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満ちるころ  作者: 飴屋みずき
第1章 朝倉活版印刷所
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第9話 電話室

 朝倉活版印刷所では、朝から機械が動いていた。

 窓の外を流れる川は穏やかだったが、工場の中では活版機が一定のリズムを刻み続けている。その振動は床を伝い、古い建物全体へゆっくり広がっていた。壁に掛かった時計の針も、その振動に合わせてわずかに揺れている気がした。

 灯は作業台の脇でインク缶を運んでいた。見た目よりずっと重い。両手で抱えながら慎重に歩き、湊に言われた場所へ置く。腕に残った重さを振り払うように手を開いた時、人差し指の先が黒くなっていることに気づいた。いつ付いたのか分からない。慌てて布で拭いたが、余計に広がっただけだった。

「うわ」

 思わず声が出る。湊はローラーを転がしながら、「インクだろ」とだけ言った。まるで他人事。そう思いながら、灯は流し台へ向かう。備え付けの石鹸を使い、何度も指先を擦る。泡は白いのに、水だけが灰色になる。それでも黒い跡は消えず、爪の際にまで入り込んだインクは頑固に残ったままだった。

「全然落ちないんですけど」

 流し台の向こうで手を止める気配がした。やがて湊が隣へ来て、灯の手元を見る。「それじゃ無理」と言って、しゃがみ込んで流しの下から丸い缶を取り出した。蓋を開けると、中には薄いピンク色の粉が入っていた。

「何ですか?これ」

「石鹸」

「嘘だー」

「消したくないわけ?」

 容器を渡される。少しだけ手に取ると、細かな粒が指先へ馴染んだ。水を加えて擦るとざらりとした感触が広がり、言われた通りに洗い流してみる。黒かった指先は、すっかり元の色へ戻っていた。

 灯は何度も手を返して眺める。

「すごい」

 と言うと、湊は「印刷所だからな」と答えて容器を受け取った。特別なことではないらしい。けれど灯には面白く思えた。こういうものを当たり前に使う人たちがいて、こういうものが当たり前に置いてある場所なのだと思う。知らないことばかりだ、という感覚は、最初の頃より少しだけ軽くなっていた。

 その時だった。工場の奥から大きな音が響く。機械の音に埋もれないように作られたのだろう、電話のベルのけたたましい高い音は、妙に存在感がある。

 誠一が帳簿から視線を上げた。

「灯、悪いけど出てくれるか」

 灯は頷き、工場の奥へ向かった。

 客間との境に掛かった暖簾を抜けると、壁際に小さな木の扉が見える。電話室だった。子どもの頃、この扉を開けるのが好きだった。大人たちが忙しく働いている中で、そこだけ別の場所みたいだったからだ。何があるわけでもない。それでも気になって仕方なくて、勝手に入り込んでは怒られた記憶が何度もある。電話帳をめくったり、短くなった鉛筆でメモ帳へ落書きをしたり。当時はそれだけで楽しかった。

 取っ手を握る。扉が開く。キー、と木が鳴いた。懐かしい音だった。

 電話室は相変わらず狭かった。一人入ればいっぱいになる広さで、壁に取り付けられた小さな棚には電話帳やメモ帳が並び、使い込まれた鉛筆が何本か転がっている。その一番上に電話機が置かれているだけの部屋なのに、灯には昔より少し小さく見えた。子どもの頃は広く感じていたのか、それとも自分が変わったのか。どちらでも同じことかもしれない、とぼんやり思う。

 扉を閉めると、外の機械音が少し遠くなる。完全に消えるわけではないが、活版機の音は壁の向こうでくぐもり、代わりに古い木の匂いが近くなる。工場の中とは違う静けさがあり、まるで建物の中にもうひとつ小さな時間が流れているみたいだった。窓の外には空が見える。青く、高い。川は見えないが、風が動いているのは分かった。

 すぐ頭上でベルが鳴った。リリリリリ。思わず肩をすくめる。昔から思っていたが、この電話はやたらと音が大きい。機械が動いていると聞こえないからだと教わったことがあるが、それにしても大きい。灯は苦笑しながら受話器を取った。

「はい、朝倉活版印刷所です」

 電話の向こうからは女性の声が聞こえる。灯は棚の上のメモ帳を引き寄せ、鉛筆を手に取った。短く削られた鉛筆だった。誰かが長く使い続けてきた鉛筆。紙の上へ文字を書き込みながら、灯はその感触を少しだけ意識した。

 電話はほどなく終わった。受話器を置くと、ベルの余韻だけが残った。灯はその場に立ったまま、棚や電話機へ視線を巡らせた。昔と変わらないものばかりだった。誰かが残そうとしたわけではないのだろう。それでも残っている。この部屋も、電話帳も、短くなった鉛筆も、キーと鳴る扉の音も。

 灯は手元のメモ帳を閉じた。

 扉を開くと、また木が鳴く。次の瞬間、それまで遠くに聞こえていた活版機の音が一気に戻ってきた。紙の擦れる音、金属の触れ合う音、誰かが働いている音。そのどれもが朝倉活版印刷所の一日を作っている。

 誠一がこちらを見る。活字棚の前では、湊も作業の手を止めていた。灯は二人へ近付き、手元のメモを差し出す。

「依頼です」

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