第10話 名刺
入口のベルが鳴った。午後の日差しが差し込む客間へ、一人の女性が入ってくる。40歳手前くらいだろうか。昨日、電話をくれた人だった。
「こんにちは」
そう言って頭を下げる女性へ、灯も挨拶を返しながら応接机を勧めた。誠一が向かいへ腰を下ろすと、女性は膝の上の鞄からクリアファイルを取り出す。中には手描きの間取り図や改装の予定表、備品の一覧が挟まれていて、紙の端には何度も開き閉じした跡が残っていた。準備を重ねてきた人の鞄だと思った。
灯はその中の一枚へ目を留める。屋号が書かれていた。南風。女性は灯の視線に気付き、「宿の名前です」と言った。
「ハイヤ、ですか?」
灯が問うと、「ご存知なのね」と女性は微笑む。この地域に昔から伝わる民謡。そして、その踊り。“ハイヤ”は小学校と、それから中学校でも、運動会で踊ったことがある。たしか、寄港した漁師たちが風を待つ間、地元の人が歌い踊ったもの。『カフェ風待ち』の風待ちも、それか。
「歌い手なんですよ、実はね」
灯に笑いかけるその目元は、綺麗にラインが引かれて、ほんのり青色のアイシャドウをまとっている。
客室は三部屋あり、古い家を改装して宿にする予定だという。庭に残したい木のことや窓から見える景色のこと、朝食に使う器のことまで話は次々に続き、机の上へ広げられた紙だけでは収まりきらないものがその言葉の中にはあった。女性が話す時、その声には設計図や予定表には書けないものが混じっていて、灯はそれをうまく言葉にできないまま聞いていた。
誠一は話を聞きながら依頼書へ目を通していたが、やがて紙の上で指を止めた。
「肩書きは」
女性も依頼書へ目を落とす。屋号と名前の間にある欄だけが、空白のまま残っていた。
「それが決まらなくて」
宿の準備は進み、屋号も決まっていたが、肩書きだけはまだ書かれていなかった。灯は依頼書と女性の顔を見比べながら、「まだ変わるかもしれないじゃないですか」と言った。
女性が顔を上げる。
「変わる?」
「宿もですけど、肩書きも」
灯は空白の欄を指差した。「始めてみたら思っていたのと違うかもしれないし、何もかも決まってからでもいいんじゃないかなって」
女性は依頼書へ目を戻し、しばらく空白の欄を見つめていた。
誰も何も言わない時間が流れた。
灯は自分が正しいことを言ったと思っていた。失敗しないための言葉だった。慎重にいけばいい。焦らなくていい。そういう意味だった。
けれど女性はなかなか口を開かなかった。暖簾の向こうから活字の触れ合う音が聞こえる。誠一も何も言わない。灯は自分の言葉が宙に浮いているような気がして、少しだけ視線を落とした。
やがて女性が顔を上げた。
「でも、変わるから今なんだと思います」
灯は何も言えなかった。正しいことを言ったつもりだった。けれど女性の顔を見ていると、自分の言葉がどれだけ的外れだったか、じわじわと分かってくる。
「先に作れば逃げられませんから」
女性は依頼書の端へ指先を添えたまま続ける。
「自分で自分の背中を押したいんです」
客間には静かな時間が流れ、窓の外から聞こえてくる川の音と工場の奥で響く作業の気配だけがそこにあった。
やがて女性は窓の方へ目を向ける。
「昔、泊まった宿があって」
豪華な宿でも有名な宿でもなかったが、今でも覚えているのだという。朝、窓を開けた時の空気や廊下を歩く足音、帰る時に掛けてもらった言葉のことを、女性はひとつひとつ思い出すように話していた。
「またここに帰ってきたいと思った」
そう言って微かに笑う。
「だから私も、そんな場所を作りたくて」
その言葉を、誠一も湊も何も言わずに聞いていた。
女性は再び依頼書へ目を落とし、空白のまま残された欄をしばらく見つめていた。
「私……何て名乗りたいんだろう」
それきり黙り込む。女性の視線は空白の欄の上にあった。そこには何も書かれていない。けれど女性は、そこに何かを見ているようだった。
