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満ちるころ  作者: 飴屋みずき
第1章 朝倉活版印刷所
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40/40

第40話 帰帆

 香代の前に、一冊の本が差し出された。

 藍色の表紙。紙を綴じる黄色い糸。湊の手が、机の上を滑らせるように、それを香代の前へ置いた。

 夕方、本が仕上がったと連絡をすると、香代は、どうしても今日のうちに取りに来たいと言った。窓の外では、川が満潮に近いところまで来ている。水かさの増した川面が、暮れかけていた。

「中、確認してもらえますか」

 湊が言う。香代は頷いて、表紙へ手を添えた。

 灯と湊は、席を外した。読む時間は、香代だけのものだ。

           *

 香代が読み終えるまでに、外は暗くなり始めていた。

 窓から商店街のほうへ目をやると、アーケードの入口に、提灯の灯りが見える。風に乗って、ハイヤのお囃子が聞こえてきた。蛍祭りが始まっている。

 誠一は、先に上がっていた。灯が作業場の掃除を終え、湊が流しで手を洗っている、そのときだった。

「すみません」

 暖簾の向こうから声がかかる。香代だった。

 灯が出る。少し遅れて、湊も。

「読みました」

 香代は、本を胸に抱いていた。

「ここにお願いして、よかった。改めて、ありがとうございました」

 微笑んで、頭を下げる。その目に涙はなかった。どこか晴れ晴れとした顔だった。

「それで……えっと」

 香代が、言いづらそうに、口ごもる。

「あの、ちょっと、佐伯さんにお話があって」

「……俺にですか」

 灯と香代の目が合った。

 灯は会釈をして、暖簾をくぐった。何を言おうとしているのか、なんとなく、分かってしまった。

 心臓から上がってくる何かを必死に飲み込みながら、灯は早足で、暖簾から一番遠い、奥の活字棚へ向かう。それでも、聞こえてしまう。ここの壁は、薄いから。

「誰かが、言ってたんです」

 香代の声だった。

「川が満ちた時に、蛍が舞う様子を、一緒に確かめたい人がいる」

 灯の足が止まった。

 それは。

 それは、私の言葉だ。

「私は」

 香代の声が続く。

「佐伯さん、なんです」

 灯は立ち尽くした。これ以上、足音を立てないことだけを意識する。

「蛍祭り、ご一緒してもらえませんか」

 灯は咄嗟に両手で耳を塞いだ。目を閉じる。答えが聞こえないように。

 瞼の下の暗がりの中で、心臓の音だけを意識した。息をするのも忘れそうだった。

 しばらくして、ガランガランと扉の鳴る音がする。

 余韻が消える頃、灯は目を開けた。

 目を開けたのに、目の前は暗闇だった。電気が消えている。

 二人は行ってしまった。

 言おうと決めた言葉は、違う人の口から湊に届いた。

 活版機の止まった工場は、静まり返っていた。ハイヤのお囃子は、いつの間にか終わっている。灯は暗闇の中に一人で立っていた。

 目の前に、活字棚があった。

 どの文字がどこにあるのかは、もう分かる。ここに来た頃とは違う。あの夏と、戻ってきた一年の中で、この棚を覚えた。

 それなのに今は、どこを見ればいいのか分からなかった。

 あの人がいつもいるはずの場所に、誰もいない。

 指先に微かなインクの匂いを纏った手で、目を覆う。

 心臓から上がってくる何かを、今度は出し尽くすように深く息を吐く。その息は自分でも分かるほどに震えていた。

 その時だった。

 ギシ、と床が鳴る。ギシ、ともう一歩。誠一のものとは違う、軽く鋭い足音。

 その足音は、作業台の横の窓際で止まった。灯のすぐ左で。

 暗い印刷所の中で、湊が窓の外を見ている。

「……なんで」

 灯の口から、それだけが漏れた。

「藤本さんが、灯によろしくって」

 湊は窓の外を見たまま、そう言った。

 灯は黙った。湊が振り返る。

「灯」

 それでも灯は動けずにいた。立ち尽くす灯のもとへ、湊が近づく。その手が、灯の手を取った。

 引かれるまま、窓際に向かう。

 目の前の光景に、灯は息を呑んだ。

 川を見たまま、湊が言う。

「灯の、言ったとおりだった」

 満ちた川の上を、無数の蛍が舞っていた。黄色い光が水面へ落ちて、ちらちらと揺れている。

 その中に、灯は一隻の蛍を見た。満ちるころ、港の漁師たちが見た、一隻の蛍。満ちるころ、帰ってきた蛍。

 湊の手は、灯の手を握ったままだった。

 活字を拾う、繊細な手だった。

 版を組み、機械に触れる、インクの染みた確かな手だった。

 何度も見てきた手。その手が今、灯の手を包んでいる。

 灯は、ゆっくりと、その手を握り返した。

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