第11話 校歌
男性が持参した封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。角が折れていた。少し黄ばんでいる。指で端を持つと、わずかに繊維の質感が伝わってくる。特別な紙には見えなかった。それなのに、男性はその紙を、両手で、ゆっくりと置いた。紙の中の何かをこぼさないように。
依頼の話は、灯が想像していたより単純だった。閉校が決まった学校で、最後の式典の日に校歌の歌詞カードを配りたい。昔、生徒たちへ渡していたものと同じように。
話を聞きながら、灯はずっと不思議に思っていた。
「スマホで共有するのでは、だめなんですか」
口に出してから、言い方が悪かったかもしれないと思った。男性は咎めなかった。穏やかに灯の顔を見て、それからゆっくりと頷く。
「今ならその方が便利でしょうね」
否定するでもなく、そう言った。誠一は何も言わない。湊も手を止めて歌詞カードを見ていた。
男性は視線を机の上の紙へ落とす。
「孫にも言われました」
そう言って、少し笑う。写真を撮れば残るし、共有もできる。それでも、と思った時、男性がゆっくり口を開いた。
「これを渡したいんです」
男性は歌詞カードを一枚持ち上げ、指先で紙の端をそっと撫でた。掠れた文字。何度も触れた跡。薄くなったインク。その紙を見ながら、男性は言った。閉校が決まって、当時の生徒たちが集まってくれるのだと。その日、もう一度みんなで歌えたらと思っている。昔と同じものを持って。
灯は歌詞カードへ目を落とす。合唱部の顧問だったという男性が、この紙を持ち続けていた。学校が閉まっても、生徒たちがいなくなっても、それでも持っていた。なぜ捨てられなかったのか、という問いの答えは何も語られなかったが、この人の指先が紙の端へ触れるたびに、灯には何かが伝わってくるような気がした。データとして残せばいい、と思っていた自分の言葉が、やけに冷たいものに思えた。
湊が依頼書へ視線を落とす。
「部数はお決まりですか」
話は少しずつ具体的なものになっていった。
*
男性が帰ったあと、暖簾の向こうの音だけが戻った。机の上には、預かった歌詞カードが残っている。灯はそれを手に取った。紙の繊維が指先にかすかに触れる。
「校歌、覚えてる?」
不意に湊が言った。灯は顔を上げる。
「大体は」
「やるね」
「普通じゃないですか」
湊は小さく首を振った。
「鼻歌ならぎりぎり」
灯は思わず笑った。少し離れた机で依頼書を書いていた誠一が顔を上げる。二人を見て、そして何も言わずに視線を戻した。けれどその口元は少し緩んでいた。
灯はもう一度、歌詞カードへ目を落とす。古い紙だった。それなのに、なぜか捨てられずにいた紙だった。
*
昼過ぎ、帳簿へ目を落としたまま誠一が言った。
「湊。灯も。紙、選んどいてくれるか」
校歌のやつ、とそれだけ付け加えて、誠一は視線を動かさない。湊が作業台から立ち上がった。灯も頷き、その後を追った。
活字棚の前を通り、完成品棚の横を抜け、裁断機の脇を過ぎると、奥に階段があった。灯は見上げる。思っていたより急な傾斜だった。手すりへ手を掛けながら、灯は言った。
「実はここ、上るの初めてなんです」
先に足を掛けていた湊が振り返った。
「子どもの頃、怖くて。暗いし」
湊は数秒黙ってから、少しだけ口元を緩めた。
「孫なのに?」
「孫だからです」
階段が鳴る。ギシ、ギシと板が軋むたびに、脇に積まれた紙の箱や古い封筒、何が入っているのか分からない紙包みが視界の端を流れていく。途中から天井が低くなり、上から差し込む細い光だけが段を照らしていた。
上り切ると、そこは二階というより屋根裏に近い空間だった。剥き出しの梁。低い天井。小さな窓がひとつ。午後の日差しが斜めに差し込み、その光の筋の中を細かな埃がゆっくりと漂っている。下の工場から聞こえる機械の音も、ここまで来るとどこか遠かった。印刷所の中にいるのに、印刷所の外にいるような静けさがある。
湊が壁際の紐を引くと、カチという音とともに裸電球が灯った。けれど薄暗さはあまり変わらない。灯は思わず笑った。
「思ったより暗いですね」
湊が棚へ目を向けたまま答える。
