第13章 スイッチを握る者
今回は糖尿病性腎症で透析を導入した原田さんが中心の章です。
「なぜ血糖が高いと腎臓に悪いのか、誰もはっきり教えてくれなかった」という原田さんの問いから、陽介は砂糖水の比喩で説明を始めます。そしてインスリンという「鍵」の話へ、血糖を上げるホルモンが複数ある理由へ、そして翌朝のICUへ——一本の連鎖がつながっていきます。
「スイッチを切れなかった」という原田さんの言葉が、この章全体に静かに響き続けます。
第1節 血糖という名の洪水
透析室の朝は、においから始まる。
消毒液と透析液が混じった、どこか鉄分に似た匂い。陽介はその匂いを嗅いだとき、いつも「今日も始まる」と思う。配属から二年近くが経った今も、それは変わらなかった。
「柏木くん、原田さん、またよろしくね」
北村師長がチャートを差し出してきた。ベッドの番号は四番。陽介は受け取って、数字を確認した。五十代男性。透析導入から三週間。原因は糖尿病性腎症。
「三浦は今日、岸本さんについて。私は田中さんと木村さんを見る。分担、いいね」
「はい」
桜が隣でうなずいた。二人は視線を交わした。言葉はなかった。それだけで通じるようになったのは、いつ頃からだろうと陽介はふと思った。
原田さんは四番ベッドに座って、窓の外を見ていた。五十六歳。まだ若い、と陽介は思う。骨格のしっかりした男性で、以前は建設現場で働いていたと聞いた。透析の針が入ると、顔が少し歪んだ。それでも文句は言わなかった。
「よろしくお願いします、柏木さん」
低い声だった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
陽介は回路を確認しながら答えた。血液ポンプが動き始め、チューブの中に赤い色が満ちていく。
「なあ、聞いてもいいか」
透析が始まって十分ほど経った頃、原田さんが口を開いた。
「どうぞ」
「俺の腎臓、なんで壊れたんだ。糖尿病だって言われたけど、腎臓と糖尿病って、どう繋がってるんだ。先生は説明してくれるんだが、なんか難しくて」
陽介は手を止めた。
「お医者さんは、どういう説明でしたか」
「高血糖が続くと血管がやられる、って。それで糸球体が傷む、って。でも俺、血管と腎臓がどう繋がってるのか、ぴんとこない」
陽介はしばらく考えた。どこから話せばいい。糸球体から始めるか。血管から始めるか。
「原田さん、砂糖水の話、していいですか」
「砂糖水?」
「コップに砂糖を入れすぎると、べたつきますよね」
「そりゃそうだろ」
「血液の中に糖が多すぎると、同じことが起きます。血液が、べたべたになる」
原田さんが目を細めた。
「腎臓の糸球体というのは、毛細血管が毛糸みたいに絡まった、ものすごく細い網です。その網で血液を濾して、老廃物を取り除いてる。でも血液がべたついていると、その細い網が傷んでいく」
「詰まるのか」
「詰まるというより、傷む、という感じです。何年もかけて、少しずつ。網の目が大きくなって、本来通すべきでないものが漏れ出す。あるいは目が詰まって、濾せなくなる」
原田さんはしばらく黙った。窓の外の景色を見ながら、何かを考えているようだった。
「何年もかけて、か」
「はい」
「だから気づかなかったのか」
「腎臓はかなり壊れるまで、症状が出にくいんです。半分以下になっても、残りで補おうとする」
「働き者だな、腎臓」
原田さんはぼそりと言った。その言葉を陽介はすぐには返せなかった。
そうだ、と思った。どれだけ傷めつけられても、限界まで働き続ける。それで最後に限界を超える。原田さんの腎臓は、そうやって透析まで持ち堪えたのだ。
「俺の糖尿病は、コントロールが悪かったんだろうな。仕事が忙しくて、食事も薬も、後回しにしてた」
後悔が滲んだ声だった。陽介はモニターを確認した。数字は安定している。
「わかっていれば、もっと早く気をつけた。でも、なんで血糖が高いと腎臓に悪いのか、誰も俺にはっきり教えてくれなかった。糖尿病だから注意しろ、とは言われたけど」
陽介はゆっくり息を吸った。
原田さんは、理由を知りたいのだ。後悔するためでも、誰かを責めるためでもない。ただ、自分の体に何が起きたのかを、きちんと知りたい。
