1−2.ここではない世界/現実
1−2.ここではない世界/現実
雨の中を走りながら、菊川美幸が思い返していた。
(あの日も雨だった)
酔った父に蹴られ、追い出された時も。母に殴られ、民生委員から隠れた時も。
ここではない世界を求め、ひとり雨に濡れていた。
歩道橋に座る少女を見兼ねた男性が車を停め、傘とタオルを渡そうとしたが、美幸は走り去った。
他者からの無条件の救済など信じられなかった。
(助けて)
深夜、横断歩道を斜めに渡る。
遠くに、黄色の点滅信号。
(助けて)
それでいて、誰かに縋るしかない弱い自分がそこにいた。
降りしきる雨の中、誰もいない道の上で、美幸が泣いていた。
《――助けて》
「え?」
《助けてください――》
その声は、確かに届いた。
夢にしては、あまりにもはっきりと。
*
――「忠告したのに」――
――「前もって説明したでしょう?」――
――「亡くなった友人の言葉を思い出します」――
美幸の頭の中で、二人の会話が木霊した。
目覚めた美幸が、ハアハアと肩で息をした。
「大丈夫ですか?」
メイドのポーラ・レヴィ=チヴィタが、抱え起こした。汗がひどい。
体調を記録していたクラリス・コリオリが顔を上げた。異常はないらしい。
「夢を……恐い夢を見ていました」
「それは良かったです」
レヴィが無表情に答えた。
「良かった?」
ブラウスを脱がされながら、美幸が答えた。
「夢だったのでしょう? 本当ではなく。では、良いではありませんか」
「ええ。……そうですね」
――そう、あの世界は本当ではなかった。――
――偽りの世界だと、わたしが願ったから。――
夢で助けを求められ、この世界にやってきたのが真実だから。
魔王討伐という求めに自ら応じたので、拉致でも略取でもない。
(香西さんも、高村さんも巻き込む予定じゃなかったのに……お母さん)
*
結果的に、高村は勇者後見人となった。異世界に来てしまった少女を助けるには他に手がなかったからだ。
(さて……)
今は美幸と並んで、座学を受けている。
(勉強なんて、大学以来だわ)
講師はアドリア・ファトゥ、三十二歳。黒髪碧眼の妖艶な女性の宮廷魔法使いだ。所属は救国総省救国部課長――つまりは、実質的な現場責任者だ。
アドリアが白墨で、黒板に簡単な図形を描いた。
(救国総省救国部。言い換えれば、国防総省国防軍か……)
「……このように、北が魔王領、東がカルノー帝国と国境を接しています。エルンスト山脈の南は未開発地で、魔物の巣窟となっています。我がダランベール王国の西――姉妹国パンルヴェ聖王国の西は、蛮族の国が点在しています。――目下の脅威は北の魔王軍ですが、東の帝国軍とも国境問題で争いが絶えません」
「帝国が魔王に組している可能性はありますか?」
高村が疑問に思ったことを質問した。
「魔王に組する――ですか? 異世界人らしい考え方ですね。人類圏でそれを言えば、魔王の手下だと自白するようなものです。すぐに石を投げられるでしょうね。救国裁判の判例は、良くて火刑。通常は斬首刑です」
アドリアが愛らしい顔で微笑んでみせた。
「(良くて火炙りなのか……異世界は非人道的)――それで、答えは?」
「ありえません。人類が魔族と手を結ぶなど、ありえないのです」
アドリアがチョークの粉を払った。レヴィが新しいチョークを用意する。
「けれど、昨日の歴史では、魔王に味方する蛮族も多いと教えられましたが?」
「それは魔法体系の違いです。私たちが女神様の恩恵を受け、魔法を発動するのに対して、蛮族を含め魔族は魔王を崇拝することで、魔術を起動しています」
魔物はその身に魔術を刻んでいるらしい。
「……魔族と手を結ぶ者は人間ではない?」
「おおよそ、その認識で合っているかと」
レヴィが口を挟んだ。糸目と同じく唇も薄いので、笑うと顔が三本線のシミュラクラ現象になった。
「(警告か……)女神様以外は見受けられませんでしたが、人類に味方する神様が他にもいるのでは? 多神教なのでしょう?」
「女神様には双子二柱の弟神様たちがおられますが、それぞれ太陽神と月神と同一化しています。神話でも登場が限られています。――ああ、それと蝕の神は悪魔崇拝の対象です」
(単一神教か……)
単一神教は、他の神を認めない唯一神教とは異なり、多神を認めつつ、そのうちの一神を最高神として崇拝する宗教だ。
「蝕の神……暦は正確なのですか?」
「はい。新王国暦は旧暦であるパンルヴェ暦より正確です」
(パンルヴェ聖王国の暦が旧暦だとすると、西が揺籃の地ですか……)
北西の荒野から、パンルヴェ川を境に、南東の肥沃な地に勢力を拡大したのだろう。
であれば、なおのこと先ほどの疑問が残る。
(どうして魔王は帝国に攻め入らない?)
疑問はあったが、再度質問しても答えてくれないだろうことは、高村も承知していた。
(課長代理の緑髪が悪役か……鬼の副長?)
味方の中にそうした悪役を一人置くと、組織がまとまる。
(午後は実戦訓練か……)
*
疾風。美幸の風魔法だ。
音速を超えた衝撃波で、古びた甲冑が引き裂かれて飛んでいく。
美麗な白亜の壁に激突した。
(またやってしまった……)
美幸がゆっくりと振り向いた。
高村が額に手を当てていた。
「まだ、抑制が足りないですね」レヴィが無表情に言った。「ふつうは、魔力の底上げから始めるんですが。自身で抑えられないとなると、リミッターを作りますか」
「リミッター?」
美幸が聞き返した。
「上限を決めて、魔力の循環を抑制させる道具です」
「すぐ作れるんですか?」
高村が確認した。
「とりあえず、わたしのお古を使うとして……あー、でもどこにやったかな。クラリス、貸してくれない?」
「うちにはないわよ? どうして自分基準なんだか……コリオリ家には、特殊者はいません」
「スペシャル?」
美幸が尋ねた。
「莫大な魔力を持つ者を特殊者と呼称しています。多くは出生時に――」
「――家を壊す者という異名です」
レヴィの解説に、クラリスが注釈した。
「それって……」
高村には思い当たる節があるようだ。
「――あ、課長の息子さんが使っていたはず」
クラリスが思い出した。
「借りてくるわ」レヴィが歩き出した。「二人には走り込みを。あなたは壁の修復を」
「了解」
「さあ、走りましょう」
高村が、美幸の肩に手を置いた。
《地の精霊よ、地の精霊》
クラリスの声が庭に響いた。
美幸にとって、汗を流し、走る今が現実だった。




