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第15章 すべては繋がっている

最終章です。

二年前の四月、透析室の入口で立ち尽くしていた陽介と桜が、今日は新入職員を案内する側に立っています。

真田さんのセントラルドグマの話。桜の「道具の使い方の説明書」という言葉。陽介が初めて自分の言葉で語れた瞬間。そして真田さんの「合格」。

二年間の旅の、最後の一日です。

第1節 教える側に立つ日

 四月の朝は、においが違う。

 消毒液と透析液の匂いは変わらない。でも廊下を歩く人間の緊張が、空気に混じっている。新しいスクラブ。まだ折り目のついた白衣。エレベーターの前で立ち止まって、フロアの案内板を見上げる視線。

 陽介はその光景を、去年も一昨年も見ていた。今年は、少し違う場所から見ていた。

 「緊張してる?」

 桜が隣に来た。

 「してない」

 「嘘くさい」

 「してない」

 桜は小さく笑った。

 新入職員研修の補助を命じられたのは、三日前だった。真田から「お前たちが新人の案内をしろ」と言われたとき、陽介は一瞬、聞き間違えたと思った。自分たちが、案内する側に回る。二年前に自分たちがされたことを、今度は自分たちがやる。

 「何人来るんだっけ」

 「CE志望が三人。あとは他職種の見学が二人」

 「三人か」

 「俺たちと同じ年齢だ」

 桜はそれを聞いて、少し遠い目をした。

 「二年前の私たちって、どんなだったかな」

 「覚えてるだろ」

 「覚えてるけど、なんか遠い感じがする」

 陽介も同じだと思った。二年前の四月、透析室の入口で立ち尽くしていた朝。機械の音と薬液の匂い。田中さんが笑いかけてくれたこと。真田に「この仕事は化学反応を管理することだ」と言われて、意味が半分しか分からなかったこと。