「続きを、話してもいいですか」
「ああ、聞かせてくれ」
「糖が血液の中に多すぎると、いろいろなことが起きます。血管の壁が傷む。炎症が起きる。そこに余分なものが積み重なる。それがじわじわと腎臓の毛細血管を壊していく」
「スイッチが入る、みたいな感じか」
陽介は少し驚いた。
「そうです。高血糖というのは、体の中でいろいろな悪い反応のスイッチを入れてしまう。それが積み重なって、腎臓に行き着く」
「スイッチを切れなかったんだな、俺は」
原田さんはまた窓を向いた。その横顔は穏やかだった。怒っているわけではない。ただ、受け入れようとしている人間の顔だった。
陽介はモニターを見た。数字は動いていない。透析は順調に進んでいる。
体の外で、血液が浄化されていく。原田さんの腎臓が限界を超えた分を、この機械が引き受けている。
その仕事を、今日も自分たちはやっている。
第2節 たったひとつの鍵
昼前の透析室は、機械の音だけが静かに続いている。
陽介は原田さんの回路を確認し終えて、少し離れたナースステーションの端に立った。チャートに数値を記録しながら、さっきの会話を頭の中でもう一度たどった。
スイッチを切れなかった。
原田さんの言葉は、短かった。それなのに妙に残る。
「陽介、さっきから何考えてるの」
桜が横に来た。岸本さんの回路確認を終えたらしく、白衣のポケットに手を入れて立っている。
「原田さんが、糖尿病と腎臓の関係を聞いてきた」
「答えられた?」
「砂糖水の話をした。高血糖が血管を傷める、って」
「ちゃんと伝わった?」
「たぶん」
桜はしばらく黙って、陽介の横でカルテの画面を覗き込んだ。
「でも、そもそもなんで血糖が高くなるの。糖尿病って、インスリンが出ないから、って聞くけど」
陽介は顔を上げた。
桜の質問は、いつも核心に近いところを突いてくる。本人はそれに気づいていない。ただ素直に分からないことを言う。それが鋭い問いになる。
「インスリンが、細胞への鍵なんだ」
「鍵?」
「グルコースは血液の中を流れているけど、細胞の中には勝手に入れない。入るためには鍵が必要で、その鍵がインスリン」
桜は少し目を細めた。考えている顔だ。
「鍵がないと、グルコースは血液の中に閉め出されたまま、ってこと?」
「そう。だから血糖が上がる。細胞はグルコースを使えないのに、血液の中にはグルコースが溢れてる状態になる」
「なんかそれ、残酷だな」
陽介はそう言われたことを少し意外に思った。
「食べても、食べたものを使えない、ってこと?」
「厳密には、インスリンが全く出ない場合と、インスリンが出ていても効きが悪い場合がある。どちらにしても、グルコースが細胞に届かないという結果は同じだ」
「インスリンって、どこで作られるの」
「膵臓。ランゲルハンス島のβ細胞っていう細胞が作ってる」
「ランゲルハンス島」
桜が静かに繰り返した。
「島、って言うんだね」
「膵臓の中に点在しているから。海に浮かぶ島みたいな形で分布してる」
「なんかロマンチックな名前だな。そこにβ細胞があって、血糖が上がったら感知して、インスリンを出すの?」
「そう。血糖値が上がると、β細胞がそれを感知して、インスリンを血液中に分泌する。インスリンが鍵になって、細胞のドアを開ける。グルコースが入って、エネルギーに変わる」
桜はうなずいた。
「じゃあ、糖尿病はその鍵が作れなくなった状態か、鍵が歪んで使えなくなった状態か、どっちかってことか」
「分かりやすく言えばそうなる。一型は鍵そのものが作れない。β細胞が壊される。二型は鍵が作れても、鍵穴の方が反応しにくくなってる。インスリン抵抗性って言う」
桜はしばらく考えた。
「原田さんは、二型?」
「チャートを見る限りはそうだと思う」
「鍵はあるのに、鍵穴が錆びてしまった」
「うん」
「なんか、取り返しがつかない感じがする」
陽介は何も言わなかった。
取り返しがつかない、という言葉を、陽介はすぐに否定する気になれなかった。腎臓はもう戻らない。それは本当だ。でも、これ以上悪くならないために透析がある。残っている機能を守るために、今日の管理がある。
「ただ」と陽介は言った。
