第1話 白い天井
目が覚めた時には、窓の外はすっかり明るくなっていた。
閉め切ったカーテンの隙間から差し込む朝の光が、床に置きっぱなしになっているトートバッグの持ち手を白く照らしている。昨夜のうちに片付けようと思っていたはずなのに、そのままにしてしまったらしい。
水瀬灯は布団の中で天井を見上げた。真っ白な天井だった。引っ越してきた時から何も変わっていないはずなのに、今日は妙に遠く見える。
枕元に置いたスマートフォンが短く震えた。画面が点灯し、新着メッセージを知らせる通知が浮かび上がる。
内容を確認するまでもない。会社だろう。昨日返せなかった連絡かもしれないし、今日の打ち合わせの件かもしれない。
灯は視線だけを向けたまま、手を伸ばさなかった。返事をしなければならない。出勤もしなければならない。社会人として当たり前のことだ。
分かっている。けれど身体は少しも動こうとしなかった。胸が苦しいわけではない。熱があるわけでも、どこかが痛むわけでもない。それなのに、布団から起き上がるという当たり前のことが、どうしようもなく遠かった。
スマートフォンが再び震える。その小さな音だけで肩が強張った。灯は目を閉じる。静かな部屋だった。冷蔵庫の低い駆動音が遠くで鳴っている。窓の外からは車の走る音が聞こえた。止まっているのは、自分だけ。
仕事は嫌いではなかった。むしろ好きだったのだ。学生の頃、初めて広告のコピーに心を動かされた日のことを今でも覚えている。たった一行で景色の見え方が変わることがある。たった一言で誰かの背中を押せることがある。そんな言葉の力に憧れて、灯は広告業界に入った。デザインが好きだった。文章が好きだった。誰かに届けるための仕事が好きだった。はずだった。
いつからだろう。会議で語られるものが言葉ではなく数字になったのは。一年前のことを思い出す。半年かけて書いたキャンペーンのコピーがあった。小さな会社の、小さな製品の話だった。その製品を作った人が、どんな気持ちで作ったかを灯は取材して、言葉にした。納品した時、担当者が「良い文章ですね」と言った。その言葉を、灯は信じた。
三か月後、そのコピーはA/Bテストで負けた。数字が良かった別のバージョンに差し替えられた。差し替えられたコピーは、灯が書いたものではなかった。製品のことも、作った人のことも、何も知らない言葉だったが、クリック率は上がった。そうだろうなと思った。
どんな文章が人の心を動かすかではなく、どんな文章が数字を動かすか。それが悪いわけではない。仕事なのだから当然だ。けれど気づけば、言葉を書く理由が分からなくなっていた。
引っ越しの時、テーブルよりも冷蔵庫よりも早く、最初に買ったのは本棚だった。学生の頃から大切にしているコピーライティングの本が並んでいた。何度も読み返したせいで角は丸くなり、背表紙には細かな傷がついている。けれど最後に開いたのがいつだったのか、もう思い出せなかった。
スマートフォンが三度目の振動を鳴らした。灯はゆっくりと布団を頭まで引き上げる。光が消える。薄暗くなった視界の中で、灯は小さく息を吐いた。
今日だけ休もう。そう思った。本当に、今日だけのつもりだった。
*
「少し、帰ってみたらどう?」
母からそう言われたのは、それから三週間ほど経った頃だった。
スマートフォンの通知を切った生活にも慣れ始めた頃で、灯はダイニングテーブルに肘をつきながら、コーヒーカップの中で揺れる黒い水面をぼんやりと眺めていた。母が来るというので、久しぶりにコーヒーを淹れた。それだけのことなのに、少し疲れた。
母は向かいの席へ腰を下ろしながら、鞄の中から小さな紙袋を取り出した。
「おじいちゃんから。お菓子、預かってきた」
「じいちゃんが?」
「持ってけって」
灯は紙袋を受け取る。開けると、地元のお菓子が入っている。子どもの頃、よく買ってもらったものだった。
母は何でもないことのように続けた。
「おじいちゃん、少し前に手を怪我したのよ」
「怪我?」
「大したことはないんだけどね。重い紙を運ぼうとして痛めたみたい」
灯は小さく眉をひそめた。祖父の姿を思い浮かべる。年齢のわりには元気だった。いつ会っても背筋は伸びていたし、重い荷物も平気な顔で持っていた。その祖父が、怪我。
「それで、人手が欲しいんだって」
「私が?」
「別に働けって話じゃないわよ」
母は笑う。
