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満ちるころ  作者: 飴屋みずき
第1章 朝倉活版印刷所
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第13話 財産目録

 午後三時。印刷機が止まり、工場に少しだけ静かな時間が流れていた。窓の外では川が光っている。潮が満ち始めているのか、水面は昼より少し高く見えた。

 水が引けば、川底が現れる。隠れていたものが、そのまま見える。湊がああいう川を好むのは、たぶん、ごまかしのきかないものが好きだからだ。活字も、そうなのかもしれない。

 あるいは、本当に何も考えずに答えただけかもしれない。佐伯湊には、そういうところがある。

 灯は湊の横顔を見る。口元がゆるみそうになって、頬の内側を軽く噛んだ。

 誠一は湯呑みを手にしている。灯も同じ玄米茶。湊だけがカフェオレを飲んでいる。

 応接机の上には一枚の依頼書が置かれていた。灯はそれを見ながら息を吐く。

「それにしても、すごいねこれ」

 依頼書には細かな文字が並んでいる。土地。建物。預金。株式。聞いたことのある会社の名前もあった。

「金額見ただけで緊張する」

 誠一が湯呑みを置く。

「俺も金銀財宝持っとるぞ」

 真顔だった。灯は吹き出す。

「じいちゃんには、ここがある」

 言ってから気付く。誠一が目を丸くしていた。向かいの湊も同じだった。ほんの短い沈黙。気の利いたことを言おうとしたわけではなかった。ただ、そう思ったから口に出ただけだった。

 やがて誠一が笑う。「そうか」湯呑みを持ち上げる。「なら安心だな」灯も笑った。湊はただカフェオレを一口飲んで、窓の外へ目を向けた。川が光っている。三人とも、しばらく何も言わなかった。

 机の上の依頼書へ視線を落とす。今日の依頼人は地元企業の元社長だった。引退を機に、財産目録を作りたいという。来店の時を思い出す。

           *

 入口ベルが鳴った。入ってきた男性を見て、誠一が少し笑う。「久しぶりだな」

「相変わらずで」

 二人は旧知の仲らしかった。応接机へ座る。男性は鞄から分厚い封筒を取り出した。中には何枚もの書類が入っている。

「会社の資料ですか」

 男性は首を振る。

「財産目録」

 灯は瞬きをした。男性は書類を揃えながら続ける。

「子どもたちに残す一覧だな」

 穏やかな声だった。

「どこに何があるか、全部まとめておきたい」

 誠一が頷く。

「なぜうちへ」

 男性は笑った。

「活版なら、そうそう改ざんできんだろ」

 そして少しだけ窓の外を見る。川が光っている。

「最後の仕事みたいなもんだ」

 仕事を終えた人の言葉ではなく、まだ誰かのために働いている人の言葉に聞こえた。

           *

 休憩が終わり、湊が立ち上がった。

「やる?」

 灯も腰を上げる。活字棚の前。文選箱。金属の匂い。財産目録は数字も多い。普段より活字を探すのに時間がかかる。

 灯は棚を見上げながら言った。

「寂しくないですか」

 湊は顔を上げないまま答える。

「何が」

 灯は目的の活字を探す。

「改ざん防止って、なんというか」

 活字棚を見たまま、文選箱を下げた。

「信じてないみたいで」

 しばらく返事はなかった。金属の触れ合う音だけが続く。

 やがて湊が言う。

「逆じゃない?」

 灯は顔を上げた。

「信じてるから」

 湊は活字を拾い、文選箱へ入れる。小さな音が鳴る。

「困らせないように、ちゃんと残すんだろ」

 灯は何も言えなかった。手元の活字を見る。数字。漢字。記号。どれも誰かが残したものだった。そして今、誰かのために並べようとしている。誠一が帳簿を閉じる音がした。午後の光が床へ伸びている。

「灯」

 不意に湊が言った。顔を上げる。湊は灯の文選箱を見ている。「それ、たぶん違う」

 灯も視線を落とす。拾った活字が違っていた。よく似ている。けれど別の字だった。「あ」と思わず肩をすくめる。湊は口元を緩めた。

「今回の校正、二回じゃ足りないよな」

 活字棚の前に、小さな笑い声が響いた。窓の外では川が流れている。同じようで、少しだけ違う午後だった。

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