第36話 硝子の向こうに、私たちの春
最初の積み荷が出る朝、ヨナが荷札を掛ける手を止めた。
「親方。この枠、昨日の控えより一つ多いです」
百五十日目。共同体向けの初期ロットは、出来上がった分から分割で運んでいる。検収をまとめるのは百六十四日目だ。
数え直すと、予備材の箱が紛れていた。銀貨十二枚で買った緊急用の在庫で、今回の受注には使わないものだ。
「よく気づいたわ。そのまま棚へ戻して」
「出荷前なら、まだ直せますから」
ヨナがそう言うので、エリンは笑った。
板を止めることが、特別な勇気を要する仕事ではなくなっている。
その日、農園の雪害で世話になった協力業者へ、約束の八枚を支払った。農園からの回収は百八十日目。代金を受け取っていない分も、支払う日は来る。
帳面の欄を閉じる前に、ヨナの受注番号と、トビアスの施工確認を照合した。
仕事を増やして、店を大きくしたい気持ちはある。
けれど、札が増えるほど、自分の目だけでは届かなくなる。エリンはマルタと作ってきた規程を、四人で改めて確認した。
無理な連続勤務をしない。夜の火番は臨時の経験者も含めて交替し、昼の担当者にそのまま徹夜をさせない。危険な時は誰でも止め、止めたことを給与の不利益にしない。
「親方も、ですよ」
マルタに言われ、エリンは自分の名も署名欄へ加えた。
百五十九日目、ヨナの指導を正式な役割にした日から三十日分の技能手当二枚を、トビアスへ初めて支払った。
彼は受領印を押し、娘が描いた窓の絵を見せてくれた。四角い家の横に、やたら大きな父親が立っている。
「最近、帰るとこれを一枚ずつ渡されるんです」
「ずいぶん大きな人ね」
「娘の描いた俺は、家よりでかいらしくて」
隣でヨナが笑い、トビアスも笑った。
納期と給料以外の話が、作業台に載る。その余白も、この工房で作ったものなのだと思う。
百六十四日目、共同体の二十四枚が初期ロットとして検収された。
翌日、分割代金五十四枚を受領する。残りの十四枚と、残金五十四枚は次の検収へ続く。
エリンは家賃と常勤の給与を分け、支払準備金の外に残る自由現金を数えた。
六十三枚。
ただし、残金五十四枚と農園の応急費八枚はまだ入っていない。共同体の残りを作る直接費四十四枚も、これから必要になる。すべてを使ってよいお金ではなかった。
それでも、初めて十八枚を見つめていた夜とは違う。
何に使い、何を残すかを、四人で同じ帳面を見て考えられる。
エッダから届いた手紙には、銀樹で品質を止める権限が正式に認められたとあった。特殊注文は縮小し、規格板の仕事を続けるという。
広告の賠償は支払い済みで、現場には新しい熟練職人も入ったらしい。
エリンは返事に、最初の共同注文を納めたことを書いた。
父に会った時の胸の痛みまで、すべて消えたわけではない。けれど、その痛みだけで便箋を埋めなくてもよくなっていた。
百六十五日目の夕方、ルシアンが工房へ来た。
花びらが揃ったと、数日前にエリンから知らせてあった。休日に交わした約束を、ようやく果たせる。
引き出しから出した硝子の花を、エリンは黒い布の上へ並べた。最初の歪んだもの、花びらを薄くしすぎたもの、それから、灰青色を淡く残した小さな百合。
「最後のものを。触れてもいいですか」
「ええ。縁はもう、処理してあります」
彼は掌へ載せ、光へ向けた。
エリンは布の上へ戻された百合を、少し左へ傾けた。母が鏡の前でそうしていたことを話すと、ルシアンも同じ向きから花を見た。
銀の花より、光が通る分だけ影が淡い。母のものは戻らない。けれど、この百合は自分の手で作れた。
「これで髪留めを作っていただきたい」
「どなたに贈るものですか」
尋ねると、ルシアンは少し困った顔をした。
「あなたに。……本人へ注文するのは、おかしいでしょうか」
エリンは笑い、首を振った。
「誰が使うか、わかっている方が作りやすいです」
個人の注文として、留め具の代金と細工の日数を見積にする。工房の休日の試作と、代金を受け取る製作も分けた。
書面を渡すと、彼は金額を読み、個人の署名をした。
「値切らないのですか」
「欲しくて頼んだものですから」
その答えがあまりに真面目で、エリンは紙を持ったまま俯いた。
花の値段を決めたのに、自分まで選ばれたような気がする。
ルシアンは、署名を終えた見積を机へ置いた。
「ここからは、注文と別の話です」
エリンが顔を上げると、彼は緊張していた。
橋の夜と同じ顔だった。
「エリン。結婚しても、その名で仕事を続けてほしい。私の家へ工房を移すためでも、領主家の仕事を請けてもらうためでもなく、あなたと暮らしたい」
声が、最後だけ少し掠れた。
「私と、婚約していただけますか」
エリンはすぐ頷きたくなり、先に息を整えた。
手元の見積の署名では、この返事にならない。誰かの都合で決まった婚約とは違うと、自分の声で確かめたかった。
「はい。ルシアンと暮らしたいです。霜灯も、私の仕事も、そのままで」
彼が手を差し出す。今度は手袋を外して、エリンはその手を取った。
指先は、窯の熱が抜けて少し冷えている。彼の掌も、外を歩いてきたせいで冷たかった。
重ねているうちに、どちらからともなく温まっていった。
「抱きしめても?」
頷くと、彼の腕が背へ回った。
高価な外套に作業着の匂いが移ると思った。だが、いま言うことではない。
エリンは彼の背に手を置いた。
自分で選んでここにいることが、こんなにも静かなことなのだと初めて知った。
工房を閉めてから、二人は農園の温室を訪れた。
硝子の向こうで、次に配る苗が葉を広げている。十二平方メートルほどの、小さな試験棟だ。村じゅうを救ったわけでも、冬をなくしたわけでもない。
けれど、今年の仕事はこの小ささから始まった。
点検のため中へ入ったエリンに、外からルシアンが声をかけた。
「髪留めができたら、休日に着けてきてくれますか」
エリンは苗床の脇で振り返った。
開けた換気窓から、彼の声が入ってくる。
「ええ。ルシアンも、また音を聞きに来てください」
「あれも、上達したでしょう」
「先生が合格にするまでは、練習です」
彼が笑う。
エリンも作業手袋を外さず、硝子越しにその笑顔を見た。
看板には、今日も「霜灯硝子工房/代表エリン・ヴァイス」とある。
明日には次の見積の相談が来る。窯の当番も、四人で決めてある。
ルシアンが、もう一つ細工の相談をしたそうな顔をしたので、エリンは先に笑った。
「次の注文は、正式な見積からお願いします」




