第7話 花言葉
文選箱と、目の前の無数の活字を交互に見つめる。隣の棚の前に立つ湊の文選箱には、既にたくさんの文字が並んでいた。灯はもう一度目の前の文字を見つめ、文選箱を見た。見たところで、文選箱の中が空であることには変わりない。
見かねた湊が言った。
「いろは」
灯が顔を上げる。
「見て。平仮名は、いろは順」
「あ」
「漢字は部首」
灯は目の前の活字を見る。なるほど。確かに目の前には、手辺の文字が並んでいる。
「それでも、分かんないかも」
灯が言うと、湊は灯の横に並んだ。
「漢和辞典と同じ。画数で調べるでしょ」
「あぁ、なるほど」
一文字ずつしか見ていなかったから分からなかった。しかし法則があったのだ、この文字の壁には。
「探してるの、何?」
「咲って字です。花が咲く、の」
横から湊の手が伸び、奥の棚を指差した。
「なら、そっちの棚」
灯が数歩横に歩くと、床がギシ、と音を立てた。棚を見上げる。灯の視線がゆっくりと動き、ある場所で止まった。
「あった!」
既に作業に戻っていた湊に『咲』の字を見せると、湊はわずかに口元を緩めていた。
その時だった。リリリリリ、とけたたましい音が鳴る。暖簾の向こうからだ。湊と灯もそちらを見る。誠一が暖簾の奥で電話室の扉を開け、中に入っていった。灯は文選箱を抱えたまま耳を傾けたが、受話器の向こうの声は聞こえない。やがて誠一が扉を開けて、暖簾をくぐった。
「依頼だぞ」
湊が顔を上げる。
「花の札」
誠一はそう続けた。
*
詳しい話は昼前に聞いた。花の名前と一緒に花言葉を入れた札を作りたいらしい。ただ依頼人は店まで来られない。足が悪く、長い距離を歩けないのだという。誠一は机の上のメモを見てから、
「話を聞いてきてくれ」
と言った。湊が頷く。そして少し遅れて、「灯も」と続いた。思わず顔を上げる。誠一は湯呑みに手を伸ばす。
「ついて行くだけでいい」
昼の光は少しずつ濃くなり、壁へ映る反射も形を変えていた。
依頼人の家は川から少し離れた住宅街にあった。商店街のアーケードを抜ける。朝倉活版印刷所の前を流れていた川も、ここからは見えない。代わりに庭木の緑が多かった。低い石垣。手入れされた生垣。軒先には鉢植えが並んでいる。風が吹くたび葉が揺れ、その影が門柱の上をゆっくり動いていた。湊は住所を書いた紙を見ている。その横を歩きながら、灯は周囲を見回した。当たり前だが、印刷所の匂いはしない。紙の匂いも。インクの匂いも。代わりに土の匂いがした。少し湿った草の匂いも混ざっている。
やがて湊が立ち止まる。表札と手元の紙を交互に見ると、門柱の横に付いた呼び鈴を押した。家の奥で音が鳴る。しばらくして玄関の扉が開いた。出てきたのは七、八十代くらいの女性だった。髪は短く整えられ、片手には杖を持っている。女性は二人を交互に見ると、
「朝倉さん?」
と聞く。
「朝倉印刷の佐伯です。お電話の件で」
湊の声に、女性はほっとしたように笑い、「どうぞ」と家の中へ促した。
案内されたのは南向きの居間だった。窓から入った光が床の上へ伸びている。部屋の中にもいくつかの鉢植えが並んでいた。窓際。棚の上。小さな丸机の脇。葉の形も色も違う。その中に、支柱へ蔓を絡ませた朝顔があった。女性は二人を椅子へ座らせると、「少し待っててくださいね」と台所へ向かった。湊は窓辺の植物を見ている。灯も視線を向ける。朝顔の鉢の横には古い木札が立っていて、文字は薄くなり、木も少し反っている。長い時間を過ごしてきた札だった。
やがて女性が戻ってくると、手には盆を持っていた。港の絵が描かれたマグカップから湯気が立っている。白い陶器の縁に細かな貫入が入ったカップを、女性は二人の前へ置いた。
「熱いので気を付けて」
そう言って笑う。湊は礼を言い、マグカップへ手を添えた。けれど、すぐには口を付けない。湯気は真っ直ぐ上へ伸びている。
