第36話 雨宿り
家まで半分ほど歩いたところで、ノートを忘れたことに気づいた。
言葉を書きとめるための、湊に作ってもらったノート。寝る前に言葉がまとまることもある。あれがないと落ち着かない。灯は来た道を引き返して、印刷所へ戻った。
事務所には、まだ明かりがついていた。暖簾の向こうから、声が聞こえる。湊の低い声と、香代の柔らかな声。打ち合わせがまだ続いているらしかった。灯は暖簾を横目に、事務机の引き出しからノートを取り出した。
その時、窓の外で音がした。パラ、パラ、と窓を打つ音。みるみる強くなる音の正体は、雨だった。
最悪。傘持ってきてないのに。天気予報、雨って言ってたっけ。事務机の椅子に、そっと腰を下ろす。止むまで待つしかない。
しばらくして、暖簾が分けられた。湊が事務机にいる灯を見て、目を見開いた。
「……戻ってきてたの」
「あ、はい。忘れ物で」
灯がノートを見せると、湊は小さく頷いた。それから、壁にかけた軽トラの鍵を取る。
「藤本さん、送ってくる」
「はい」
湊が、また暖簾の向こうへ消える。やがて、表で軽トラのエンジンがかかった。灯は窓の外へ目をやる。雨の中を、軽トラがヘッドライトを灯して横切っていく。助手席には、もう一つの影があった。
窓から離れて事務机に戻ると、灯は鞄から日記の複写を取り出した。最後の一文を書かないといけない。香代から預かったその依頼を、灯はまだ終わらせられずにいた。日記の文字を一行ずつ目で追っていく。窓を流れる水滴の影が、ページの上にもかすかに写っていた。
どれくらいそうしていただろう。表で、軽トラの停まる音がした。ほどなく暖簾が分けられる。
「……まだいたの」
湊は雨に濡れた肩を、手で払っている。
「傘、ないので」
灯がそう言うと、湊は灯の手元を見た。広げたままの日記の複写。そして、ノート。
「あるよ。傘」
湊は、壁にかかった黒い傘を取った。
「入れば。途中まで一緒だろ」
「……すみません」
灯は、複写を鞄にしまって立ち上がった。
一本の傘の下に、二人で入る。雨が、傘を叩いている。灯はノートを濡らさないように、鞄を胸に抱えて歩いた。
商店街のアーケードに入ると、雨の音が遠くなった。湊が傘を畳む。
並んで歩きながら、湊がふと口を開いた。
「俺は、活字を組める。刷るのも綴じるのも、数によっては一人でやれる」
灯は鞄を持つ手に力を込めた。今更改めて言われなくても、そんなことは分かっている。灯は下唇を噛んだ。
「でもそれは、原稿があればの話」
湊が灯を見る。視線を感じて、灯も湊を見た。
「灯は、違うだろ」
目が合って、灯はとっさに逸らした。何か言おうとしたけれど、言葉が出てこない。足元のアーケードのタイルが、じわりと滲む。
アーケードを抜けると、雨はいつのまにか、霧のように細かくなっていた。
湊が、畳んだ傘を灯のほうへ差し出す。
「持ってけば。また降りだすかも」
「いや、湊さんが」
「大丈夫」
湊はそう言って傘を手渡し、灯とは反対の方向へ歩いていった。灯はその背中を、見えなくなるまで見ていた。
*
翌朝は、よく晴れた。
灯が印刷所につくと、湊は既に作業台に座っていた。
「これ、ありがとうございました」
「あぁ」
湊は、灯から傘を受け取って、いつもの場所に立てかける。灯はその背中に向かって、口を開きかけた。昨日のこと、それから、この前のこと。ちゃんと言わなければと思っていた。
「あの」と口に出した時、ガランガラン、とベルが鳴った。
香代だろうか。とっさに息が詰まる。けれど聞こえてきたのは、男性の明るい声だった。灯は小さく息を吐いて、応対に出た。言いかけた言葉は、また、喉の奥に戻ってしまった。
*
訪ねてきたのは、商店街の和菓子屋の若い主人だった。手には、筒状に丸めた紙を持っている。
「おー水瀬さん。おはようございます」
「おはようございます」
主人は壁の時計に目を向けて、あっ、と眉を寄せた。