 今は、あのときより分かる。

 全部が分かるわけではない。でも、あのときよりは確かに、分かる。

 エレベーターが開いた。三人の若者が出てきた。二十二、三歳だろう。スクラブが新しい。靴が白い。目が、あちこちを見ている。

 陽介は一歩前に出た。

 「臨床工学の柏木です。今日一日、案内します」

 三人が揃って頭を下げた。

 真田ならこういうとき何と言うだろう、と陽介は思った。短く、重く、余分なことを言わない。でも陽介は真田ではない。自分のやり方で言うしかない。

 「まず透析室から見てもらいます。患者さんがいるので、静かに入ってください。機械の音に驚くかもしれませんが、それが日常です」

 三人がうなずいた。

 一人が少し前に出た。女性だった。黒い髪を後ろにまとめている。目が真っ直ぐだ。

 「柏木さんは、CE何年目ですか」

 「二年目です」

 「二年目で、もう研修を担当されるんですか」

 「担当というより補助です。メインは真田先輩です」

 「真田さんって、どんな方ですか」

 陽介は少し考えた。

 どんな人か。口が悪い。褒めない。でも患者のそばを離れない。大事なことは必ず言う。ただし一度だけ。

 「怖いです」と陽介は言った。「最初は」

 三人が少し顔を見合わせた。

 「でも、言っていることは全部本当のことです」

 桜が横から付け加えた。

 「真田さんの言葉は、あとから効いてきます。じわじわと」

 廊下を歩き始めた。新入りの三人が後ろをついてくる。靴音が増えた。

 陽介は透析室のドアの前で立ち止まった。

 二年前、このドアの前で自分は何を思っていたか。緊張していた。知識はあると思っていた。でも何も分かっていなかった。

 「入ります」

 ドアを開けた。

 機械の音が溢れてきた。ポンプの低い振動。アラームの確認音。透析液の流れる音。三人が一瞬、身をすくめた。

 陽介はその反応を見て、懐かしいと思った。自分も同じだった。

 透析室の奥で、田中さんがこちらを見た。関西弁で何か言いかけて、患者さんがいると気づいたのか、代わりに手を小さく振った。

 陽介は会釈した。

 今日ここにいる患者たちは、二年間陽介たちを見てきた人たちだ。新入りを珍しそうに見る人もいる。懐かしそうに目を細める人もいる。

 その視線の中に、桜と陽介が立っている。

 もう、迎えられる側ではない。

 案内する側に、立っている。


第2節 設計図が、体を作る

 午前中の見学が終わって、小会議室に移ったのは十一時過ぎだった。

 真田が椅子を引いて座った。新入りの三人が向かいに並んだ。陽介と桜はその斜め後ろに立った。補助だから、前には出ない。でも真田の言葉は、自分たちにも届く場所にいた。

 「質問はあるか」

 真田が言った。最初の一言がそれだった。挨拶もなかった。

 三人が少し固まった。

 黒髪の女性が、また先に口を開いた。

 「透析室で、機械がたくさん並んでいましたが、あれを全部、CEが管理するんですか」

 「管理する」

 「どうやって覚えるんですか」

 「覚えるんじゃない。理解する」

 真田は短く言った。三人がまた固まった。

 「覚えることと理解することは違う。覚えたものは忘れる。理解したものは応用できる。機械の操作手順を丸暗記しても、患者の状態が変わったときに対応できない。なぜその設定にするのかを理解していれば、状況が変わっても判断できる」

 三人が真剣な顔でうなずいた。

 「なぜを問え。常に」

 真田はそれだけ言って、少し間を置いた。

 「生化学は勉強したか」

 「養成校で学びました」と黒髪の女性が答えた。

 「何を学んだ」

 「代謝の経路とか、酵素の働きとか」

 「セントラルドグマは」

 三人の顔が少し曇った。言葉は知っている。でも体が反応するほどには、まだ染み込んでいない。その顔だ。

 陽介は二年前の自分を思った。同じ顔をしていたはずだ。

 「DNA、RNA、タンパク質」と真田は言った。「情報が流れる方向だ。これがすべての出発点だ」

 陽介は壁に寄りかかって、真田の言葉を聞いた。

 「DNAは設計図だ。細胞の核の中に収まっている。その設計図を読んで、mRNAという伝令が作られる。これを転写という。mRNAが核の外に出て、リボソームという工場に届く。そこでタンパク質が作られる。これを翻訳という」

 「タンパク質が、最終的な産物ですか」と別の男性が聞いた。

 「そうだ。タンパク質は体を作る材料であり、酵素であり、ホルモンであり、受容体であり、抗体でもある。体の中で起きることのほぼすべてに、タンパク質が関わっている」

 「じゃあ、DNAが変わると」

 「設計図が変わる。作られるタンパク質が変わる。タンパク質が変わると、代謝が変わる。代謝が変わると、体の機能が変わる。それが疾患になることがある」

 三人は黙って聞いていた。

 陽介も黙って聞いていた。

 セントラルドグマ。養成校でも習った。試験にも出た。でも今、真田の口から聞くと、また違って聞こえる。

 設計図が体を作る。

 その設計図の通りに作られたタンパク質が、酵素になって代謝を動かす。代謝が動くと、細胞がエネルギーを作る。細胞がエネルギーを作ると、臓器が動く。臓器が動くと、体が生きる。

 一本の線で繋がっている。

 DNAから始まって、タンパク質になって、代謝になって、生命になる。

 「桜」

 真田が突然、桜を呼んだ。

 「はい」

 「mRNAとDNAの違いを、その三人に説明してみろ」

 桜は少し驚いた顔をした。補助の立場で急に振られた。でもすぐに三人の方を向いた。

 「DNAは、図書館の本みたいなものだと思ってください。絶対に外に持ち出せない、大事な原本です。核の中から出ない」

 三人が聞いている。

 「mRNAは、その本のコピーです。必要なページだけコピーして、工場に持っていく。コピーだから使い捨てで、用が済んだら分解される。原本は傷まない」

 「なるほど」と黒髪の女性が言った。「原本を守るために、コピーを使うんですね」

 「そう考えると分かりやすいと思います」

 真田は桜を見た。何も言わなかった。でも陽介には分かった。それが真田の合格の顔だ。

 「設計図が正確に読まれて、正確にコピーされて、正確にタンパク質に翻訳される。その精度が生命の精度だ」と真田は続けた。「一か所ずれると、作られるタンパク質が変わる。機能が変わる。病気になることがある」