「鍵穴が錆びていても、錆を広げないことはできる。透析は錆を取り除くための機械じゃないけど、これ以上広がらないように、体の条件を整えることはできる」
桜は陽介を見た。
「さっきの原田さん、なんて言ってた?」
「スイッチを切れなかった、って」
「それを言えた人は、次のスイッチを切りにいける気がする」
陽介は返事をしなかった。でも、桜の言葉は正しいと思った。
ランゲルハンス島のβ細胞が感知する。血糖が上がったと判断する。インスリンを出す。全身の細胞の鍵穴に届く。グルコースが入る。エネルギーに変わる。
そのどこかが壊れると、血液の中に糖だけが残り続ける。
インスリンは、人体の中でたった一つ、血糖を下げることができるホルモンだ。それは今日、陽介が改めて思い出したことでもあった。体の中には血糖を上げる仕組みが複数ある。下げる仕組みは、たった一つだ。
なぜそうなっているのか。
その問いが頭の片隅に残った。透析室の機械音が、変わらず続いている。
第3節 守る側が、多い理由
午後の透析室は光の角度が変わる。
午前中は窓から直接差し込んでいた日差しが、昼を過ぎると壁に反射した柔らかい光になる。陽介はその変化に気づくようになったのも、この二年のことだった。
原田さんの透析は折り返しを過ぎていた。バイタルは安定している。陽介は少し離れた位置に立って、モニターを確認しながら、さっき桜に話した続きを自分の中で整理していた。
血糖を下げるホルモンは、インスリンだけだ。
では、上げる側は。
「柏木」
真田が来た。白衣のポケットに両手を突っ込んで、陽介の隣に立つ。視線はモニターに向いたままだ。
「原田さん、落ち着いてるか」
「はい。バイタル問題ありません」
「今日から担当か」
「そうです」
真田はチャートをひとつ眺めて、また前を向いた。
「何か話したか」
「糖尿病と腎臓の話を少し」
「原田さんから聞いてきたか」
「はい」
真田は小さく息をついた。
「あの人は、理由を知りたいタイプだ。ちゃんと答えてやれ」
「はい」
短い会話だった。真田はそのまま隣のベッドの確認に移ろうとした。陽介は少し迷ってから、声をかけた。
「真田さん」
「何だ」
「インスリンだけが血糖を下げる、って話を原田さんにしたんですが」
「それで」
「血糖を上げる側が複数あるのは、なぜなんでしょう」
真田は歩みを止めた。振り返らずに、少し間を置いた。
「お前はどう思う」
陽介はすぐには答えなかった。答えを持っていないわけではない。ただ、真田に問い返されると、自分の考えを言葉にして確かめたくなる。
「血糖が下がりすぎる方が、命に関わるからじゃないかと思います。低血糖は短時間で脳にダメージが出る。高血糖は長期間かけて血管を傷める。だから、緊急で守るべきは低血糖の方で、上げる仕組みを複数用意した」
真田は振り返った。
「まあ、そういうことだ」
それだけ言って、歩き出した。陽介はその背中に向けて続けた。
「グルカゴンが膵臓のα細胞から出る。アドレナリンは副腎髄質から。コルチゾールは副腎皮質から」
真田は止まらなかった。でも、少しだけ歩調が緩んだ気がした。
桜が戻ってきた。岸本さんのところから戻る途中で、二人のやりとりを聞いていたらしい。
「血糖を上げるホルモンって、そんなにあるの」
「少なくとも三つある」
「なんで三つも」
「役割が少し違う。グルカゴンは血糖が下がったとき、肝臓に蓄えているグリコーゲンをグルコースに変えて放出させる。即効性がある」
「肝臓が備蓄を放出するんだ」
「アドレナリンはもっと緊急用だ。危険を感じたとき、興奮したとき、瞬時に血糖を上げる。筋肉も動員する。闘うか逃げるか、という状態のときに出る」
桜は少し目を丸くした。
「コルチゾールはもっとゆっくり、長期的なストレスに応じて出る。血糖を維持しながら、炎症を抑えたり、エネルギーを再配分したりする」
「それぞれ出どころも違うし、タイミングも違うんだ」
「うん。だから一つが壊れても、別のものが補える。守りが多重になってる」
桜はしばらく考えた。
「体って、大事なものほど守りが厚いんだね」
陽介はその言葉を、少し意外に受け取った。でも考えてみれば、そうだ。酸塩基平衡も、肺と腎臓の二重構造だった。電解質のバランスも、複数のホルモンと臓器が関与していた。一本のラインが切れても、別のラインが引き継ぐ。
