第3話 文字の重さ
灯の掌へ置かれた文字は、見た目から想像していたよりも重かった。
小指の爪よりも細い直方体なのに、そこには確かな質量があり、指先へ伝わる冷たさも相まって、ただの金属片とは思えない存在感がある。
灯は掌を少し傾ける。反転した文字を読むために目を細める。PCを使えば、画面を拡大すれば済む話だった。文字が小さければ大きくする。読みにくければ書体を変える。そうやって当たり前のように扱ってきたものが、今は手のひらの上で黙ったまま動かない。そこにある形のまま見るしかなかった。
湊は作業へ戻っている。
灯は手のひらに一つの活字を残したまま、無数の文字が並ぶ棚にもう一度体を向け、歩み寄る。
活字棚の前の床が鳴る。何人もの人が歩き、活字を運び、紙を運び、その重みを受け止めてきたのだと思う。ここに来るまでの通路より、活字棚の前はよく鳴った。
灯はその音に気を取られたわけではなかった。ただ、ほんのわずかに意識が逸れた。
その瞬間だった。手のひらの中で活字が動く。指先へ伝わる重みがふっと消える。あ、と思った時にはもう遅かった。活字は指の間を滑り落ちる。落ちていく活字の、反転した文字。それを読みとれてしまうほど、灯にはゆっくりと映った。
活字は床板へ当たり、コツ、と音を立てた。大きな音ではない。けれど静かな店の中では十分だった。扇風機の音も、川の音も、遠くで鳴く鳥の声も。その瞬間だけ少し遠ざかったような気がした。
灯は慌ててしゃがみ込む。活字はすぐ近くに落ちていた。拾おうとして手を伸ばす。その時、別の手が先に動く。
湊だった。
湊は何も言わずに活字を拾い上げ、そのまま窓際へ移動する。午後の光の中で活字をつまみ、角を見る。向きを変える。面を見る。向きを変え、もう一度見る。灯はしゃがんだまま、その様子を見ていた。やがて湊は小さく息を吐く。そして、
「欠けてない」
と言った。
灯はそこでようやく息をついた。けれど湊は活字を組版台へ戻しながら、もう一言だけ続けた。
「触る時は台の近くで。それか、文選箱」
声は大きくなかった。叱るような言い方でもない。ただルールを伝えるような口調だった。それなのに、灯は何も言えなかった。
謝ろうとして、やめる。言葉が見つからない。
組版台へ置かれた活字が、チ、と小さな音を立てる。
店の中には変わらず紙とインクの匂いが漂っている。それなのに、自分だけがほんの少し場違いなことをしてしまったような気がして、灯はしゃがんだまま床板の傷へ目を落とした。その傷の上を、何十年ものあいだ誰かが歩いてきたのだろう。
作業に戻った湊の横顔を見ながら、灯はゆっくり立ち上がった。
*
活字を落としたあとも、朝倉活版印刷所の午後は静かに続いていた。
ここに着いた時よりも少し傾いた光の反射が、風が変わるたびに壁の上で形を変えていた。
灯が事務机に戻ると、机の上の湯呑みには、中身が足されていた。誠一だろう。窓辺の机に視線を向けると、誠一は紙の梱包をしているようだった。
湯呑みを持ち上げる。掌へじんわりと温かさが伝わり、玄米茶の香りが鼻を抜ける。湯呑みを両手で包みながら、灯は店の奥を見た。湊は変わらず作業を続けている。チャ。チ。灯はその音を聞きながら、少し前のことを思い出していた。床へ落ちた活字。しゃがみ込んだ湊。窓際へ持っていき、何度も光にかざしていた指先。欠けていないことを確かめるまでの長い時間。怒られたわけでも、責められたわけでもない。けれど、胸の奥に小さな引っ掛かりが残っていた。
灯は湯呑みを置いた。このまま黙っている方が落ち着かなかった。
灯が作業台の前に着いても、湊は顔を上げない。湊の手元を見てから、灯は口を開いた。
「さっきはすみません」
湊が顔を上げ、微かに首を傾げる。
「活字、落としてしまって」
「あぁ」
そのことか、と湊は視線を手元に戻す。灯は続けた。
「データじゃ駄目なんですかね」
活字の音が止まる。湊の表情は変わらない。質問の意味を考えているようだった。
「文章ならパソコンで作れますし、キーボードひとつ押せば、文字が出ますよね」
言いながら、自分でも当たり前のことを言っている気がした。
画面の中で作れば不自由しない。紙でほしいなら、それをプリンターから出せばいい。
それなのに、なぜこの活版印刷所は今も必要とされていて、なぜこの人は、わざわざ活字を並べるんだろう。
湊はしばらく黙った後、口を開いた。
「作れるな」
湊は組版台へ視線を落とし、ピンセットで活字を一つ摘まみ上げる。その活字を見ながら、
「けど」
と呟き、活字を組版台へ戻した。
チ、と小さな音が響く。灯は組版台の向こうにいる湊を見る。けれど湊は顔を上げない。……え。終わり?灯が次の言葉を待てず、もう一度口を開こうとした、その時だった。
ガランガラン――
入口のベルが鳴る。ドアから吹き込んだ風が、暖簾を揺らし、店の中へ新しい空気を運んできた。
湊が顔を上げ、暖簾の方を見る。それから灯を見る。湊は何も言わないまま歩き出し、暖簾をくぐった。灯も慌ててその後を追う。