 「遺伝子の病気、ですか」

 「そうだ。あるいは後天的に、環境や生活習慣でDNAが傷つくこともある。がんはその代表だ」

 小会議室が静かになった。

 陽介は天井を見た。

 設計図が体を作る。

 透析室で出会った患者たちを思った。田中さん。岸本さん。鈴木さん。原田さん。堀内さん。それぞれの体の中に、それぞれのDNAがある。それぞれの設計図が読まれて、それぞれのタンパク質が作られて、それぞれの代謝が動いている。

 同じ透析室にいても、一人として同じ体はない。

 だから、同じ管理では足りない。

 一人ひとりの体の声を聞く必要がある。

 その声が、数字になって現れる。


第3節 タンパク質が、世界を動かす

 昼休みに、新入りの三人は食堂に向かった。

 陽介と桜は小会議室に残った。真田はすでにいなかった。午後の透析室の準備があると言って、先に出た。

 二人だけになった部屋は、静かだった。

 桜がパイプ椅子を引いて座った。陽介は窓の外を見た。四月の空は薄く霞んでいる。春の光だ。

 「ねえ、陽介」

 「何」

 「さっきの真田さんの話、聞きながら考えてたんだけど」

 「うん」

 「セントラルドグマって、結局、体の中の連絡系統の話だよね」

 陽介は振り返った。

 「連絡系統」

 「DNAが本部で、mRNAが伝令で、リボソームが工場で、タンパク質が現場に出る作業員。指示が本部から現場に届いて、はじめて仕事が始まる」

 陽介は少し考えた。

 「間違ってはいない」

 「間違ってないけど、正確でもない?」

 「正確かどうかより、繋がりが見えているかどうかの方が大事だと思う。お前の言い方は、繋がりが見えてる」

 桜は少し照れたように視線を外した。

 「リボソームって、どこにあるの」

 「細胞質の中。小胞体という膜の構造にくっついているものと、細胞質に浮いているものがある」

 「くっついているものと浮いているものは、何が違うの」

 「くっついている方は、細胞の外に分泌されるタンパク質や、膜に埋め込まれるタンパク質を作る。浮いている方は、細胞の中で使われるタンパク質を作る」

 「行き先によって、作る場所も違うんだ」

 「そう。出荷先が決まっているから、工場の場所も分かれている」

 桜はしばらく考えた。

 「インスリンって、どっちで作られるの」

 「くっついている方だ。膵臓のβ細胞の小胞体で作られて、外に分泌される」

 「だから血液に乗って全身に届くのか」

 「そういうことだ」

 桜はうなずいた。

 「酵素は」

 「細胞の中で使われるものが多いから、浮いている方が多い。ASTもALTも、細胞質の中で働く」

 「だから細胞が壊れると、外に出てくる」

 「そうだ」

 桜は膝の上で手を組んだ。

 「ねえ、一個聞いていい」

 「何」

 「タンパク質って、結局、何者なの」

 陽介は窓の方を向いた。

 何者か。

 「道具だと思う」とやがて陽介は言った。

 「道具」

 「体の中で何かを動かすための道具。酵素として反応を触媒する。ホルモンとして信号を伝える。受容体として信号を受け取る。構造材として細胞の形を支える。抗体として異物を認識する。輸送体として物質を運ぶ」