「ただ、家にいるよりは気分転換になるんじゃないかと思って」
灯は返事をしなかった。気分転換。その言葉が妙に遠く聞こえる。今の自分に必要なのは気分転換なのだろうか。そもそも、自分は何に疲れているのだろう。休めば治ると思っていた。一週間も眠れば元に戻ると思っていた。
けれど現実は違った。朝は来る。昼は通り過ぎて、夜も来る。それなのに身体の奥に沈んだ重さだけが動かない。何もしていないはずなのに、何かに追いつめられているような感覚だけが残っている。
コーヒーカップに手を添える。
「印刷所、久しぶりね」
母が言う。
灯は曖昧に頷いた。最後に行ったのはいつだっただろう。高校生の頃だったか。大学へ進学してからは帰省しても顔を出さなくなった。祖父は何も言わなかった。来いとも言わないし、来ないことを責めもしない。けれど帰省するたび、「いつでも開けとる」とだけ言った。
その言葉を思い出して、灯は少しだけ胸の奥が痛んだ。
「……邪魔じゃないかな」
ぽつりと漏らすと、母は目を丸くした。
「誰の?」
「じいちゃんの」
「まさか」
母は笑った。その笑い方があまりにも自然だったので、灯もつられて小さく笑う。
「むしろ喜ぶと思うわよ」
窓の外では、風に揺れた洗濯物がゆっくりと影を動かしていた。隣の建物のベランダだった。その揺れを眺めながら、灯はコーヒーカップを口元へ運ぶ。
――朝倉活版印刷所。
久しく口にしていなかった名前を、心の中でそっと繰り返してみる。
*
結局、地元に戻り朝倉活版印刷所へ顔を出したのは、それから五日後のことだった。行こうと思えば、もっと早く行けたはずだった。けれど何となく足が向かなかった。久しぶりだからかもしれない。祖父に会うのが気恥ずかしかったのかもしれない。
あるいは、自分でも理由の分からない何かを恐れていたのかもしれなかった。
昼すぎのバスを降りると、少し湿った風が頬を撫でた。
海が近いからだろうか。東京で暮らしていた頃とは空気の匂いが違う気がする。バス停前の景色は記憶より少しだけ小さかった。子どもの頃は広く見えた歩道も、立派に見えた建物も、今見るとどこか控えめに思う。
――潮風。港町。小さなバス停
商店街のアーケードに入る。割れたタイルの縁にローファーの底が当たって、カタン、と硬い音が跳ねた。入り口近くの肉屋。クリスマスのチキンはここのだった。昔、祖父にサンダルを買ってもらった靴屋もある。角の和菓子屋も変わっていない。春はいちご大福。さすがに今の時期は無いか。夏は、なんだっけ、あの透明のやつ。
とれかかったパーマの、もはやただの癖っ毛を結びながら歩く。湿気を帯びた髪が、首にまとわりつく。見上げると、黄ばんだアーケードの天井が続いていた。
商店各々の外壁はヨーロッパ風の飾りが施されている。そしてこの外壁が、実はアーケードの中から見るためだけに作られたハリボテだと知っていても、外との空気を分けるこの古く美しい商店街が、灯は好きだった。
アーケードを抜けると、夏の日が目を差した。ここの空は青い。
そうだ、寒天ゼリーだ。まだ売ってるかな。
灯はゆっくり歩いた。急ぐ理由がなかった。むしろ少しでも遅く着こうとしている自分に気づいて、小さく苦笑する。どれだけ時間をかけても、行き先は変わらないのに。
アーケードと繋がる橋の下には、川が流れている。護岸のコンクリートはところどころ色褪せていて、川面には昼の光が細かく揺れている。
潮の満ち引きがある川だと祖父が教えてくれたのは、たしか小学生の頃だった。
橋を渡る。その先に、見慣れた建物があった。
二階建ての木造建築。新しいとは言い難い。むしろ古い。とても。けれど灯は知っている。あの建物が、見た目よりずっと丈夫なことを。祖父が何度も手を入れながら守ってきたことを。母からそう聞いたことがある。
入口の上には木製の看板。少し色褪せた文字。朝倉活版印刷所。
灯は建物の前で立ち止まった。
――昔ながら。ノスタルジック。郷愁。懐古。
新人の頃、『懐古』を使ったコピーを出して、企業の担当者に眉を寄せられたことがある。古いという字が入っているだけで、良くないものに見えるらしかった。伝えたいものと、伝わるもの。あれが最初の壁だった。古いものは、美しいのに。時間そのものを、内側に閉じ込めているから。
