第38話 不信
香代が来たのは、よく晴れた日の夕方だった。
応接机に向かい合う。灯は、刷り上がったばかりの試し刷りを、一枚だけ持っていた。最後の一文。湊が活字を組み、刷ったものだった。
「最後の一文です。お待たせしてしまって、ごめんなさい」
灯はその紙を、香代の前へ置いた。
香代が目を落とす。
活版の、わずかに沈んだ文字が、そこにあった。
『満ちるころ、蛍は帰る』
香代の指が止まった。
長いあいだ、その一行を見ている。やがて、顔を上げた。その目には戸惑いがあった。
「……蛍」
香代の声がかすれる。
「どうして。私、あれは消してほしいと」
香代の目が灯をとらえた。不信の眼差し。
説明しなければ。灯が口を開いた、その時だった。
「船です」
湊の声。香代が、目の前に座る湊を見る。湊は、試し刷りの一文を見ていた。
「蛍は、人じゃない。船でした」
香代の唇が、わずかに開いた。
「第五昌運丸はほかより大きくて、潮が満ちないと、港を出られなかった。満潮を待って沖へ出て、また満ちるころに帰ってくる」
湊は、一度言葉を切った。
「夜、その船が戻ると、黄色い灯りが海に反射して、それを見た港の人たちが、あの船を蛍と呼んでいたそうです」
香代は動かなかった。
湊は顔を上げて、香代を見た。
「蛍は船です」
香代の目が、もう一度、試し刷りの一文へ落ちる。
——満ちるころ、蛍は帰る。
香代の目が揺れている。
灯は、何も言わずにそれを見ていた。
湊が、静かに口を開く。
「蛍の記述、戻しますか」
香代は涙のたまった目で、湊を見た。それから、何度も頷いた。
「……戻してください」
掠れた声で続ける。
「父が、書いたまま」
湊が頷く。
灯はその様子を、何も言わずに見ていた。
肩を震わす香代。その前で、一文を見つめる湊。
二人は今、きっと、同じものを見ている。私が知らずに生きてきたもの。
灯は、ポケットからハンカチを取り出した。畳んだまま、そっと香代の手元へ滑らせる。
それから、静かに席を立った。
暖簾をくぐる前に、一度だけ振り返った。香代が、ハンカチを目元へ当てている。その向かいで、湊は立ち上がらず、座ったままだった。
灯は暖簾を分けて、奥へ入った。
*
工場では、活版機が止まっている。窓の外はいつのまにか暗くなっていた。香代の涙が引くのを待つうちに、日が暮れていたらしい。
灯が鞄を手に取ったとき、暖簾が分けられた。香代を応接机に残して、湊が作業場へ入ってくる。
「もう暗い。送って行ってやれ」
誠一が声をかけると、湊は手の中で、車の鍵を一度握り直し、「そのつもりです」と答えた。そのまま、軽トラのほうへ歩いていく。
誠一が、こちらへ顔を向ける。
「灯も、待ってたらどうだ」
送ったあと、湊は戻ってくる。それまで、待っていけばいい。誠一は、そう言いたいのだろう。
灯は鞄の取っ手を握った。
「大丈夫。帰るよ」
裏口の戸を開け、暗い道を歩き始める。
二人がこのまま、どこかへ行ってしまうような気がした。戻るか分からない湊を待つより、暗闇に紛れるほうが、マシだと思った。
後ろで、軽トラのエンジンがかかる音がした。灯は、振り返らずに歩いた。