 「全部、タンパク質がやってるんだ」

 「やってる。だからDNAの設計図が正確に読まれて、正確な道具が作られることが、生命の基本になる」

 桜はしばらく黙った。

 「設計図が狂うと、道具がおかしくなる。道具がおかしくなると、仕事が止まる。仕事が止まると、体が壊れる」

 「そういうことだ」

 「代謝の教科書って、要するに道具の使い方の説明書なんだね」

 陽介は少し笑った。自分でも意外だったが、笑ってしまった。

 「そう言われると、そうかもしれない」

 「笑った」

 「笑ってない」

 「笑った。珍しい」

 陽介は窓の外に視線を戻した。

 道具の使い方の説明書。荒削りだが、間違っていない。代謝の経路は、道具がどの順番でどの仕事をするかの記述だ。TCA回路も、解糖系も、尿素回路も、すべては酵素という道具が順番に働く連鎖だ。

 「ねえ」と桜がまた言った。

 「何」

 「私たちって、その道具が壊れたときに動く人間だよね」

 陽介は桜を見た。

 「体が本来持っている道具が使えなくなったとき、機械がその代わりをする。腎臓という道具が壊れたら透析機械が代わりをする。肺という道具が弱ったら人工呼吸器が代わりをする。心臓という道具が止まりかけたら人工心肺が代わりをする」

 「そうだ」

 「じゃあ私たちは、体の道具箱を補完する人間か」

 陽介はすぐに答えなかった。

 補完する。その言葉は正確だと思った。代替ではない。補完だ。体が本来やるべきことを、完全に置き換えることはできない。でも、失われた機能の一部を引き受けることはできる。

 「補完、という言葉は正確だと思う」

 「じゃあ生化学を学ぶのは、補完する対象を理解するためか」

 「そうなる」

 桜は立ち上がった。窓の方に歩いて、外を見た。

 「体が本来やるべき化学反応を知らないと、その代わりはできない」

 「できない」

 「だから生化学なんだ」

 陽介は返事をしなかった。返事をする必要がなかった。

 桜が今言ったことは、二年前に真田が言おうとしていたことだ。あのとき真田は「この仕事は化学反応を管理することだ」と言った。その言葉の意味を、陽介は二年かけて少しずつ理解してきた。

 今、桜が自分の言葉でそれを言った。

 タンパク質が道具で、道具が代謝を動かして、代謝が生命を作る。その道具が壊れたとき、自分たちが機械を持って立つ。

 それがCEだ。

 昼休みの小会議室に、二人だけの静けさが続いた。


第4節 一本の線で繋がっている

 午後の研修は透析室に戻った。

 新入りの三人は、午前中より少し緊張がほぐれていた。食堂で何か話したのだろう。黒髪の女性が、同期の男性と小声で何か確認し合っている。もう一人の男性は、メモ帳を開いている。

 真田は透析室の端に立って、腕を組んでいた。

 「午前中の続きだ」と真田は言った。「セントラルドグマがすべての出発点だと言った。では、それが壊れると何が起きるか。今日見てきた患者さんの疾患と繋げて考えろ」

 三人が顔を見合わせた。

 陽介は少し離れた場所で聞いていた。桜が隣にいる。

 「透析患者さんは、腎不全ですよね」と黒髪の女性が言った。

 「そうだ」

 「腎臓のどこかが壊れているということですか」

 「もう少し具体的に言え」

 「腎臓の細胞が壊れて、機能が失われている。糸球体の細胞が、本来の濾過の仕事をできなくなっている」

 「なぜ壊れる」

 「糖尿病なら、高血糖が続いて血管が傷む。それで糸球体の毛細血管がダメージを受ける」

 「他には」

 「高血圧、免疫の異常、遺伝的な原因」

 「遺伝的な原因、と言ったな」と真田は繰り返した。「それはセントラルドグマのどこに当たる」

 三人が少し止まった。

 陽介は答えを持っていた。でも今は言う場面ではない。三人が考える時間だ。

 「設計図のところ、ですか」と別の男性が言った。「DNAに異常があると、作られるタンパク質が変わって、腎臓の機能に関わるタンパク質がうまく働かなくなる」

 「そうだ」

 真田は短く言った。

 「糖尿病はどうだ。セントラルドグマのどこが壊れている」

 「インスリンが、うまく作られない、あるいは効かない」と黒髪の女性が言った。「インスリンはタンパク質なので、翻訳の段階か、その後の機能の段階に問題がある」

 「一型と二型で違う」

 「一型は膵臓のβ細胞が壊されるので、インスリンそのものが作れない。翻訳する細胞がなくなる。二型はインスリンは作られるが、受容体が反応しにくい。受容体もタンパク質なので、そちらの異常」

