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満ちるころ  作者: 飴屋みずき
第1章 朝倉活版印刷所
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38/40

第38話 不信

 香代が来たのは、よく晴れた日の夕方だった。

 応接机に向かい合う。灯は、刷り上がったばかりの試し刷りを、一枚だけ持っていた。最後の一文。湊が活字を組み、刷ったものだった。

「最後の一文です。お待たせしてしまって、ごめんなさい」

 灯はその紙を、香代の前へ置いた。

 香代が目を落とす。

 活版の、わずかに沈んだ文字が、そこにあった。

『満ちるころ、蛍は帰る』

 香代の指が止まった。

 長いあいだ、その一行を見ている。やがて、顔を上げた。その目には戸惑いがあった。

「……蛍」

 香代の声がかすれる。

「どうして。私、あれは消してほしいと」

 香代の目が灯をとらえた。不信の眼差し。

 説明しなければ。灯が口を開いた、その時だった。

「船です」

 湊の声。香代が、目の前に座る湊を見る。湊は、試し刷りの一文を見ていた。

「蛍は、人じゃない。船でした」

 香代の唇が、わずかに開いた。

「第五昌運丸はほかより大きくて、潮が満ちないと、港を出られなかった。満潮を待って沖へ出て、また満ちるころに帰ってくる」

 湊は、一度言葉を切った。

「夜、その船が戻ると、黄色い灯りが海に反射して、それを見た港の人たちが、あの船を蛍と呼んでいたそうです」

 香代は動かなかった。

 湊は顔を上げて、香代を見た。

「蛍は船です」

 香代の目が、もう一度、試し刷りの一文へ落ちる。

 ——満ちるころ、蛍は帰る。

 香代の目が揺れている。

 灯は、何も言わずにそれを見ていた。

 湊が、静かに口を開く。

「蛍の記述、戻しますか」

 香代は涙のたまった目で、湊を見た。それから、何度も頷いた。

「……戻してください」

 掠れた声で続ける。

「父が、書いたまま」

 湊が頷く。

 灯はその様子を、何も言わずに見ていた。

 肩を震わす香代。その前で、一文を見つめる湊。

 二人は今、きっと、同じものを見ている。私が知らずに生きてきたもの。

 灯は、ポケットからハンカチを取り出した。畳んだまま、そっと香代の手元へ滑らせる。

 それから、静かに席を立った。

 暖簾をくぐる前に、一度だけ振り返った。香代が、ハンカチを目元へ当てている。その向かいで、湊は立ち上がらず、座ったままだった。

 灯は暖簾を分けて、奥へ入った。

           *

 工場では、活版機が止まっている。窓の外はいつのまにか暗くなっていた。香代の涙が引くのを待つうちに、日が暮れていたらしい。

 灯が鞄を手に取ったとき、暖簾が分けられた。香代を応接机に残して、湊が作業場へ入ってくる。

「もう暗い。送って行ってやれ」

 誠一が声をかけると、湊は手の中で、車の鍵を一度握り直し、「そのつもりです」と答えた。そのまま、軽トラのほうへ歩いていく。

 誠一が、こちらへ顔を向ける。

「灯も、待ってたらどうだ」

 送ったあと、湊は戻ってくる。それまで、待っていけばいい。誠一は、そう言いたいのだろう。

 灯は鞄の取っ手を握った。

「大丈夫。帰るよ」

 裏口の戸を開け、暗い道を歩き始める。

 二人がこのまま、どこかへ行ってしまうような気がした。戻るか分からない湊を待つより、暗闇に紛れるほうが、マシだと思った。

 後ろで、軽トラのエンジンがかかる音がした。灯は、振り返らずに歩いた。

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