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満ちるころ  作者: 飴屋みずき
第1章 朝倉活版印刷所
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35/40

第35話 コーヒー

 香代が、本の仕上がりを相談しに来ていた。応接机に日記を広げて、湊と向かい合っている。文字の大きさや、余白の取り方。一ページに何行を組むか。湊が仮で組んだ見本を示しながら、一つずつ確かめていく。

 灯は、盆に湯呑みを三つ載せて運んだ。香代の前に湯呑みを置く。そのとき、香代の手元で開かれた日記の、ある一行が目に入る。

「あ、その文」

 灯は、思わず微笑んだ。

『目に入れても痛く無いとはよく言ったもので、どうして娘というのは、こんなにも可愛いのか。』

「素敵ですね、お父さん」

 香代が、ふっと笑う。

「父のことは、正直ぼんやりとしか覚えていないんですけど」

 日記の文字を、指でそっとなぞる。

「でも、なんだか想像できる気がして。……自分で言うのは、おかしいですけど」

 灯は今度は、湊の前に湯呑みを置いた。

「あっ、でも」

 香代が、ページをめくる。

「佐伯さんのお父さんのも、あるんですよ」

 そう言って、香代は席を立った。向かい合わせの席から、湊の隣――いつも灯が腰かける場所へ、座り直す。日記を二人のあいだに開いて、湊のほうへ、少し身を寄せた。

『佐伯のところに、子が生まれるらしい。あいつ、照れて何も言わないが、あの顔は隠しきれていない』

 湊は、黙って、その文字を見ている。

「嬉しかったんでしょうね。お父さん」

 香代が言った。湊が口を開く。

「……そうなんですかね」

「そうに決まってます」

 香代の声が弾んだ。

 灯は盆を手にしたまま、その場に立っていた。三つあったはずの湯呑みは、二つ、机の上にある。残った一つを載せた盆を、そっと胸のほうへ引き寄せて、灯は、事務机のある奥へと引き返した。

 二人の声は、背中のほうで、まだ続いていた。

           *

 灯は湊の作業台の隣の窓辺に立っていた。

 窓の外を、川が流れている。潮は引いていた。水かさの減った川床に、大きな石やコンクリートの護岸が、半ば顔を出している。

 奥から、湊が戻ってきた。

「なんで座んなかったの」

 座れないでしょう。だって私の席には。灯は言葉を飲み込んで、窓のほうを向いたまま答えた。

「忙しいので」

「川見てるじゃん」

 灯が黙っていると、湊が隣に並んだ。

「立派だよね、あの人」

 灯は、湊を見た。湊は川を見ている。

「父親の望みを叶えたいとか。……そういうの、俺には分からない。命名書も、机にしまったまま」

 湊は片眉を曲げて、ほんの少し笑っている。灯の初めて見る顔だった。

 灯も、川へ目を戻した。しばらくして、口を開く。

「生きてればいいんじゃないですか」

 湊が、灯を見た。

「それだけで十分だと思います。……お父さんのことは知らないですけど」

 灯は、まだ川を見ている。

「あと、他の望みとすれば、活字を拾い間違えても怒らないでほしいとか。自転車の、合鍵を作ってほしいとか」

「それ、お前だろ」

 灯は「へへ」と肩をすくめた。

 引いていた潮が、少しずつ動きはじめているようだった。

           *

 灯が活字を拾い、湊がそれを組んでいく。香代の父の言葉が、一字ずつ、活字の列になっていった。試し刷りが、もう何枚かできている。今日は、初めてそれを香代に見せる約束だった。

 ガランガラン、とベルが鳴る。

「灯」

 湊が、奥から呼んだ。一緒に試し刷りを見せるつもりなのだ。

 後に続こうとして、足を止める。灯の頭に、この前の光景がよぎった。湊の隣――いつも自分が座る場所に、身を寄せた香代。湊だけを見る目。弾んだ声。盆を抱えて引き返した、あの景色。

「湊さんだけで、いいと思いますよ」

 湊が足を止めた。

「……なんで」

「私、要りますかね?」

 言ってしまってから、灯は口をつぐんだ。湊が黙る。それから、いつもより低い声で言った。

「それ、本気で言ってんの」

 灯は、答えられなかった。湊は、それ以上は何も言わず、試し刷りを手に、一人で暖簾をくぐっていった。

 その背中が見えなくなって、ようやく、灯は我に返る。違う。そんなことを言いたかったんじゃない。盆を置いて、慌てて後を追った。暖簾に手をかける。

 その向こうから、声が聞こえた。

「佐伯さん、我儘なのは分かってるんですけど。あの、読む間だけ、いてもらえませんか。ちょっと落ち着かなくて」

 灯は暖簾を握る指を、そっと離した。

 湊が暖簾をくぐり、こちらへ戻ってきた。灯はとっさに目を伏せて、道を空けた。湊は誠一に断りを入れているようだった。誠一が頷くのが見える。

 戻りかけた湊が、灯の前で、一度だけ足を止めた。見下ろすように灯を見る。けれど、何も言わなかった。そのまま、暖簾の向こうの、香代のもとへ戻っていった。

           *

 あの日から、香代が印刷所へ来ても、応接へ出ていくのは湊だけになった。試し刷りの確認も、文字の組み方の相談も、いつのまにか二人のあいだで進んでいく。灯は、活字棚の奥で文選箱を抱えたまま、暖簾の向こうの声を聞いている。香代の問いに、湊が答える。香代が笑う。

 その日も、昼を過ぎたころ、湊が前掛けを外しながら誠一に声をかけた。

「藤本さんところに、打ち合わせ行ってきます」

「おう。外か」

「はい。来てもらってばかりなので」

 灯は活字棚の前から、その背中を見送った。

 湊との会話がなくなったわけではなかった。湊はいつも通り寡黙で、いつも通り仕事をこなし、必要があれば灯に声をかけてきた。

 それでも、灯は自分で作った壁の向こうの静けさに、息が詰まるのを感じていた。

 その日の仕事を終えて、印刷所を出ると、灯の足は自然と風待ちへ向かっていた。

 扉を押すと、小さなベルが鳴る。コーヒーの匂いと、港の光。いつもの席に腰を下ろすと、高瀬がカウンターの向こうから、灯を見た。

「あれ、今日は一人?」

「はい」

 高瀬は、少し意外そうな顔をして、それから、いつものようにグラスを拭きはじめた。

「今日はどっち?」

「コーヒーにします」

 灯の答えに、高瀬は何も訊かなかった。ただ、少し間を置いてから、ぽつりと言った。

「カフェオレ、あるのになぁ」

 灯は、小さく笑った。

 高瀬が灯の前にカップを置きながら言う。

「本人の前で言うと怒られそうだから、あれだけど」

 灯は、顔を上げた。

「湊くんはさ、表情が増えたよね」

「表情がですか?」

「灯ちゃんが来てからだよ」

「……それはないです」

 灯は視線を落とした。

「私、湊さんのこと、何も知りませんし」

 父のことも、どうやって生きてきたのかも、私生活のことも、ほとんど聞いたことがない。湊は語らないし、灯も訊かなかった。私の知らないことも、香代には話しているのだろうか。お互いの父が出会わせた、あの人には。

 高瀬はしばらく黙っていたが、やがて、静かに言った。

「知らなくてもね。灯ちゃんの言葉は、ちゃんとあの子を支えてると思うよ」

 灯は、何も言えなかった。

 久々に飲んだコーヒーは、いつもより、少しだけ苦く感じた。

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