 真田はうなずいた。

 陽介は三人の答えを聞きながら、一年前の自分を思った。一年前の自分は、ここまで繋げて考えられていたか。繋がりは感じていた。でも言葉にできなかった。

 言葉にできるようになったのは、いつ頃からだろう。

 「肝不全は」と真田が続けた。

 「肝細胞が壊れて、代謝の工場が動かなくなる」とメモを持っていた男性が言った。「アミノ酸代謝も、尿素回路も、肝臓の酵素が担っている。その酵素を作る細胞が壊れると、連鎖が止まる」

 「アンモニアが溜まる」

 「はい。尿素に変換できないので」

 「ケトアシドーシスは」

 「インスリン不足でグルコースが使えなくなって、脂肪が大量に燃える。ケトン体が増えて、血液が酸性になる」

 「酸塩基平衡の崩れは、何のタンパク質と関係する」

 三人が少し考えた。

 桜が小声で陽介に言った。「重炭酸緩衝系の酵素」

 陽介はうなずいた。

 「炭酸脱水酵素ですか」と黒髪の女性が答えた。「CO₂と水から重炭酸イオンを作る酵素で、赤血球と腎臓に多い」

 「そうだ」

 真田は三人を順番に見た。

 「全部、繋がっているのが分かるか」

 三人が静かにうなずいた。

 「DNAが設計図を作る。設計図からタンパク質が作られる。タンパク質が酵素になる。酵素が代謝を動かす。代謝が臓器を動かす。臓器が体を生かす。その連鎖のどこかが壊れると、疾患になる。CEはその壊れた場所の代わりを、機械で引き受ける」

 真田は一度止まった。

 透析室の機械が、低く音を立てている。ポンプが回っている。血液が体の外を流れて、浄化されて、体に戻っていく。

 「生化学を学ぶのは、試験のためじゃない」と真田は言った。「壊れた場所を知るためだ。壊れた場所を知らないと、機械をどう使えばいいか分からない。なぜこの設定にするのかが分からない。患者に何が起きているか分からない」

 三人は真剣な顔で聞いていた。

 陽介も聞いていた。

 二年前にも同じようなことを聞いた。でも今日の言葉は、二年前より重く届く。二年分の経験が、言葉の受け皿を広げている。

 「柏木」

 真田が呼んだ。

 「はい」

 「お前から、何か言うことはあるか」

 陽介は少し驚いた。研修の場で、真田に振られることを想定していなかった。

 三人が陽介を見た。桜も見た。

 陽介はしばらく考えた。

 何を言うか。自分が二年間で分かったことは何か。新入りの三人に、今日渡せるものは何か。

 「生化学の授業は、最初、暗記科目だと思っていました」と陽介は言った。「経路を覚えて、数字を覚えて、試験を乗り越えるものだと」

 三人が聞いている。

 「でも現場に来ると、暗記では足りない場面が来ます。患者の状態が変わる。数字が想定外の動きをする。教科書と違うことが起きる。そのとき、なぜそうなるかが分かっていないと、次の手が出ない」

