある」
「黙って限界まで働く。悲鳴を上げないまま、数字にだけ出る」
堀内さんはその言葉を聞いて、少し表情を動かした。
「数字にだけ出る、か」
「はい」
「俺は数字が苦手でな。血液検査の結果を渡されても、何が書いてあるか分からなくて、毎回流してた」
陽介は何も言わなかった。
「流してなければ、もう少し早く気づけたかな」
後悔とも独り言ともつかない声だった。陽介はすぐに答えなかった。答えを急ぐ必要はないと思った。
桜が口を開いた。
「数字って、難しいですよね」
堀内さんが桜を見た。
「私も最初、全然分からなかったです。記号の羅列みたいで。でも一つ一つに意味があって、体のどこかの声だって分かってきたら、少し違って見えるようになりました」
「体の声か」
「数字に名前がついてる、って言った患者さんがいました」と桜は続けた。「BUNとかクレアチニンとか、難しい名前だけど、それが何の声なのかが分かると、ちゃんと聞こえてくる、って」
堀内さんはしばらく桜を見ていた。
「あんた、うまいこと言うな」
「ありがとうございます」
「次に検査結果をもらったとき、ちゃんと見てみる。何の声か、教えてもらえるか」
「もちろんです」と桜は言った。
陽介は桜の横顔を見た。
鈴木さんのことを思い出していた。透析導入初日に「数字に名前がついた」と言った人だ。あの言葉を桜は覚えていて、今日ここで使った。
患者の言葉が、別の患者に届く。
透析室で聞いたことが、一般病棟に来る。生化学で学んだことが、ベッドサイドで形になる。すべてが繋がって、今日のこの場所に積み重なっている。
陽介は病室を出た後、廊下に立って少し空を見た。雲の切れ間がまだある。
「ねえ」と桜が言った。
「何」
「真田さんが言ってたこと、覚えてる?検査値は患者が出しているSOSだって」
「覚えてる」
「今日、それがやっと分かった気がする」
陽介は桜を見た。
「数字を見るのがCEの仕事じゃなくて、数字の向こう側にいる人を見るのがCEの仕事なんだって」
陽介はすぐには答えなかった。
数字の向こう側。
ASTが284から198になった。その変化は数字だ。でもその数字の向こうには、二か月間だるさを抱えて堪えていた堀内さんがいる。今日初めて本を開けた堀内さんがいる。次の検査結果を自分の目で見ようとしている堀内さんがいる。
「俺も今日、分かった」と陽介は言った。
桜は何も言わなかった。でも、隣で小さくうなずいた。
廊下の窓から、夕方の光が長く伸びていた。
今回は逸脱酵素と、血液検査の数字が持つ意味を中心に書きました。
「ASTとALTが高い=肝臓」という知識は多くの人が持っていますが、なぜそう言えるのか——細胞の中にある酵素が壊れた細胞から漏れ出すという構造、ASTが肝臓・心臓・筋肉に存在する一方でALTは肝臓に特異的であるという違い——この「なぜ」を丁寧に積み上げることが、今回書きたかった中心です。
「臓器の住所」という桜の言葉は、この章で一番気に入っています。酵素の種類が壊れた場所を教えてくれる、という構造を直感的に言い切った一言で、陽介ではなく桜の口から出てくる言葉として書きました。
終盤、堀内さんへの説明の場面で桜が鈴木さんの言葉を引いてくる場面も書けたことが満足しています。透析室で聞いた患者の言葉が、一般病棟で別の患者に届く。物語の中の言葉が、章をまたいで繋がっていく、という構造を意図していました。
「数字の向こう側にいる人を見るのがCEの仕事」という桜のセリフは、この二年間の物語の積み重ねが一つの言葉になった瞬間として書きました。次回(第15章「すべては繋がっている」)もよろしくお願いします。




