第12話 川底
灯が裏口の鍵を閉めた時、湊は自転車のスタンドを跳ね上げたところだった。特に示し合わせたわけではなかった。誠一が先に帰り、少し前に「おつかれ」と湊が裏口を出たのを灯は確認していた。
「湊さん、まだ帰ってなかったんですか」
「つかまった。あのおばちゃんに」
「あぁ」
眉を寄せる湊を見て、灯は笑った。よく出前を頼む近所のカツ丼屋のおばちゃん。湊はえらく気に入られていて、通りかかるたびにつかまっているのをよく見かけていた。灯がおばちゃんの口調を真似する。
「さすが、この街いちの男前」
「やめろ」
夕方の光が商店街のアーケードへ斜めに差し込んでいた。夏の日は長い。夕方でもまだ明るかった。人はまばらだった。肉屋の前を通る。靴屋の前を通る。湊は自転車を押しながら前を歩いている。灯はその少し後ろ。会話はなかった。
商店街の角、和菓子屋の前で灯が立ち止まった。ガラス越しに、季節の生菓子が並んでいる。その端に、見つけた。あれはきっとそうだ。あの寒天ゼリー。記憶の中の寒天ゼリーは、表面が水面のように波打っていて、上の方は青みがかっている。海の色とも少し違う。どちらかというと、空だ。海中から見上げた時の、あの空に似ていた。
湊は数歩先で立ち止まり、振り返る。
「買うの」
「どうしよう」
湊は一度、店の戸に目をやってから、中へ入った。灯は驚いて後を追う。
ショーケースの奥には、蓬色の和帽子に同じ色の作務衣を身につけたふくよかな老人が立っていた。小さい頃、誠一に連れられて入ったことがある。店主の顔なんて覚えていなかったけれど。
「いらっしゃい」
湊と灯が軽く会釈する。
「あんた誠一さんとこの」
「はい、佐伯です」
男性が湊の後ろに立つ灯を覗いた。
「こちらは?」
湊が灯を一度見下ろした後答える。
「誠一さんの孫です」
「あぁ、お孫さん」
灯はもう一度頭を下げた。
「えー、こんなに立派なお嬢さんに。こーんな小さかったのにね」
店主は両手を平行にして、ぬいぐるみくらいの大きさを示した。流石に小さい、と灯は笑った。
「寒天ゼリー?」
湊が振り返る。
「あ、はい」
当たり前のように注文する湊を見て、灯は笑った。
店主が湊に紙袋を差し出しながら言った。
「ここね、そろそろ代替わりで」
湊が顔を上げる。
「弟子が今度、印刷所にお邪魔しますんで」
湊は紙袋を受け取りながら「お待ちしてます」と頭を下げた。
店を出ると、湊は灯に紙袋を差し出した。
「ありがとうございます」
「いいえ」
店先から、欄干の下の川を見る。夕方の川は朝と違う色をしていた。水面が橙色を帯びて、ゆっくり揺れている。
湊が川を見ながら言った。
「潮、満ちてきてる」
「満ちる方が好きですか、引く方が好きですか」
灯が問うと、湊は少し考えて言った。
「引く方」
「へぇ。なんでですか」
「川底が見える」
灯は川に視線を移す。今日は満ちているから、石は見えない。水面だけが光っている。
「私は満ちてる方が好きです」
「なんで」
「うーん。……もっと知りたくなるので」
湊は黙った後、ぽつりと言った。
「川の話だよね」
「川の話です」
「独特だよな、表現が」
「そうですか?」
二人とも、それ以上は言わなかった。アーケードを抜け、道が分かれる手前で、湊が立ち止まった。
「じゃあ」
「はい、おつかれさまです」
湊は頷いて、歩き出す。灯は少しの間、その背中を見ていた。
夕方の風が吹く。川の音が聞こえる。灯も歩き出した。夕焼けの光で、寒天ゼリーは淡く光っていた。