「インスリンが一つしかないのは」と桜が続けた。「下げすぎたら困るから?」
「そう考えるのが自然だと思う。血糖を下げすぎると、脳がエネルギー不足になる。脳はグルコースしか使えない。だから下げる方向には慎重で、上げる方向には手厚い」
「脳だけは、脂肪もアミノ酸も使えないんだっけ」
「基本的には。だから低血糖は怖い。手が震えて、意識が遠くなって、放置すると昏睡になる」
桜は少し黙った。
「糖尿病の患者さんが低血糖になったとき、甘いものを急いで食べさせる、ってやつか」
「そう。あれはグルコースを直接補う応急処置だ」
窓の光が、また少し変わった。午後の透析室に、機械の低い音が続いている。
陽介は原田さんのモニターをもう一度確認した。数値は安定している。
守る側が多い。それは弱いからではなく、守るべきものが重いからだ。脳が止まれば、すべてが止まる。だからこそ体は、血糖を下げすぎないための仕組みを、何重にも持っている。
インスリンが一つしかない理由は、下げる方向への慎重さそのものだ。
原田さんの体では、長年その均衡が崩れていた。スイッチを切れなかった、という言葉が、またひとつ重みを持って戻ってきた。
第4節 糖が使えない体で
夕方の申し送りまで、あと一時間ほどだった。
原田さんの透析は終盤に入っていた。除水量は予定通り。バイタルに乱れはない。陽介は回路の最終確認をしながら、今日一日の流れを頭の中で追っていた。
「柏木さん」
原田さんが声をかけてきた。
「はい」
「さっきの話の続き、聞いてもいいか」
「どうぞ」
「血糖が高いと血管が傷む、って言ってたよな。俺の場合、インスリンが効きにくくなってたって話だったけど」
「はい」
「血糖が高いとき、体の中では何が起きてる。細胞はグルコースを使えないって言ったな。じゃあ、体はエネルギーをどこから取ろうとするんだ」
陽介は手を止めた。
鋭い、と思った。原田さんは話を聞きながら、自分でその先を考えていたのだ。
「脂肪を燃やします」
「脂肪を」
「体はグルコースが使えないと判断すると、次の燃料を探します。脂肪細胞に蓄えられた中性脂肪を分解して、脂肪酸を取り出す。それをエネルギーに変えようとする」
原田さんは少し考えた。
「それ、悪いことなのか。脂肪が燃えるならいいんじゃないか」
「少量なら問題ありません。でも、インスリンがほとんど働いていない状態で、大量の脂肪が燃え始めると、話が変わってきます」
「どう変わる」
陽介はどう説明しようか少し考えた。
「脂肪が燃えるとき、ミトコンドリアでβ酸化という反応が起きます。その過程でアセチルCoAという物質が生まれる。普通はTCA回路に入ってエネルギーになる。でも大量の脂肪が一度に燃えると、アセチルCoAが余りすぎて、TCA回路が追いつかない」
「余った分はどうなる」
「ケトン体になります」
原田さんが眉を動かした。
「ケトン体って、聞いたことがある。ダイエットで脂肪が燃えてる証拠、みたいな話で」
「それは少量のケトン体の話です。少量なら脳や筋肉のエネルギー源にもなる。でも大量になると、ケトン体は酸性の物質なので、血液が酸性に傾いていく」
原田さんの表情が変わった。
「血液が酸性に」
「はい」
「それは、前に別の患者さんで聞いたことがある話と同じか」
陽介は少し驚いた。原田さんが透析室で他の患者の話を耳にしていたのかもしれない。あるいは、北村師長あたりに何か聞いたのか。
「アシドーシスのことですか」
「そう、それだ。血液が酸になる、って話」
「同じ方向の話です。腎臓が悪くて酸を排泄できなくなるアシドーシスと、ケトン体が大量に作られるアシドーシスは、起きる原因は違う。でも血液が酸性に傾くという結果は同じです」
原田さんはしばらく黙った。点滴のルートを眺めるでもなく、ただ何かを考えている。
「繋がってるんだな」
「はい」
「腎臓の話も、血糖の話も、酸の話も、全部どこかで繋がってる」
陽介は答えなかった。でも、その通りだと思った。
桜が近づいてきた。岸本さんのシャント確認を終えたらしく、記録用紙を持っている。陽介の横に立って、原田さんに軽く会釈した。
