第39話 綴じる
あの夜のことは、どちらも口にしなかった。翌朝、いつもの時間に裏口を開けると、湊はもう活字を拾っていた。おはようございます、と言うと、おはよう、と返ってきた。それで済んだ。済ませたのは、灯のほうだった。
版の組み直しは、数日かけて終わった。
蛍のページを、元のとおりに戻す。抜くつもりで組んでいた版を、一枚ずつ入れ直して、また通しで確かめる。手間のかかる作業だったけれど、誰もそれを厭わなかった。蛍を消した本ではなく、蛍のいる本を作る。そのほうが、ずっとよかった。
残るのは、表紙と、綴じだ。
「湊さん、二階、ついて来てください」
灯が言うと、湊が手を止めた。
「なんで俺も」
「だって、どこに何色の紙があるかなんて、覚えてないですもん」
「怖いだけだろ」
灯は、むっとして、湊の腕を引く。
やれやれ、というふうに、湊がついてくる。
灯には、まだやるべきことがあった。
階段を上がり、湊が壁際の紐を引くと、裸電球がぼんやりと棚を照らした。
灯は棚を見上げた。色は迷わなかった。言葉を書いた後、すぐに決めた。
「表紙は、藍色が良いです」
湊が灯を見る。
「藍色ね」
それだけ言って、棚の上のほうへ目を移す。藍の紙は、手の届かない段にあるようだった。湊が、脇に立てかけてあった脚立を引き寄せ、上っていく。灯はその脚立を、下から両手で押さえた。
湊が、上の段から一枚の紙を引き抜く。それを、灯のほうへ下ろした。
「これ、どう」
灯が受け取る。深い藍色だった。光を吸い込むような、夜の色。指を滑らせると、表面に、ほんのわずかな凹凸があった。
「綺麗」
思わず声が漏れた。湊が頷いて、脚立を下りてくる。
「糸は、黄色だったよな」
「はい」
藍の紙の上に、黄色い糸が走る。灯は頭の中で、それをもう何度も見ていた。
「蛍」
湊はそう言って、小さく笑った。
*
作業台で、湊が製本に取りかかる。
刷り上がった本文を、順に重ねて、端を揃える。藍色の表紙を、上と下に添える。目打ちで、等間隔に穴を開けていく。湊の手の下で、穴は上から下まで、きれいに揃っていった。
黄色い糸に蝋を引く。太い針へ通して、束の端から針を入れる。裏へ抜いて、また表へ。湊の手で、黄色い糸が藍の紙を縫っていく。
灯はその手元を隣で見ていた。灯が色を選んで、紙を決めた。あとは、湊の手が本にするだけ。
「蛍祭り、今夜ですね」
糸を見ながら、灯は言った。
「なに、行くの」
「いえ。私はここで」
湊の手元から、目を離さずに続ける。
「蛍の仮説を、証明しなきゃいけないので」
湊が、針の先を見ていた目を、灯に向けた。
「満潮でも見えるか、ってやつ?」
「はい」
「まだ言ってんのか」
湊が目を細めて笑った。
灯も笑う。緩んだ口元のまま、完成しようとしている本に目を戻す。
黄色い糸を引く、湊の手が、すぐそこにあった。活字を拾い、版を組み、紙を綴じる手。その手を、ずっと灯は見ていた。
——川が満ちたとき、蛍が舞う。それを、一緒に確かめたい人がいる。
香代にそう言った。つい口にした、何気ないはずの言葉だった。
その言葉が今、自分の気持ちを、強烈に自覚させている。
灯は、膝の上で、そっと手を握った。
この依頼を終えたら、きっと言おう。もう一度。今度は、残業なんて言って誤魔化さずに。