やがて女性が鉛筆を手に取るまで、誰も急かすことはなかった。鉛筆の芯が紙を擦る音が小さく響く。
書き終えた依頼書は誠一へ渡され、続いて湊の手にも渡った。二人は内容を確かめると何も言わずに頷き、依頼書を机へ戻す。灯も横から覗き込むと、さっきまで空白だった場所には、「女将」という肩書きが書かれていた。
「時間をかけた割に、普通でしょう」
女性に向けられた声に、灯は自分の表情を意識した。小さく肩をすくめる。
「その、私が泊まった宿の女将がね、とっても素敵で。あんな人になろうと思ったから」
女性は背筋を伸ばして、もう一度言った。
「女将に決めます」
*
数日後、活版機が止まった。工場の中を満たしていた振動が少しずつ遠ざかり、誠一は刷り上がった紙を手に取る。湊は版を外し、作業台の上を整えながら次の仕事の準備を始めていた。
灯も机へ近付く。そこには出来上がった名刺が並び、南風という屋号の下には名前があり、その間には依頼書へ書き込まれた肩書きが刷られていた。灯は一枚を持ち上げる。活版で押された文字へ指先を添えると、わずかな凹みが伝わってくる。依頼書へ書かれていた文字は活字になり、こうして紙の上へ残っていた。
誠一は名刺へ目を通して机へ戻し、湊も同じように受け取る。二人とも特別なことは言わなかったが、机へ戻された名刺を見ていると、それで十分な気がした。
*
午後になると、女性が再び印刷所を訪れた。前と同じ鞄を抱えた女性へ、誠一は準備していた紙包みを応接机へ置き、「どうぞ」とだけ言う。
女性は礼を言いながら包みを開き、中から現れた名刺へ目を留めたまましばらく動かなかった。やがて一枚を手に取ると、活版で押された文字へ指先を添えながら何度も角度を変えて眺め、別の一枚も取り出して見比べる。机へ並べたり重ねたりしながら確かめる様子を見ているうちに、灯は依頼書を書いていた日のことを思い出していた。肩書きだけが決まらず長い時間その空白を見つめていた場所には、今は『女将』の二文字が並んでいる。
やがて女性は名刺の束を揃え、「すごい」と呟いた。それからもう一度名刺へ目を落とすと、束の中から一枚だけ抜き出した。そして何かを決めたように微笑み、その一枚を灯へ差し出す。
「最初の一枚は」
灯が顔を上げる。
「あなたに」
思わず目を瞬く。女性はそのまま名刺を差し出していた。
「受け取ってください」
灯は両手で受け取る。名刺はまだ新しく、紙の感触と活版の凹みが指先へ伝わってきた。
女性は自分の手元に残った名刺へ目を落とし、
「あの時、待った方がいいって言ってくれたでしょう」
と言った。灯は曖昧に笑う。「あれは、ただ」と言いかけると、女性は首を横へ振る。
「私もそう思いました。でも、作ってよかったです」
そう言いながら名刺へ指先を添え、肩書きから名前へ、さらに屋号へと視線を移しながら眺めていた。
客間には静かな時間が流れ、暖簾の向こうからは活字を戻す音だけが聞こえている。
「これがあると、逃げられないので」
その言葉のあと、小さく笑う。名刺は大切そうに包みへ戻される。女性は礼を言って席を立ち、扉の前で振り返ると、「ありがとうございました」と頭を下げた。誠一が頷く。湊と灯も頭を下げた。
ベルが鳴り、扉が閉まると、客間にはいつもの時間が戻った。
灯は手の中の名刺へ目を落とす。南風という屋号の下には名前があり、その間には女将という肩書きが刷られている。最初に会った日、その場所は空白だった。何と名乗るのか分からないまま、女性は長い時間その欄を見つめていた。けれど今、その言葉は名刺の上にある。
名刺へもう一度目を落とし、肩書きと名前、その上に刷られた屋号を順に追っていくうちに、ふと足が止まる。
私の名刺は、鞄の中にある。今は、誰にも渡せない。
もらった名刺を手帳へ挟む。表紙を閉じると、紙の擦れる音が小さく鳴った。