印刷所の扉はガラス戸だった。ガラスの向こうは見えない。昔からそうだった。外からでは中の様子がよく分からないけれど、確かに人の気配だけは感じる。灯は小さく息を吸った。そして取っ手へ手を伸ばす。手首に力を込めた、次の瞬間。
ガランガラン――
予想よりもずっと大きなベルの音が店の奥まで響き渡り、その余韻が木の梁のあたりで小さく震えているような気がした。灯は思わず肩をすくめる。そうだった。このベルは昔から大きかった。子どもの頃も、出入りするたびに驚いていた気がする。懐かしさに小さく口元が緩んだ、その時。
店の奥から、ガッチャン、と重い音が聞こえた。
続いて機械の唸りが止む。先ほどまで動いていたらしい。静かになった店内には、今度は別の音が浮かび上がってくる。どこかで扇風機が回っている。壁掛け時計の秒針が、カコ、カコと時を刻む。窓の外では、川を渡ってきた風が何かを揺らしているらしく、かすかな擦れる音が聞こえた。
長い時間をかけて棚や床板に染み込んだものが、昼の光に温められてゆっくりと立ち上っているようにも思える。
灯は引き戸を閉める。その途端、紙とインクの匂いがふわりと鼻先をかすめた。
新しい本の匂いとは違う。もっと乾いていて、もっと静かな匂いだった。
――古本を開いて、顔を近づけて、すっと鼻を……
考えて、やめた。まただ。さっきから目の前の物たちを、片端から言葉に変えようとしている。
逃げてきたのに。
店内は記憶よりも明るかった。川に面した窓から光が入り、木の床の上に細長い影を落としている。床板には無数の傷があった。何十年も人が歩き続けてきた跡。木目のところどころにインクの黒が染みているのに、不思議と汚れては見えなかった。長く使われてきた道具と同じように、この建物そのものが歳月を重ねているのだと分かる。
店の奥から足音が近づいてきた。ゆっくりとした足取りだった。けれど迷いがない。この床のどこが鳴りやすく、どこを踏めば鳴らないのかを知り尽くしている人の歩き方だった。
やがて暖簾が揺れ、一人の老人が姿を現す。白髪は以前より増えていた。頬の皺も深くなっている。けれど背筋は変わらない。灯が知っている祖父のままだった。
朝倉誠一は灯の顔を見るなり目を細めた。ほんの一瞬のことだった。けれど、それだけで十分だった。
「おう」
誠一は微かに口元を緩めて短く言うと、入口脇のスリッパを顎で示した。久しぶりだな、とも。元気だったか、とも言わない。ただ、それだけだった。
灯は靴を脱ぎながら小さく笑う。じいちゃんは昔から変わらない。子どもの頃、転んで泣いた時も。怒られて落ち込んだ時も。余計なことは何も言わなかった。ただ隣に座り、黙ってお茶を淹れてくれた。
店へ上がった瞬間、床が小さく軋む。その音が記憶を引き寄せる。夏休み。祖父の仕事を眺めていた午後。応接スペースのソファで昼寝をしたこと。紙の束を運ぶ真似をして叱られたこと。忘れていたはずの記憶が、匂いと音に呼び起こされる。
「昼飯は」
誠一が聞いた。
「食べてきたよ、コンビニの」
「そうか」
それだけ言って頷く。
視線の先には応接スペースがあった。校長室に置かれていそうな革張りのソファ。低いテーブル。その上には湯呑みが二つ並んでいる。片方からはまだ微かに湯気が立っていた。灯は何も言わなかった。誠一も何も言わない。けれど、その湯呑みが誰のために用意されたものなのかは分かる。
「じいちゃん、手。大丈夫?」
誠一が包帯を巻いた指先を軽く揺らした。
「大したことない」
その時だった。ギシ、と床が鳴った。誠一の足音ではない。もっと軽く、もっと鋭い音。灯が顔を上げる。活字棚の並ぶ通路の奥に、一人の男が立っていた。作業着の袖は肘のあたりまで捲られ、指先には黒いインクがわずかに残っている。右手には細いピンセット。左手には木箱。男はこちらを見ていた。歓迎する様子はない。かといって敵意があるわけでもない。ただ仕事の途中で見慣れない人間を見つけた時のような視線だった。数秒の沈黙のあと、男が口を開く。
「……誰」
あまりにも率直だった。灯は思わず瞬きをする。誠一が呆れたように息を吐いた。
「灯だ」
男は黙っている。誠一が口の端の片側を上げる。
「俺の孫。手伝いに来た」
男は灯を見たまま、わずかに眉を動かした。それが納得だったのかどうかは分からない。ただ、
「ああ」
とだけ言った。その短い返事を聞きながら、灯は心の中で思う。少なくとも愛想の良い人ではなさそうだ。