「まだ営業前でしょ。すみません」
焦って頭をかく様子が可笑しくて、灯は笑った。
「大丈夫ですよ、ばっちり開けてます」
「いやかたじけない。で、今日来たのはこのことで」
渡された紙を広げると、蛍祭りのポスターだった。誠一が話していた、何年ぶりかに復活する祭り。
「よかったら、貼ってもらえませんか」
「喜んで」
灯が笑うと、主人も顔をほころばせた。
「あ、そうだ。水瀬さんがコピーつけてくれた寒天ゼリー、今年も並んでますよ」
「楽しみにしてました。近々、伺います」
灯は笑って頭を下げた。
和菓子屋の主人を見送った後、店先のガラスにポスターを貼る。商店街の提灯飾りと、蛍の絵。それを手で押さえながら、灯は、ふと思った。そういえば香代の父の日記にも、蛍祭りのことが書いてあった。
『カヨに次はいつ帰るのと泣かれた。まだ2歳のあの子にはわからないだろうから、蛍祭りのころとだけ答えた。』
蛍という言葉が、また頭の中で重なっていく。もしかして蛍って、虫のことだったりして。例えば蛍祭りで虫の蛍が売られてて、それを船で育ててたとか?……でも何のために。いやそんなわけないか。
*
その日の夕方、裏口から出たところで、灯は湊を待っていた。今日のうちにちゃんと謝る。そう決めていた。
しばらくして、湊が自転車を押して出てくる。
湊は灯を一瞥し、
「じゃ」
そう言って、ペダルに足をかけた。湊の横顔が通り過ぎようとする時、灯はとっさに、自転車の荷台を握った。
「うわ」
キッ、と言うブレーキ音とともに、湊が足を止めて振り向く。
「何」
灯は握ったままうつむいた。それから顔を上げる。
「藤本さんの依頼のこと、ごめんなさい」
言えた。ちゃんと言えた。
湊は少し黙った後、ふっと頬を緩めた。
「ごめん。……こっちも大人気なかった」
何も言えない灯に、湊が続ける。
「食べるか。寒天ゼリー」
灯は目をまるくした。
「聞こえてたんですか」
「壁、薄いから」
また、じいちゃんの受け売り。灯はようやく、自転車の荷台を離した。
湊が自転車から降りて言う。
「食べないの?」
「食べたい」
灯が被せ気味に答えると、湊は肩を揺らして笑った。
*
灯が応接机に向かい合うと、香代は膝の上で手を組んで、少し言いにくそうに切り出した。
「少し、心配していたんです。やっぱり迷惑だったんじゃないかって。最後の一文を付け足してほしいなんて」
香代は、話しながら手を組みかえる。
「ここのところ、なかなかお会いできなかったから」
灯は、その手元を見た。
「いえ。それは違います」
灯ははっきりと言った。
「お茶、淹れますね」
立ち上がって暖簾をくぐり、奥の流しへ向かう。湯を注ぐあいだ、窓から差し込む光が、急須の湯気を白く照らした。盆に湯呑みをふたつ。それから冷蔵庫を開けて、和菓子屋で買った寒天ゼリーを、ひとつ取り出して添えた。
応接机に戻って、香代の前に置く。
透き通った青のゼリーの底に、小さな金箔が沈んでいる。香代が、それを覗き込んだ。
「水底から仰ぐ、青をひとさじ」
灯が言うと、香代が顔を上げた。
「私が書かせてもらったコピーです。この近くの和菓子屋さんの、寒天ゼリー。これを見た時、子供のころ海に潜って見上げた水面と、その奥の空の青を思い出したのが、コピーの由来です」
香代はもう一度、ゼリーに目を落とす。
「正直に言うと」
灯は、膝の上で両手を握りしめて続けた。
「最後の一文には、まだ、辿り着けていなくて。でも……」
続く言葉を探して、口をつぐむ。またうまく言えない。
香代が、ふっと微笑んだ。
「佐伯さんの言っていたこと、わかった気がします。……水瀬さんのこと。迷惑なんかじゃなくて、ただ、必死になってるだけだって」
香代が姿勢を正した。
「いくらでも待てますから。よろしくお願いします」
香代が頭を下げる。灯も、それに合わせて深く頭を下げる。その後、暖簾の先へ目をやった。今日は任せる——そう言って奥へ引っ込んだ、湊の背中を思い出す。
