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満ちるころ  作者: 飴屋みずき
第1章 朝倉活版印刷所
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第4話 風待ち

入口に立っていたのは六十代後半ほどの男性だった。

 薄い生成り色のシャツに、使い込まれた帆布のトートバッグ。腕は日に焼けているが、その手はどこか繊細に見えた。白いものが混じった髪はきれいに整えられていて、背筋も伸びている。

 男性は少し身をかがめて暖簾の下から工場内を見回し、奥にいる誠一へ向かって軽く手を上げる。その動作にためらいはない。初めて来た人ではないのだろうと灯は思った。誠一も椅子から立ち上がる。

「久しぶりだな」

「そうでもないですよ。先月も顔出しました」

 男性は笑った。その笑い方にも気負いがない。長い付き合いなのだろう。その男性の後ろから、少しだけ違う匂いが流れ込んでくる。おそらく、これはコーヒーだ。紙とインクの匂いの中へ混ざると、不思議とよく分かる。

 男性は灯へ気付き、

「あれ」

 と首を傾げた。

「新しい人?」

 誠一が頷き、口の端を上げる。

「おう、俺の孫。手伝ってもらってる」

「それはそれは」

 男性は灯へ向かって軽く頭を下げた。灯も慌てて頭を下げ返す。

 その横で、湊は手についたインクを拭うように指先をこすっている。

 男性はその姿を見ると、一瞬だけ目を細めて言った。

「似てきたね」

「……何がですか」

 湊は小さく首を傾げる。

「親父さん」

 湊の指先が止まる。何も言わない湊に、灯が視線を向けようとした時、男性が言った。

「ちょっとお願いがありまして」

 湊が応接机に向けて手のひらを出す。

 午後の光は少しずつ色を変え始めていた。

 誠一が棚から湯呑みを出してきた。

 男性は椅子へ腰を下ろし、差し出された玄米茶へ礼を言う。玄米茶の湯気が、コーヒーの匂いの中へ静かに混ざった。

 その湯気の向こうで、

「店を閉めることにしたんです」

 と男性は言った。灯は思わず顔を上げる。けれど男性の表情は変わらない。

 寂しそうにも見えないし、無理に明るく振る舞っているようにも見えない。ただ、ずいぶん前から決めていたことを静かに伝えているようだった。

 誠一は小さく頷く。

「決めたのか」

 驚いている様子はない。どうやら初めて聞く話ではなさそうだ。

 男性は湯呑みに添えた手を少しだけ動かしながら続ける。

「後をやる人もいませんしね。来年には閉めようと」

 窓から風が入り、机の上の依頼書がかすかに揺れる。

「……四十年。もう十分やったと思ってます」

 そう言って男性は笑う。その笑顔にもどこか穏やかなものがあった。

「それで最後にもう一度、開店した時と同じショップカードを作りたくて」

 灯は瞬きをする。店を閉める。閉めると決めたあとで新しくカードを作る。その二つの言葉が灯の中ではうまく結び付かなかった。

 男性はトートバッグから一枚のカードを取り出し、机の上へ置く。おそらく白かったであろうその紙は、少しだけ飴色に変わっている。男性はそのカードへ目を落とし、その後ちらりと灯を見た。

「カフェ風待ちの高瀬と申します」

 灯もカードに視線を向ける。そこには、カフェ風待ちという文字が刷られていた。

「新しく作るんですね」

 灯は先ほど感じた違和感を放置できず、気づけば口にしていた。高瀬は笑う。

「ええ」

 湯呑みへ手を添えたまま頷く。

「閉めるんですけどね」

           *

 高瀬が帰ったあと、印刷所はいつもの音を取り戻していた。

 湊は机の上へ置かれた高瀬の依頼書を手に取った。

 灯はその様子を眺める。店を閉める。それなのにショップカードを作る。何のために。

 湊は依頼書を眺めていたが、やがて立ち上がる。

 事務机近くの壁には黒板が掛けられていた。依頼内容を書き込むためのものだ。白いチョークが黒板の上を滑り、カシ、カシと音を立てる。

 風待ちショップカード

 書き終えた湊はチョークを戻す。

 窓から入った風が、湊の手の中の紙の端をわずかに揺らした。

 灯は黒板を見る。風待ち。さっきから何度も聞いている名前だった。

「風待ちって、どんなお店ですか」

 灯の言葉に、湊は顔を上げない。

「さぁ。親父が行ってたらしい」

 と、それだけ言って、依頼書を事務机に戻した。そして、視線を灯に移す。

「探すか」

 灯は顔を上げる。

「何をですか?」

 湊は一度活字棚を振り返り、もう一度灯を見て答えた。

「版」

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