「明るいと紙が焼ける」
棚の奥へ手を伸ばしながら、湊は付け加える。
「……って、社長が」
棚には紙が並んでいた。束になったもの、包装されたもの、大きなもの、小さなもの。その間に、紙以外のものも混じっている。灯は近くにあった冊子を手に取る。学校案内だった。別の棚には町内会報、記念誌、文集。少し色褪せた背表紙が並んでいる。
「こんなのも残してるんですね」
紙を探しながら湊は答えた。
「残してるというか、ただ残ってるんじゃない?」
灯は文集を開く。知らない学校だった。知らない名前、知らない子どもたち。将来の夢、好きなもの、寄せ書き。もう何十年も前の言葉が、そこに確かに残っている。書いた子どもたちは今どこにいるのだろう。この言葉を、何十年先の誰かが読むとは思っていなかったと思う。それでも言葉はここにある。灯はそっと本を閉じて、棚へ戻した。自分が残したものは、今どこにあるだろう。
湊がしゃがみ込む。下の段から紙束を引き出した。電球の光が横から当たり、頬にまつ毛の影が落ちていた。指先で紙の端を撫でるようにして確かめ、一束を取り出す。それからポケットに入れていた歌詞カードを取り出して、隣へ並べた。
灯も隣へしゃがんで覗き込む。似ていた。色も、厚みも、手触りも。
「昔のに近い」
「ほんとだ」
歌詞カードを見る。紙を見る。もう一度歌詞カードを見る。今まで文字ばかり見ていた気がした。男性が持ってきた時も、受け取った時も、校歌の言葉ばかり目で追っていた。けれど男性の指先が紙の端へ触れるたびに伝わってきたものは、歌詞ではなかった。紙そのものだったのかもしれない。この厚み、この手触り、この色。昔と同じ紙を手に持つことで、誰かの記憶が戻ってくる場所が、紙の中にあるのかもしれない。
灯は取り出した紙を指先で撫でた。少しだけざらついていた。小さな窓から差し込む光が、棚の端に置かれた古い文集の背表紙を静かに照らしていた。
*
ガランガランと入口のベルが鳴り、午後の光が客間へ差し込んだ。男性は前と同じ茶色い封筒を手に抱えていた。穏やかに頭を下げる。誠一も頷いた。
机の上へ紙包みが置かれる。男性は礼を言いながら受け取り、封を開いた。中から活版で刷られた歌詞カードを取り出す。一枚手に取り、指先で紙の表面を撫でた。それから文字を追い始めた。ゆっくりと、本当にゆっくりと。灯はその様子を眺めながら、男性が何を読んでいるのかを考えていた。文字だけではない何かを確かめているように見えた。
やがて男性の指が、ある一行の上で止まった。少し笑う。
「何かありましたか」
灯が尋ねると、男性は顔を上げた。「いえ」と言ってから歌詞カードへ目を戻し、その一行を指先でなぞる。
「ここになると、男子の声が小さくなるんです」
「え?」
「高いんだ、音が」
男性の真面目な顔を見て、灯は笑った。男性も、湊も小さく笑った。
「顧問としては困るんですけどね」
客間に穏やかな空気が流れる。男性は歌詞カードを机へ置き、隣に古い歌詞カードを並べた。新しい紙と古い紙が並んでいる。違うのは時間だけだった。
男性はしばらく二枚を見比べ、やがてぽつりと言った。
「不思議ですね」
歌詞カードへ目を落とす。
「今思い出すのは、歌じゃないんです」
灯は黙って聞いた。
「声変わりしたばかりで必死に歌っていた顔とか。本番前に緊張していた顔とか。終わったあとに騒いでいたこととか」
「そういう方ですね」
灯は古い歌詞カードへ目を向ける。折れた角。鉛筆の跡。少し薄くなった文字。屋根裏で手に取った文集のことを思い出していた。知らない誰かの夢、寄せ書き、残った言葉。書いた人たちはもうここにいないのに、言葉だけが残っている。紙の上にあるものは、文字だけではないのかもしれない。
男性は続ける。
「隣に誰がいたかとか」
「その時、手に何を持っていたかとか」
灯は机の上の歌詞カードへ視線を落とした。最初に預かった時、ただ校歌の書かれた紙だと思っていた。けれど違った。折れ目も、鉛筆の跡も、全部、誰かがそこにいた証だった。
灯はゆっくりと口を開く。
「だから」
男性が顔を上げた。
「だから紙なんですね」
しばらくの沈黙。男性は何も言わなかった。ただ、静かに微笑んだ。