灯はその様子を見ながら、数日前のことを思い出していた。休憩中、湊の作業台はいつも微かにコーヒーの香りがしていたから、灯は気を利かせたつもりで、空のカップに熱々のコーヒーを淹れた。しかし活字棚から戻った湊は、カップに口をつけるやいなや「あっつ」と身震いしたのだ。少なくとも灯が印刷所に来て聞いた中で、一番大きな声だった。その後、灯は湊に促され流し台に向かう。そこで伝授されたのだ。「もし、また淹れてくれるなら」コーヒーを注ぐのは、マグカップの内側の模様の少し下まで。その後、八分目になるまで冷蔵庫の牛乳を注いでほしい。印刷所での灯の仕事――お客さまの一次受付、依頼書の黒板転記、時々出る電話――に、新たな重要業務が加わった瞬間だった。
思い出すと、微かに肩が震える。笑ってはいけない時ほど笑ってしまうのが、灯の性分だった。その時。テーブルの下で、湊のつま先が灯の足の甲を蹴った。湊はマグカップを持ったまま、窓の外を見ている。灯は頬の内側を噛み締め、女性に視線を向けた。
「この札を作り直したくて」
女性はそう言って、窓辺の朝顔を見る。
「主人が好きだったんです」
葉の間から紫色の花が覗いていた。
「花言葉があってね。亡くなった主人が教えてくれたんです」
女性は朝顔から視線を離さず続けた。
「この花の花言葉は、『また明日』だって」
灯は思わずスマートフォンへ手を伸ばしていた。朝顔の花言葉。検索すれば一秒もかからない。画面が光り、指が動く。
「でも、それって——」
言いかけて、灯は止まった。
女性が笑っていた。やわらかな笑い方だった。責めているわけではない。ただ、灯の言葉の先を、もう知っているようだった。
「そう、違うの」
女性は朝顔へ視線を戻す。
「本当は違うんですよ。知ってたんです。若い頃に調べましたから」
灯はスマートフォンを握ったまま、画面を伏せた。
「違いますよ、って言ったこともあったんです」
女性の口元に小さな笑みが浮かぶ。
「そうしたら主人が、『じゃあ俺が決めた』って」
窓の外で風が鳴り、庭木の小さな葉が揺れる。午後の光が床をゆっくり移動していた。
「でも最近ね、忘れることが増えまして」
声が小さくなる。
「本当の花言葉は覚えているんです。不思議ですよね」
灯は何も言わない。スマートフォンはまだ手の中にある。
「でも、主人が言った方を、忘れてしまいそうで」
部屋の中は静かだった。時計の音だけが聞こえる。女性は窓辺の朝顔へ視線を向けたまま言う。
「だから残しておこうと思ったんです」
女性は朝顔へ手を伸ばし、花びらの表面をなぞった。
「朝顔が咲くでしょう。そうするとね」
「主人に会える気がするんです。寂しいですけど」
女性は目を閉じて続けた。
「また明日が来ますから」
朝顔は窓辺で揺れている。
灯は手の中のスマートフォンを、静かにポケットへ戻した。
正しい花言葉は、画面の中に残ったままだった。
*
翌朝、朝倉活版印刷所にはいつも通りの時間が流れていた。窓の外では川が光っている。風が吹くたび水面の反射が揺れ、その明るさが壁をゆっくり移動していた。店の中には紙の匂いがある。活字棚の前を通ると、金属特有の冷たい匂いも混ざった。
灯は黒板を見る。新しい文字が書かれていた。
朝顔札 一枚
白いチョークの文字だった。灯はその文字を見る。一枚。依頼内容より先に枚数が目へ入るのは、まだ数字で見ているからかもしれないと、灯はふと思った。
誠一は机の上で伝票を整理している。湊は活字棚の前にいる。
「一枚だよね」
気付けば口にしていた。誠一が顔を上げる。
「一枚だな」
それだけだった。灯は黒板を見る。活版印刷には手間がかかる。活字を拾い、組版をする。紙を選ぶ。試し刷りもする。それなのに一枚。
「それでも受けるの?」
誠一は頷く。湯呑みに手を伸ばしながら言った。
「受けるよ」
時計の針が動く。
「どんなに小さな依頼でも断らない。うちの理念だからな」
誠一は湯呑みを置く。湊は依頼書へ視線を落とした。
「文字は」
誠一は紙をめくる。
「朝顔。また明日か」
と言う。
店の中は静かだった。窓から入った風が紙を揺らす。灯は依頼書を見る。朝顔。また明日。たったそれだけの文字だった。けれど昨日の部屋の光や、窓辺の鉢や、薄くなった木札のことまで思い出される。
誠一は依頼書を閉じる。
「やるか」
そう言うと、湊は活字棚へ向き直った。