 陽介は一度止まった。

 「生化学は、なぜを考えるための言語だと今は思っています。患者の体で何が起きているかを、言葉にするための言語。その言語を持っていると、数字が声に聞こえてくる」

 小会議室ではなく透析室で言う言葉として、それで十分だと思った。

 真田は何も言わなかった。

 でも陽介には分かった。

 合格に近い、という顔だった。


第5節 からだのことば

 研修が終わったのは、夕方の四時過ぎだった。

 新入りの三人は、深く頭を下げて帰った。黒髪の女性が最後に振り返って、「また来てもいいですか」と言った。陽介は「どうぞ」と答えた。桜が「待ってます」と言った。

 三人の背中が廊下の角を曲がって、見えなくなった。

 透析室はまだ動いていた。夕方の透析が続いている。機械の音は変わらない。患者たちは変わらずベッドに座っている。

 田中さんが手招きした。

 陽介と桜が近づいた。

 「今日は偉そうやったなあ、兄ちゃん」

 田中さんが笑いながら言った。関西弁のイントネーションが、透析室に馴染んでいる。

 「偉そうにはしていません」

 「してたで。でもええことや。ちゃんと先輩になってる」

 陽介は返事をしなかった。でも、田中さんの言葉は素直に受け取った。

 「兄ちゃんたちが来た最初の日、覚えてるか」

 「覚えています」

 「あの日、わし、なんて言ったか覚えてるか」

 陽介は少し考えた。

 配属初日。緊張していた。田中さんが声をかけてくれた。あのとき何と言われたか。

 「なくてはならん、と言ってくださいました」

 田中さんは目を細めた。

 「そうや。今も思てる。あんたらは、なくてはならん」

 桜が田中さんの顔を見た。目が少し光っていた。

 「ありがとうございます」と桜は言った。声が少し小さかった。

 田中さんは手を振った。

 「お礼を言うのはこっちや。二年間、世話になった」

 透析室の機械が、変わらず音を立てている。

 陽介は田中さんのモニターを確認した。数字は安定している。今日も順調だ。

 窓の外は夕方の色になっていた。

 申し送りを終えて、更衣室に向かう途中で、真田が廊下で待っていた。壁に背をもたせて、腕を組んでいた。いつもの立ち方だ。

 「お疲れ」

 「お疲れ様でした」

 真田は少し間を置いた。

 「今日の研修で、最後に言ったこと」

 「はい」

 「生化学はなぜを考えるための言語だ、というやつ」

 「はい」

 「どこで気づいた」

 陽介はすぐに答えられなかった。どこで、という問いが難しかった。一度に気づいたわけではない。少しずつ、積み重なってきたものだ。

 「どこかで気づいた、というより」と陽介は言った。「いつの間にか、そうなっていた気がします」

 真田はうなずいた。

 「村上さんのpHを見たとき。西村さんの人工呼吸器と透析を同時に管理したとき。ケトアシドーシスの患者を前にしたとき。田中さんの緊急透析のとき。その一つ一つで、少しずつ」