「お疲れ様です、原田さん」
「ああ。あんたも、いつも世話になってる」
桜は陽介の顔を見た。話の途中だと気づいたらしく、黙って隣に立った。
「柏木さん」と原田さんが続けた。「ケトン体が増えると、体はどうなる」
「最初は吐き気や腹痛が出ます。息に甘酸っぱいような独特の匂いが出ることもある。ケトン体の一種、アセトンが肺から出るからです」
「それから」
「血液の酸性度が上がっていくと、呼吸が速くなります。肺が必死にCO₂を吐き出して、酸性を中和しようとする。でも追いつかないと、意識が遠くなっていく」
原田さんはゆっくりうなずいた。
「インスリンが効かなくなる、ということは、そこまで繋がっていくのか」
「インスリンがほとんど機能しない状態で放置されると、そこまで至ることがあります。ケトアシドーシス、といいます」
「物騒な名前だな」
「物騒な状態です」
原田さんは少し苦く笑った。
「俺は、そこまではいかなかった」
「原田さんの場合は、高血糖が長期間続いて血管と腎臓を傷めた形です。ケトアシドーシスとは少し違う経路ですが、出発点は同じ、インスリンの働きが足りなかったことです」
「出発点は同じか」
原田さんは窓の外を向いた。夕方の光が、病棟の壁にオレンジ色の影を作っていた。
「グルコースを使えない体で、体は脂肪を燃やそうとする。燃やしすぎると毒が出る。毒が血液を酸にする。酸が体を壊す」
ゆっくりと、自分の言葉で整理するように言った。
「そういう連鎖か」
「そうです」
陽介は短く答えた。原田さんが自分の言葉で組み立てたものを、崩す必要はなかった。
機械が低く音を立てている。血液が体の外を巡って、また戻っていく。グルコースを使えなかった体が積み重ねた時間の結果が、今この四番ベッドにある。
それでも、今日の透析は順調だった。
第5節 生化学は、繋がっている
翌朝、当直明けの真田から内線が入ったのは、陽介が更衣室を出た直後だった。
「ICU。すぐ来い」
それだけだった。
陽介は廊下を早足で進んだ。ICUのドアを開けると、真田がベッドサイドに立っていた。モニターが複数並んでいる。担当医の井上がタブレットを持って指示を出している。看護師が二人、動いていた。
ベッドに横たわっているのは、若い男性だった。三十代くらいに見える。呼吸が速い。胸が激しく上下している。顔色は悪く、目が半開きになっていた。
「一型糖尿病。インスリンポンプのトラブルで昨夜から投与が止まってた。ケトアシドーシスだ」
真田が低い声で言った。
陽介は瞬時に頭の中で情報を組んだ。インスリンが止まった。グルコースが使えなくなった。脂肪が燃え始めた。ケトン体が増えた。血液が酸性に傾いた。
「pH」
「7.08だ」
陽介は息を呑んだ。
7.08。正常は7.35から7.45。村上さんのときが7.19で、あのときすでに意識が揺らいでいた。それよりさらに低い。
「CO₂は」
「18。代償で呼吸数が上がってる。今25回」
肺が必死にCO₂を吐き出している。酸性を少しでも中和しようとして、呼吸を速めている。でも追いつかない。
「桜は」
「透析室。今日はお前だけでいい。補助しろ」
陽介はベッドの反対側に立った。モニターを確認する。心拍数118。血圧は保たれている。SpO₂は95。
井上医師が指示を出し始めた。インスリンの持続投与。輸液の速度調整。電解質の補正。陽介は機器の確認に回った。輸液ポンプの設定。モニターのアラーム設定。記録の準備。
「柏木」
真田が呼んだ。
「ケトアシドーシスで怖いのは何だ」
今、この場面で問いかけてくる。陽介はモニターから目を離さずに答えた。
「アシドーシスそのものと、治療に伴う電解質の変動です。インスリンを入れるとカリウムが細胞内に移動する。血清カリウムが急に下がる」
「それが怖い理由は」
「低カリウム血症は不整脈を起こします。心臓が止まりうる」
「合格」
真田は短く言って、井上医師の方に向き直った。
陽介は手を動かしながら、頭の中で整理を続けた。
インスリンが止まったことから始まった。たったそれだけのことが、ここまで連鎖した。グルコースが使えない。脂肪を燃やす。ケトン体が出る。血液が酸性になる。肺が代償する。それでも追いつかない。意識が遠くなる。
