第37話 船
最後の一文は、何日経っても書けなかった。
日記に満ちていたのは、家族への愛情だった。どうして娘というのは、こんなにも可愛いのか。そう綴った香代の父の、その続きを書こうとして、灯はペンを取った。
『カヨへ』
そこまで書いて、線を引いた。父でもない自分が、父の愛を勝手に言葉にして娘へ手渡すなんて、傲慢だ。
それなら、約束を。日記の中で記されていた。次に帰るのは、蛍祭りの頃。
『必ず戻』
また、線を引く。香代の父は、戻らなかった。きっと戻りたかったはずだ。でも、果たされなかった約束をそのままの言葉で最後に据えれば、それはただ、戻らなかった人を、いつまでも待たせる一行になってしまう。
そうやって家族のことを書こうとするほど、灯の目は、どうしてもあの一行へ戻ってしまった。
蛍がいないと、どこへも行けやしない。
消そうとしているのに、どうしても、気になる。日記の主がこれほど書きつけた相手を、なかったことにして、この日記を閉じていいのか。香代にバツ印を付けられたその記録が、何を意味するのかも、分からないまま。ノートには、線を引いて消した言葉ばかりが、増えていった。
その晩、戸締まりをしていた誠一が、灯の手元を覗き込んだ。
「進まんか」
「……何を書いても、誰かが傷つく」
灯は、ノートに目を落としたまま言った。
「誰のための言葉なのか、わからなくなってる」
誠一は、しばらく黙っていた。それから、事務机に両手を置いて、ぽつりと言った。
「言葉で人を傷つけるのは、簡単だな。反対に、救うのは難しい」
灯が顔を上げる。
「それでも灯は、難しいほうを仕事に選んだ」
灯の目には、そう言って笑う誠一が映った。
「じいちゃんの誇りだ」
*
「蛍さんって、誰なんでしょうね」
つい、口に出していた。隣で、湊がカフェオレのカップを置く。
「まだ言ってんの」
仕事帰りに寄った風待ち。閉店までの残り少ない日々を惜しむように、灯と湊は、この店へ何度も足を向けた。
カウンターの中から、高瀬が顔を上げた。
「なに? 人探し?」
「はい。……ちょっと、調べ物で」
灯の口から話すのをためらっていると、横から湊が言った。
「俺の父親の船と、関係があるかもしれなくて。蛍っていう……心当たり、ないですよね」
「蛍かあ」
高瀬はグラスを拭く手を止めて、首をひねった。
その時だった。
「おうマスター、蛍、知ってんのか」
後ろのテーブル席から声がした。
灯と湊が振り返る。声の主は、日に灼けた年配の男だった。ソファにもたれかかり、コーヒーを傾けている。漁師あがりだろうか。それとも現役か。頭に手拭いを巻いている。
「いいや。親父さん、ご存知なんですか」
高瀬が問うと、男は、片方の眉を上げた。
「ご存じも何も、俺らにとっちゃ憧れの船よ」
——憧れの船。憧れの、船?灯は息を止めた。あの街の記録に映っていた、セピアの写真が脳を満たす。
「……第五昌運丸」
灯が口を開くよりも早く、そう言ったのは湊だった。男が、高瀬から湊へ視線を移す。湊はまっすぐにその人を見ていた。
「第五昌運丸の話ですか」
「……第五昌運丸」
男が、その名を確かめるように繰り返す。
「そうだ。第五昌運丸だな。懐かしいなぁ」
額に灼けた手を当てて、懐かしそうに目を細めながら男は続けた。
「他よりでかい船だから、浅いうちは港を出られんだろ。潮が満ちるのを待って、沖へ出る。それで他所の港を回った後、また満ちるころに、帰ってくる」
男が節くれだった手を、空中に掲げた。
「夜にな、その船が戻ってくると、船の黄色い灯りが、海にこう、落ちるんだ。波に揺られて、ゆらゆら、ゆらゆら」
その手を海面に見立てるように、ゆっくりと動かす。
「……蛍」
灯の口から、その言葉がこぼれた。
「そうだ」
おじさんが、深く頷く。
「あの光が蛍に見えた。だから港の連中はみんな、あの船を蛍と呼んでたわけよ」
灯は、何も言えずに座っていた。
蛍は人ではなかった。船だった。香代の父が、湊の父が命を預けた、第五昌運丸。香代の父が、日記にあれほど書きつけた蛍。手がかかる。それでもいないとどこへも行けない――その蛍は、船のことだったのだ。
満ちるのを待って出ていき、満ちるころに、帰ってくる船。
灯の中で、ばらばらだったものが、一つにつながっていく。
*
その夜、灯はなかなか眠れなかった。
布団に入って、明かりを消す。目を閉じると、瞼の裏に見たこともない景色が浮かんだ。
夜の港。満ちてくる潮。沖から戻ってくる、大きな船。その黄色い灯りが、暗い海面に落ちて、波に揺られて、ゆらゆらと散る。
蛍。
おじさんが、手をひらひらと動かしてみせた、あの光。
灯は、目を開けた。
暗い天井をしばらく見て、それから、布団をはねのけて起き上がった。
鞄からノートを取り出す。淡い黄色の表紙に、活版で刷られた灯台と港。湊が作ってくれたノート。机の明かりをつけて、開く。
最初のページからめくっていく。この土地で拾った言葉が、そこにはあった。気になった響き。依頼人の口からこぼれた一言。窓から見た川の色。短い言葉が、ページを埋めている。途中で消した跡。並べ替えた矢印。書いては、しっくりこなくて、放っておいた言葉たち。
めくる手が、ある一行で止まった。
灯は、その言葉から目を離せずにいた。
それから、ページの余白にペンが走る。
書き終えて、灯はその一行を見つめた。
短い言葉だった。けれど、これしかないと思った。
ノートを閉じる。表紙の灯台が、机の明かりの下で、淡く光って見えた。
灯はもう一度、布団に入った。今度は、すぐに眠れそうだった。
*
印刷所は、翌朝もいつも通りだった。
誠一は、窓辺の机にいる。湊は、作業台で朝の支度をしていた。
灯は、鞄からノートを取り出した。胸の前で、一度抱え直す。
「あの、ちょっと」
二人が、顔を上げた。
「藤本さんの依頼の一文、書けました」
灯はノートを開いて、机の上へ置いた。誠一が、湯呑みを置く。湊が、立ち上がって歩いてくる。
二人が、その一行を見た。
誰も、すぐには何も言わなかった。窓の外で、川の音がしている。
誠一はゆっくりと目を閉じた。それから、小さく頷く。
湊はまだノートを見ている。やがて顔を上げた。
湊が口を開く前に、その手が伸びてきた。灯の頭の上に、ぐっ、と置かれる。インクの匂いがした。
それから、湊はノートへ目を戻した。
「組んでいい?」
声を出す代わりに、灯は頷いた。