寒天ゼリーを口に運びながら、香代の視線が入り口のほうへ動いた。昨日貼ったばかりの、蛍祭りのポスター。
「蛍祭り、この時期なんですね」
「はい。来月のあたまに」
香代は、膝の上の日記をそっと開いた。
「父の日記にもありました。『蛍祭りのころ』」
灯は頷く。
「何年もやってなかったみたいなんですけど。今年、復刻するそうで。この寒天ゼリーの和菓子屋さんが、発起人なんです」
「へえ」
香代が、日記に目を落としたまま言った。
「……行かれるんですか?」
「え?」
「いえ。どなたかと、行かれるのかなと」
灯は、湯呑みに目を落とす。立ちのぼる湯気が、ゆっくりと崩れていく。
「……今のところ、そういう人は」
灯が笑って答えると、香代が顔を上げた。灯はその視線を受けて、少し言葉を選んでから続けた。
「お祭りもいいんですけど。私、蛍の季節に確かめたいことがあるんですよ」
「確かめたいこと?」
「はい。ここの川、潮の満ち引きがあるんですけど」
灯は、窓のほうへ目を向けた。
「川が満ちた時に、蛍が舞う様子を見てみたくて」
香代が、小さく首を傾げる。蛍は水の少ないころに出るものだと、たぶん思っているのだろう。それでも、灯は川を見たまま言った。
「絶対きれいだと思うんです。飛ぶ蛍と、水面に映る光。それを一緒に確かめたい人は、います」
香代は、何も言わなかった。
灯が窓から視線を戻すと、香代は、こちらを見ていた。
その目が大きく見開かれている。
「あ、すみません。なんか急に語っちゃって」
「いえ」
香代がゆっくりと首を振る。
「……素敵ですね」
*
仕事帰りに、湊と二人で風待ちへ寄った。扉の小さなベルが、いつものように鳴る。
夕方の港が、ガラスの向こうで、淡い金色に染まっていた。店の中には、挽いたばかりの豆の匂いと、ネルで漉したコーヒーの、湯気の匂いが満ちている。何度も嗅いだはずのその匂いを、灯はなぜか今日に限って、深く吸い込んだ。
湊はいつものようにカフェオレを、そして灯もカフェオレを頼んだ。高瀬が、長年使い込んだネルを湯で温めながら、ふと、その手を止める。
「今月いっぱいで、この店、閉めることにしたんです」
灯と湊が顔を上げた。
「閉めるって……」
「ほんとはね、年が明ける前にたたむつもりだったんだけど。前、言ってたでしょ」
高瀬はゆっくりと湯を回しかけながら続けた。コーヒーが、一滴ずつ、ガラスのサーバーへ落ちていく。
「それが、ずるずると延びてしまってね。最後の最後に、なんだか名残惜しくなってしまって」
カウンターに、湯気の立つカップが、二つ置かれる。窓の外では、漁を終えた船が、夕日を背に港へ帰ってくるところだった。
「湊くんと灯ちゃんが、来てくれるようになったからかもしれない」
灯は行き場のない気持ちを、どうして良いのか分からなかった。こんな時のために、言葉があるはずなのに。
「灯ちゃんのノートに使ってくれた絵、あったでしょ」
灯は鞄からノートを取り出して、そっとカウンターに置いた。
高瀬がノートに目を向けて続ける。
「船の集まる港と、そのそばで灯る灯台。……これは、あなたたちだ」
高瀬は、湊と灯をかわるがわる見た。それから、餞別でも手渡すように、静かに言った。
「あなたたちは、この街に、よく似合う」
灯は、ノートの上で手のひらを握る。
隣で湊が言った。
「……たぶん」
一度言いよどんで、もう一度口を開く。
「これから、カフェオレ飲むたびに、ここを思い出すと思います」
灯は、見つかりかけた言葉を呑み込んだ。自分が探していたどんな言葉よりも、今の湊のひと言のほうが、ずっとよかった。代わりに小さく笑って、湯気の向こうの高瀬へ、目を戻す。
高瀬は目を細めた。何も言わずに、カップをゆっくりと拭きはじめる。窓の外で、帰ってきた船がロープを取られて、静かに港に収まった。




