第5話 組版
湊が向かったのは活字棚ではなく、その手前側に並ぶ版の保管棚だった。
灯が近付いて見ると、棚は灯の肩くらいの高さで、鉄でできた骨組みに、木製の薄い引き出しが数えきれないほど収納されている。その角は丸くなっていて、すべての引き出しに紙のテープが貼られていた。会社名と、おそらく依頼内容だろう。日焼けしたテープに書かれている文字は、誠一のものにも見えるし、違うようにも見える。当時の従業員のものかも知れなかった。
湊は引き出しの前をゆっくり歩き、一角で立ち止まって引き出しを開けた。木の擦れる音がする。横から覗き込むと、中には活字が収められていた。ただし活字棚のものとは違う。一文字ずつ並んでいるのではなく、金属の枠へ収められたまま言葉の形になっている。崩れないようたこ糸で留められていた。
湊はその中の一つに軽く触れると、
「あった」
と言った。灯が隣へ立つ。読もうとして、一瞬止まる。言葉が鏡のように、逆向きになっているからだ。
湊は引き出しの奥から塊を取り出す。持ち上げると腕がわずかに下がり、金属が触れ合って小さな音を立てた。湊はそのまま作業台へ運ぶ。灯も後ろからついていく。
その版は、机の上へ置かれた。掛けられていた紐は少し色が変わっている。近くで改めて見ると、そこには、確かに『カフェ風待ち』の文字があった。電話番号、住所、営業時間。先ほどのショップカードと同じ内容だった。
ただし、これは紙ではない。すべて金属だった。窓から差し込む西日が当たるたび、活字の角は鈍く光を返していた。
灯は口を開いた。
「これ、ほんとに使えるんですか」
湊は組版へ視線を落としたまま、
「……やってみる?」
そう言った後、作業台の横に置かれた、鈍い緑色にインクの黒が染みた鉄製の機械を指した。手動の小型印刷機で、手フートというらしい。上部についた平たく丸い部品だけが、鏡のように艶を帯びていた。
湊は引き出しから、銀色のインク缶と、白い紙を取り出す。その紙は事務所で使うコピー用紙とは少し違い、厚みがある。持ち上げた時のしなり方もゆっくりだった。窓から差し込む光を受けると、表面には細かな繊維が浮かび上がる。
湊は銀色の缶の中でインクを練り、機械の平たく丸い部品に塗りつけた。何度かレバーを軽く引くたびに、インクが均等に広がる。やがて湊は、版と紙を機械に差し込み、端を揃えながら位置を合わせた。指先は最後まで止まらなかった。
位置が決まると、湊はレバーに手を掛ける。紙と版が合わさり、静かに圧が掛かると、ガチャンと音を立てた。
湊はレバーから手を離し、紙の端へ指を掛ける。ゆっくりと持ち上げると、そこには文字が現れていた。
『カフェ風待ち』
窓から差し込む光が斜めに当たると、文字の輪郭へ薄い影が生まれた。
灯は湊の手の中の紙へ指を伸ばし、そっと触れる。文字の部分だけがわずかに凹んでいた。想像していたより浅い。それでも確かにそこにある。
この文字は、紙の上へ乗っているのではない。紙の中へ沈んでいる。
指で押せば、確かにそこにある。
湊は刷り上がった紙を見て言った。
「問題なさそうだな」
そのあと、灯へ紙を一枚差し出し、頭を軽く傾けて道具を指す。
灯は湊と同じように紙を版の手前へ置く。横から伸びる湊の手が、紙の角と活字の並びを見比べながら位置を合わせていく。紙の表面を指先がかすかに擦る音だけが聞こえた。
「よし」
という湊の言葉を受けて、灯はレバーへ手を掛ける。金属の感触が手のひらへ伝わった。ゆっくり下ろし圧を掛けると、ガチャンという音とともに振動が伝わる。横で湊が頷くのを見て、手を離した。
紙の端へ指を掛け、そっと持ち上げる。湊の刷ったものより少しだけ薄い文字が、現れていた。
窓の光が紙へ当たる。傾けるたびに、影の形が変わった。
机の上には、何十年も前の版があり、その横には湊の刷った紙がある。光の角度が変わるたび、紙の中へ沈んだ文字の輪郭に生まれる影も少しずつ形を変えていた。
灯はもう一度手のひらの中の紙を見つめ、文字の凹みをなぞった。