灯も活字棚の前へ立つ。窓から入った光は棚の縁を照らし、棚の乗った骨組みの取っ手には柔らかな艶が残っている。朝顔。また明日。文字は少ない。けれど活字は探さなければならない。湊は灯に文選箱を渡し、棚へ手を伸ばした。
灯は箱を受け取り、湊の指先を見る。この前まで何がどこにあるのかも分からなかった。けれど今は少し違う。棚を見る。文字を見る。頭の中で場所を探す。
「ま」
小さく呟くと、湊が灯を見下ろした。
「探せる?」
灯は頷く。ういのおくやま、の『ま』だ。
「あった」
活字を摘まみ上げる。湊は手を止めない。棚へ目を向けたまま、
「どれ」
と言う。灯は活字を差し出す。湊は受け取り、一瞬だけ確認して、
「合ってる」
と言った。湊の文選箱が組版台へ置かれる。小さな金属音がした。
灯はもう一度棚を見る。残りは、『た』だ。
午後の光は少しずつ傾き始めていた。窓から差し込む明るさも朝とは違う。川面の反射は長く伸び、活字棚の影をゆっくり移動させている。
灯は組版台の横へ立つ。組版台の上には活字が並んでいた。朝顔。また明日。たったそれだけの文字だった。湊は定規を当てるように指先で位置を整えている。活字同士の隙間。行の間隔。わずかなずれも見逃さない。時々顔を近付け、また少し離れる。その繰り返しだった。
言葉は短い。使う活字も少ない。それなのに組版台の上には確かに何かが載っているように見えた。
湊は最後の活字を押さえる。小さな金属音がした。それから版全体へ視線を走らせ、しばらく何も言わず、やがて湊は顔を上げた。
「見て」
灯は組版台へ近付く。やはり活字は逆さだった。けれど一枚の札として見えた。朝顔。また明日。その二つの言葉が、寄り添うように並んでいる。
*
翌週の朝、朝倉活版印刷所には印刷機の音が響いていた。店の中には紙の匂いがある。乾いたインクの匂いも混ざっていた。
灯は作業台の上を見る。そこには完成した札が置かれている。誠一は一枚を手に取り、窓から差し込む光へかざし、それから頷く。
「よし」
その一言で、花の札の作業は終わった。
午後。灯と湊は再び住宅街を歩いていた。前に来た時より日差しが強い。生垣の葉は濃くなり、風が吹くたび影が揺れている。呼び鈴を押すと、しばらくして扉が開いた。女性は前と同じように杖を持っていた。湊が名乗ると、「ああ」と笑う。居間へ通される。窓辺の朝顔は、前よりも蔓が伸びている。窓から入る光が葉脈を透かしている。
女性は椅子へ腰を下ろす。湊は封筒を差し出した。女性は両手で受け取る。封筒を開く音だけが静かな部屋へ響いた。中から取り出された札は、明るい紙に黒い文字が刷られたものだった。女性は何も言わずに指先で文字をなぞる。その動きはゆっくりだった。
女性はそれから小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
女性は立ち上がり、杖へ手を添えて窓辺の朝顔へ近付くと、日に焼け、少し反った木の札を抜いた。やがて新しい札を持ち、棚の上の新しい木札に挟んで、朝顔の鉢へ差し込む。サク、と木が土へ入る音がした。
朝顔。また明日。窓から差し込む光を受けながら、その文字は静かに立っている。
女性は朝顔を見た後、もう一度札を見て、少しだけ笑った。
「主人が見たら、きっと喜びます」
部屋の中は静かだった。時計の音だけが聞こえる。湊は小さく頭を下げる。灯も続く。
家を出る時、女性が灯に声をかけた。
「お嬢さん」
「はい」
「花は好き?」
「はい、好きです」
嘘ではなかった。朝顔の花言葉を聞いたとき、疑問を持ったくらいには。
「これ少しだけど、よかったら」
渡されたのは、朝顔の種だった。
「ありがとうございます」
門を抜ける。午後の光は少し傾き始めていた。住宅街の木々が風に揺れている。灯は一度だけ振り返る。窓辺には朝顔の鉢が見えた。新しい札は小さい。遠くからでは文字も読めない。けれど確かにそこに立っていた。窓から入る風が葉を揺らす。その隣で、白い札もかすかに揺れている。
湊は先を歩いている。灯も歩き出す。住宅街を抜ければ川がある。いつもの印刷所もある。
手の中に、朝顔の種がある。




