第2話 紙とインクの匂い
男は佐伯湊といった。歳は二十九。灯より三つ上だった。湊が活字棚の奥へ姿を消したあとも、灯はしばらくその方向を見ていた。
もっとも、灯が思うほど長い時間ではなかっただろう。誠一が湯呑みを差し出してきたことで、意識はすぐにそちらへ向いた。
掌に収まった湯呑みはまだ温かい。立ち上る湯気はわずかだったが、玄米茶の香ばしい匂いはしっかりと残っていた。
口をつける。少しだけぬるい。けれど不思議と、その温度が今の自分にはちょうど良い気がした。
東京で暮らしていた頃、コンビニのコーヒーを片手に移動することはあっても、こうして座ってお茶を飲む時間はほとんどなかった気がする。気づけば何かをしながら飲んでいた。メールを返しながら。資料を見ながら。画面を眺めながら。飲み終わったことにさえ、気づかないまま。
窓の外へ目を向ける。川が見えた。子どもの頃から変わらない景色だった。潮の満ち引きがあるその川は、時間帯によって流れ方が変わる。川面の反射が窓枠を越え、白い壁へ淡い影を落としている。
店の奥では再び機械が動き始めている。
ガチャン、ガチャン、と規則正しい音が建物の奥から響いてくる。子どもの頃は少し怖かった。機械に手を挟んだらどうなるのだろうと、本気で考えていた記憶がある。けれど今、その大きな音は、灯の中のざわつきを覆うように響いてくる。
ふと、壁の時計が目に入る。
外側が生成り色の鉄板に覆われた時計だった。文字盤は少し黄ばみ、鉄板の縁には細かな傷が残っている。けれど秒針は休むことなく動き続けていた。
窓の外から風が吹き込み、テーブルの上の紙が小さく揺れる。その風は、少し湿り気を含んでいた。潮の気配。そして、その奥にある紙とインクの匂い。それらが混ざり合い、この場所だけの空気を作っているように思えた。
灯は湯呑みを両手で包みながら、もう一度店内を見回した。入口近くの応接スペース。古いソファ。窓辺の時計。祖父の机。奥の作業台。子どもの頃には広く感じていた空間は、今見ると決して大きくはなかった。それでも不思議と窮屈には思えない。
視線を巡らせるたび、忘れていた記憶がどこかから浮かび上がってくるようだった。応接スペースの隅には、小さな傷が残っている。たしか小学生の頃、自分が台車で遊んでいてぶつけたものだ。窓際の棚も変わっていない。背伸びをして覗き込んだことを思い出す。
その時だった。店の奥で動いていた活版機の音が止まる。ガッチャン、と最後の音だけが残り、それまで機械の向こう側に押し込められていた静けさがゆっくりと戻ってくる。
しばらくして足音が聞こえた。ギシ。もう一歩、ギシ。
音は奥の壁に並んだ棚の前の、通路から近づいてくる。灯はそちらへ視線を向けた。先ほどから目には入っていたはずだった。木の枠で細かく区切られた棚が壁一面に続いている。可動式の骨組みに乗せられた棚が、何枚も、奥へ奥へ。子どもの頃は気にも留めなかった。祖父の仕事場にある大きな棚。近づくと怒られる。その程度の認識だった気がする。けれど今は違う。近づくほど、その異様さが分かる。本でもない。道具でもない。
棚を埋めているのは文字だった。無数の文字。木の枠のひとつひとつに鉛色の活字が整然と並んでいる。そのすべてが文字なのだ。応接スペースや作業場は記憶より少し小さく感じた。けれど活字棚だけは違う。こんなに大きかっただろうかと、思わず見つめてしまう。
その棚の前に湊は立っていた。湊は棚の一角へ迷いなく手を伸ばす。必要な一文字だけを選び出し、ピンセットで摘み上げる。
――チ。小さな音が鳴る。活字同士が触れ合った音だった。先ほどまで響いていた活版機の音とは正反対の、静かな音だった。湊はまた活字を拾う。チャ。そしてもう一つ。チ。
気づけば灯は、その手元ばかりを見ていた。不意に湊が顔を上げる。視線がぶつかる。灯は咄嗟に目を逸らしかけた。けれど、その前に湊が口を開く。
「見れば」
湊の声は大きくなかった。けれど活版機の音が止まったあとの静けさの中では、その短い言葉だけで十分だった。
灯はすぐには動かなかった。湯呑みの中の玄米茶はすっかりぬるくなっている。灯は最後に一口だけ飲み、湯呑みを机へ戻してから立ち上がった。
活字棚へ向かう途中、応接スペースの辺りでは気にならなかった床板の音が、活字棚の前へ近づくにつれて少しずつ大きくなる。ギシ。ギシ。長年の重みを受け止めてきた床板には無数の傷が残っていた。塗装はところどころ擦り減り、木目の色も均一ではない。それでも踏み抜けそうな不安はなく、ただ静かに軋みながら人を通している。
活字棚の前まで来ると、灯は思わず目を細めた。棚というより壁だった。文字でできた壁。無数の活字が収められているのに、どこから見ればいいのか分からない。気づけば、自分が棚を見ているのか、棚に見下ろされているのか分からなくなっていた。
その間にも、湊は作業を続けていた。棚の前へ立つ。迷わず手を伸ばす。ピンセットで活字を拾う。文選箱へ置く。その流れるようで、それでいて繊細な動作に、灯は見入ってしまう。必要な文字がどこにあるのか、湊の身体は覚えているようだった。
文選箱へ置かれた活字が小さく音を立てる。チ。金属同士が触れ合うはずなのに鋭さはなく、静かな響きだった。
窓の外では川面が光を返している。扇風機が首を振る。秒針が鳴り、活字の音が混ざる。
仕事をしていた頃、文字は画面の中にあった。打てば現れ、要らなくなれば消える。書体も大きさも自由に変えられて、何度でもやり直せた。消したものがどこへ行くのかなんて、考えたこともなかった。半年かけて書いた言葉も、差し替えられた後は、もうどこにも残っていなかった。
目の前の文字は、違う。
文字そのものが、そこにある。消せない。棚の中で、ただ黙ってそこにある。ただそれだけのことが、思っていた以上に新鮮だった。
湊は一度手を止め、作業台に腰かけた。
文選箱を置く湊の視線がわずかに動き、灯の方へ向いた。灯は反射的に背筋を伸ばす。見ていたことに気づかれたような気がした。
しかし湊は何も言わない。ただ文選箱の上から一つの活字を取り上げると、そのまま灯の方へ差し出した。
活字は窓から差し込む光を受け、縁の部分だけがかすかに銀色を帯びている。
「持ってみる?」
灯はすぐには手を出さなかった。ここへ来てから見ていた限り、湊は活字を指で触らない。ピンセットを使う。だからこそ、自分が触れていいものなのか分からなかった。けれど湊は急かさない。活字を摘まんだまま待っている。灯は小さく息を吐き、そっと手を差し出した。