 「繋がっていったか」

 「はい」

 真田は腕を組んだまま、しばらく黙った。

 「二年前、お前たちに言ったことを覚えているか」

 陽介は迷わず答えた。

 「この仕事は化学反応を管理することだ、と」

 真田はわずかに表情を動かした。

 「覚えていたか」

 「忘れません」

 真田は少しの間、陽介を見た。それから桜を見た。また陽介を見た。

 「俺たちが動かす機械は、体が本来やるべき化学反応の代わりだ。その化学反応を理解していない者が機械を触ることを、俺は認めない。お前たちは二年間、それを学んだ」

 陽介は黙って聞いた。

 「合格だ」

 真田はそれだけ言って、歩き出した。廊下を曲がって、透析室に戻っていった。

 合格。

 真田が「合格」と言うのを、陽介は初めて聞いた。「悪くない」より上の言葉だ。二年間で、一度も聞いたことがなかった。

 桜が隣で動かなかった。

 陽介は桜を見た。

 桜は廊下の先を見ていた。真田が曲がった角を、まだ見ていた。目に光が溜まっていた。

 「桜」

 返事がなかった。

 「泣いてるのか」

 「泣いてない」

 「目が光ってる」

 「蛍光灯の反射」

 陽介は何も言わなかった。

西村さんのICUの廊下で、桜がベッドサイドに座っていた夕方のことを、なぜか思い出した。

 廊下の蛍光灯は、白く均一に光っている。反射で目が光る角度ではない。でも陽介はそれ以上言わなかった。

 しばらく二人は廊下に立っていた。

 機械の音が透析室から聞こえてくる。誰かのポンプが動いている。誰かの血液が浄化されている。誰かの体が、今夜も続いている。

 「ねえ、陽介」

 桜が言った。声が少し落ち着いていた。

 「何」

 「最初の日、怖かった」

 「俺も怖かった」

 「機械の音が大きくて、患者さんがたくさんいて、真田さんが怖くて、何も分からなくて」

 「うん」

 「でも田中さんが笑いかけてくれた。あのとき少しだけ、ここにいていいんだって思えた」

 陽介は覚えていた。田中さんの笑顔。関西弁の第一声。なくてはならん、という言葉。

 「二年間、患者さんに教わったことの方が多かったかもしれない」と桜は続けた。「数字の向こうに人がいるって。体の声を聞くって。機械じゃなくて、その人を見るって」

 「うん」

 「生化学って、最初は記号だった。でも今は、体のことばだと思う」

 陽介は桜の言葉を聞いた。

 体のことば。

 タンパク質が道具で、代謝が仕事で、臓器が現場で、数字が報告で。その全部が、体が発しているメッセージだ。CEはそのメッセージを読んで、機械を通して返事をする。

 対話だ。

 体との対話。患者との対話。数字との対話。機械を介した、見えない対話。

 「俺たちが動かす機械は」と陽介は言った。「体が本来やるべき化学反応の代わりだ」

 真田の言葉が、今は自分の言葉として口から出た。

 二年前には意味が半分しか分からなかった言葉が、今は全部の重さで届く。

 桜が陽介を見た。

 「それを言える人間に、なれたね」

 陽介は答えなかった。

 答える代わりに、透析室の方を向いた。ドアの向こうで機械が動いている。患者たちがいる。田中さんがいる。真田がいる。

 明日もここに来る。

 明後日も来る。

 体のことばを聞き続けるために。

 廊下の蛍光灯が、白く、静かに光っていた。



エピローグ 体の声がきこえる

 五月の風が、病棟の廊下を抜けていった。

 窓が少し開いていた。誰かが開けたのか、気づかないうちに開いていたのか、分からない。カーテンが静かに揺れて、また元に戻った。

 陽介は透析室のドアの前に立っていた。

 中から機械の音が聞こえてくる。ポンプの低い振動。アラームの確認音。誰かが笑う声。三年目が始まって一か月が経つ。音の種類も、音の意味も、今は全部分かる。どのアラームが緊急で、どのアラームが確認だけでいいか。音を聞いただけで、体が動く。

 それがいつからそうなったのか、陽介には分からない。

 気づいたら、そうなっていた。

 ドアを開けた。

 田中さんが手を振った。いつもの場所に、いつもの田中さんがいる。関西弁で何か言いかけて、隣の患者と笑い合っている。その腕からチューブが伸びて、機械に繋がっている。血液が外を流れて、浄化されて、体に戻っていく。

 その一往復の中に、どれだけの化学反応が起きているか。

 陽介は今、それが見える。

 透析膜の前後でイオンが移動する。濃度勾配に従って、カリウムが抜けていく。重炭酸イオンが補正される。余分な水が除かれる。血液のpHが、少しずつ正常に近づいていく。細胞の中のナトリウムとカリウムのバランスが整っていく。活動電位が正常に戻っていく。

 田中さんの心臓が、正しいリズムで打ち続けられる理由が、その数字の中にある。

 「柏木くん」

 北村師長が声をかけてきた。

 「五番ベッドの原田さん、今日は少し表情が明るいわよ。先週の検査結果、良かったみたいで」

 「そうですか」

 「あなたが先月、血糖コントロールの大切さをきちんと説明したでしょう。あれが効いたって、本人が言ってたわ」

 陽介は原田さんのベッドを見た。五十六歳。糖尿病性腎症で透析導入になった男性だ。今日は窓の外を見ながら、穏やかな顔をしている。

 インスリンが鍵で、グルコースが細胞に入れなかった。その結果が腎臓の毛細血管を傷め、糸球体を壊した。長い年月をかけて積み重なった化学反応の歪みが、透析導入という形で現れた。