昨日、原田さんに話したことだ。
あのとき陽介は図式として説明していた。でも今、それが目の前で起きている。速い呼吸。半開きの目。7.08というpH。
生化学は、教科書の中にあるのではない。このベッドの上にある。
処置が進むにつれて、モニターの数値が少しずつ動き始めた。インスリンが入り始めた。輸液が走っている。カリウムの値を確認しながら、陽介は記録を続けた。
一時間が経った。
呼吸数が少し落ち着いてきた。二十五回から二十二回。わずかな変化だが、確かな変化だ。
「pH、再検」
井上医師の指示で採血が行われた。結果が出るまで、陽介は機器の前に立ち続けた。
7.14。
まだ低い。でも、動いた。
真田がその数字を見て、小さくうなずいた。それだけだった。
昼過ぎに、桜が交代に来た。透析室の午前業務を終えて、師長に頼んでICUに回してもらったらしい。
「どう」
「少しずつ戻ってる」
「この人、ケトアシドーシス?」
「うん」
桜はモニターをひとつひとつ見た。それから患者の顔を見た。呼吸はまだ速いが、目が閉じていた。眠っているのか、意識が落ちているのか、外からは分からない。
「昨日、原田さんに話してたことが」と桜は静かに言った。「そのままここにある」
陽介は答えなかった。
「インスリンが止まって、脂肪が燃えて、ケトン体が出て、血液が酸になって、肺が代償して」
「うん」
「全部、繋がってる」
廊下の方から足音がした。井上医師が戻ってきた。採血結果を確認して、輸液の指示を修正する。真田がその隣で腕を組んで聞いている。
陽介は機器の前に立って、モニターを見続けた。
pH7.14。呼吸数二十一回。心拍数は落ち着いてきた。カリウムは基準内を保っている。
一つの数字が変わると、別の数字が動く。調整すると、また別のところが変わる。体の中は常に、複数のことが同時に起きている。
それを読むために、生化学がある。
配属初日に真田に言われたことを、陽介は今日また思い出していた。この仕事は化学反応を管理することだ。あのとき陽介はその言葉の重さを半分しか理解していなかった。
今は、もう少し分かった。
夕方、容態が安定してICUを出るとき、真田が廊下で陽介を呼び止めた。
「お疲れ」
「ありがとうございました」
「原田さんに話してたこと、聞こえてたぞ」
陽介は少し驚いた。
「昨日の午後」と真田は続けた。「連鎖の話。悪くなかった」
それだけだった。真田はそのままICUに戻った。
悪くなかった。
陽介はしばらく廊下に立っていた。真田の「悪くなかった」がどれほどの言葉か、二年近くでようやく分かっていた。
桜が隣に来た。
「何か言われた?」
「悪くなかった、って」
桜は少しの間、真剣な顔をした。それからゆっくりと笑った。
「やるじゃん」
陽介は何も言わなかった。でも、廊下の蛍光灯の光が、今日は少し違って見えた。
今回は糖尿病性腎症とインスリン、ケトアシドーシスまで一本で繋がる章を書きました。
この章で一番書きたかったのは、「インスリンだけが血糖を下げられる」という事実と、「なぜそうなっているか」という問いへの陽介自身の答えです。血糖を上げるホルモンが複数あるのは、体が緊急度の高い低血糖をより恐れているからだ——その考えを陽介が真田さんに問われて言葉にする場面は、この物語でいちばん「生化学が思考の道具になっている」場面として書きたかったところです。
「体は大事なものほど守りが厚い」という桜の言葉が、この章の中で個人的に一番気に入っています。酸塩基平衡も、電解質も、みんな二重三重の構造で守られていた。それに気づいた桜の一言が、この二年間の学びを静かに総括してくれました。
翌朝のICUで、昨日原田さんに話した連鎖がそのまま目の前で起きている場面は、書いていて自分でも「繋がった」と感じました。教科書の図式が、SpO₂のモニターとpH7.08という数字として目の前にある。生化学が現場にあるということを、陽介と一緒に感じてもらえたなら嬉しいです。
真田さんの「悪くなかった」が、この章の着地点です。次回(第14章「血液が語る言葉」)もよろしくお願いします。




