第6話 出帆
朝倉活版印刷所の朝は、活版機の音から始まっていた。工場の奥から響いてくる規則正しい音は床板を通って建物の中を巡り、事務机の上へ積まれた紙をかすかに震わせている。窓の外では川が流れ、朝の低い光を受けた水面の反射が壁の下をゆっくりと移動していた。
灯は作業台の横へ積まれた紙の束へ手を伸ばす。刷り上がったばかりのショップカードだ。白い紙は丁寧に揃えられ、その断面は光を受けると細く明るく見える。一番上には『カフェ風待ち』の文字が並んでいた。指先を滑らせると、文字の部分だけがわずかに沈み込んでいる。やはり文字は、紙の中へ沈んでいる。触れるたびに、確かにそこにあると思う。
工場では誠一が活版機を動かしている。湊は事務机で伝票をまとめていた。それぞれの仕事が淡々と進んでいた時、入口のベルが鳴った。暖簾が揺れ、外の空気が流れ込む。
立っていたのは高瀬だった。生成り色のシャツに帆布のトートバッグという姿は前と変わらない。
「おはようございます」
灯が声を掛ける。高瀬は穏やかに会釈を返した。
「おはようございます」
湊が席を立つ。準備していた箱を抱え、応接スペースへ運ぶ。高瀬も後に続き、向かいへ腰を下ろした。
机の上へ置かれた箱を、高瀬はすぐには開けなかった。湯呑みに手を伸ばし、一口だけ口を付ける。それから箱へ向き直り、静かに蓋を持ち上げた。中にはショップカードが整然と並んでいる。高瀬はその中から一枚だけ抜き出した。紙を持ち上げる。窓から差し込んだ光が紙の表面を横切ると、活版で押された文字に薄い陰影が浮かび上がった。
「当時の版で作りました」
湊が言う。高瀬は紙から顔を上げた。
「残してくださってたんですか」
湊が頷く。高瀬は答えを受け取ると、それ以上は何も聞かなかった。代わりにカードを裏返し、もう一度表へ戻しながら、親指で店名の文字をなぞる。活版の凹みは、指先だけが知っている。
高瀬は紙を眺めていた。それから、
「おんなじものか、最初と」
と口にする。誰へ向けた言葉でもなかった。机の上へ置かれたカードと、そこに刻まれた文字へ向けて自然に落ちた声だった。
四十年という時間が、一枚の紙の上で静かに重なっている。灯にはその重さが分からない。けれど、高瀬の指は、文字の凹みを何度もなぞっていた。
工場では活版機が変わらず動いている。その音が止まったのは少し後だった。暖簾の向こうから誠一の声が聞こえる。
「湊」
続けて、
「来てくれ」
湊は席を立ち、高瀬へ軽く頭を下げると工場の奥へ向かった。
応接スペースには灯と高瀬だけが残る。振り子時計は変わらない調子で時を刻み続けていた。
高瀬は机へ置いたカードを見ながら言った。
「灯さん、でしたね」
「はい」
「良い名前だ」
灯が頭を下げる。高瀬はその名前をもう一度口にする。
「灯か」
響きを確かめるように繰り返したあと、窓の向こうへ視線を流した。川が見える。その先に港がある。高瀬はその景色を眺め、
「……そして、湊」
と呟いた。
灯は返事に困り、視線を暖簾の先に移した。
しばらくして高瀬は箱へ手を伸ばす。中から一枚だけ取り出すと、そのまま灯へ差し出した。
「これ、もらってくれますか」
予想していなかった言葉だった。灯は受け取る。紙はまだ新しく、断裁された縁には少しだけ鋭さが残っていた。店名の文字へ指先を添える。わずかな凹みが確かにそこにある。
高瀬は微かに口元を緩めた。
「今度ぜひ」
「よかったら、湊くんも一緒に」
灯は頷いた。けれど頷きながら、湊くんも、という言葉に引っかかる。そんな話をするような間柄ではない。そう思いながら、受け取ったカードをもう一度なぞった。
高瀬も頷き、やがて席を立つ。箱を抱えたまま入口へ向かった高瀬は、扉を開く前に一度だけ店の中を振り返った。視線は暖簾の先で少し止まり、それから灯へ戻った。
「ありがとうございました」
頭を下げる。ベルが鳴り、扉が閉まる。
その余韻が消える頃には工場の奥で再び活版機が動き始め、印刷所は何事もなかったようにいつもの朝へ戻っていた。
灯はカードをポケットにしまった。折れないよう、何度も位置を整える。何年経っても消えなかったものを、初めて自分の手で持って帰る気がした。