 その連鎖を知っているから、陽介は原田さんに話せた。

 知らなければ、話せなかった。

 昼過ぎに、桜が透析室に来た。手術室の業務を終えて、白衣の胸に小さな血痕がついている。気づいていないのか、気にしていないのか、いつも通りの顔で歩いてくる。

 「手術、長かった」

 「お疲れ」

 「人工心肺、三時間半。SvO₂がずっと安定してた。ミトコンドリアが頑張ってたんだと思う」

 陽介は少し笑った。

 三年前の桜は、ミトコンドリアという言葉を教科書の中にしか見ていなかった。今は手術室で人工心肺を管理しながら、全身の細胞の酸素消費を頭の中で追っている。SvO₂という数字の向こうに、電子伝達系が動く何兆もの細胞を見ている。

 「真田さんは」

 「ICU。西村さんに似た患者さんが来たって。COPDで肺炎、透析も必要になって」

 「また二重奏か」

 「真田さん、嬉しそうだった」

 「嬉しそう?」

 「あの人、難しい症例の方が目が生き生きする」

 陽介はそれを聞いて、否定できなかった。真田は怖い。口が悪い。褒めない。でも患者の前では、誰より長くベッドサイドにいる。難しければ難しいほど、その場を離れない。

 肺がCO₂を吐き出してpHを調整し、透析が重炭酸イオンを補正してpHを支える。二台の機械が、一つのpHを守る。真田はその二重奏を、誰より深く理解している。

 理解しているから、離れない。

 夕方、申し送りを終えて外に出ると、空が橙色になっていた。

 桜が隣に来た。二人で並んで、病院の駐車場の端に立った。風がまだある。五月の風は、四月より少し温かい。

 「ねえ、陽介」

 「何」

 「CEになって良かったと思う?」

 陽介はすぐに答えなかった。

 良かったか。その問いを、正面から受け取った。

 透析室で聞いた数字たちを思った。pH7.08。カリウム7.1。BUN98。AST284。ケトン体陽性。それぞれの数字の向こうに、それぞれの人がいた。だるさを抱えて堪えていた人。スイッチを切れなかったと言った人。数字に名前がついたと言った人。なくてはならん、と言ってくれた人。

 その声を聞けるようになったのは、体の化学反応を学んだからだ。

 言語を持ったから、声が聞こえた。

 「思う」と陽介は言った。

 桜は少し間を置いてから、うなずいた。

 「私も」

 橙色の空が、少しずつ暗くなっていく。病院の窓に、明かりが灯り始めた。透析室の窓も、手術室の窓も、ICUの窓も。それぞれの部屋で、それぞれの機械が動いている。それぞれの体が、今夜も続いている。

 体は黙っていない。

 数字を置き、信号を出し、化学反応で語り続ける。

 その声を聞ける人間が、あの窓の中にいる。

 明日もいる。

 隣に、桜がいる。


最終章を書き終えました。

最後の場面で陽介が「俺たちが動かす機械は、体が本来やるべき化学反応の代わりだ」と言う場面は、この物語を書き始めた日から決めていたセリフです。第1章で真田さんが言ったその言葉を、二年後に陽介自身が自分の言葉として口から出す。それがこの物語の一本の軸でした。

真田さんの「合格」という一言は、書いていて自分も少し手が震えました。二年間、一度も褒めなかった人が、最後に一言だけ言う。その重さを、できるだけ静かに書きたかったです。

桜の「生化学って、体のことばだと思う」というセリフは、この物語のタイトルの答えです。「からだのことば」とは何か。最後の最後に、桜が答えてくれました。

長い間、読んでいただきありがとうございました。

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