第35話 コーヒー
香代が、本の仕上がりを相談しに来ていた。応接机に日記を広げて、湊と向かい合っている。文字の大きさや、余白の取り方。一ページに何行を組むか。湊が仮で組んだ見本を示しながら、一つずつ確かめていく。
灯は、盆に湯呑みを三つ載せて運んだ。香代の前に湯呑みを置く。そのとき、香代の手元で開かれた日記の、ある一行が目に入る。
「あ、その文」
灯は、思わず微笑んだ。
『目に入れても痛く無いとはよく言ったもので、どうして娘というのは、こんなにも可愛いのか。』
「素敵ですね、お父さん」
香代が、ふっと笑う。
「父のことは、正直ぼんやりとしか覚えていないんですけど」
日記の文字を、指でそっとなぞる。
「でも、なんだか想像できる気がして。……自分で言うのは、おかしいですけど」
灯は今度は、湊の前に湯呑みを置いた。
「あっ、でも」
香代が、ページをめくる。
「佐伯さんのお父さんのも、あるんですよ」
そう言って、香代は席を立った。向かい合わせの席から、湊の隣――いつも灯が腰かける場所へ、座り直す。日記を二人のあいだに開いて、湊のほうへ、少し身を寄せた。
『佐伯のところに、子が生まれるらしい。あいつ、照れて何も言わないが、あの顔は隠しきれていない』
湊は、黙って、その文字を見ている。
「嬉しかったんでしょうね。お父さん」
香代が言った。湊が口を開く。
「……そうなんですかね」
「そうに決まってます」
香代の声が弾んだ。
灯は盆を手にしたまま、その場に立っていた。三つあったはずの湯呑みは、二つ、机の上にある。残った一つを載せた盆を、そっと胸のほうへ引き寄せて、灯は、事務机のある奥へと引き返した。
二人の声は、背中のほうで、まだ続いていた。
*
灯は湊の作業台の隣の窓辺に立っていた。
窓の外を、川が流れている。潮は引いていた。水かさの減った川床に、大きな石やコンクリートの護岸が、半ば顔を出している。
奥から、湊が戻ってきた。
「なんで座んなかったの」
座れないでしょう。だって私の席には。灯は言葉を飲み込んで、窓のほうを向いたまま答えた。
「忙しいので」
「川見てるじゃん」
灯が黙っていると、湊が隣に並んだ。
「立派だよね、あの人」
灯は、湊を見た。湊は川を見ている。
「父親の望みを叶えたいとか。……そういうの、俺には分からない。命名書も、机にしまったまま」
湊は片眉を曲げて、ほんの少し笑っている。灯の初めて見る顔だった。
灯も、川へ目を戻した。しばらくして、口を開く。
「生きてればいいんじゃないですか」
湊が、灯を見た。
「それだけで十分だと思います。……お父さんのことは知らないですけど」
灯は、まだ川を見ている。
「あと、他の望みとすれば、活字を拾い間違えても怒らないでほしいとか。自転車の、合鍵を作ってほしいとか」
「それ、お前だろ」
灯は「へへ」と肩をすくめた。
引いていた潮が、少しずつ動きはじめているようだった。
*
灯が活字を拾い、湊がそれを組んでいく。香代の父の言葉が、一字ずつ、活字の列になっていった。試し刷りが、もう何枚かできている。今日は、初めてそれを香代に見せる約束だった。
ガランガラン、とベルが鳴る。
「灯」
湊が、奥から呼んだ。一緒に試し刷りを見せるつもりなのだ。
後に続こうとして、足を止める。灯の頭に、この前の光景がよぎった。湊の隣――いつも自分が座る場所に、身を寄せた香代。湊だけを見る目。弾んだ声。盆を抱えて引き返した、あの景色。
「湊さんだけで、いいと思いますよ」
湊が足を止めた。
「……なんで」
「私、要りますかね?」
言ってしまってから、灯は口をつぐんだ。湊が黙る。それから、いつもより低い声で言った。
「それ、本気で言ってんの」
灯は、答えられなかった。湊は、それ以上は何も言わず、試し刷りを手に、一人で暖簾をくぐっていった。
その背中が見えなくなって、ようやく、灯は我に返る。違う。そんなことを言いたかったんじゃない。盆を置いて、慌てて後を追った。暖簾に手をかける。
その向こうから、声が聞こえた。
「佐伯さん、我儘なのは分かってるんですけど。あの、読む間だけ、いてもらえませんか。ちょっと落ち着かなくて」
灯は暖簾を握る指を、そっと離した。
湊が暖簾をくぐり、こちらへ戻ってきた。灯はとっさに目を伏せて、道を空けた。湊は誠一に断りを入れているようだった。誠一が頷くのが見える。
戻りかけた湊が、灯の前で、一度だけ足を止めた。見下ろすように灯を見る。けれど、何も言わなかった。そのまま、暖簾の向こうの、香代のもとへ戻っていった。
*
あの日から、香代が印刷所へ来ても、応接へ出ていくのは湊だけになった。試し刷りの確認も、文字の組み方の相談も、いつのまにか二人のあいだで進んでいく。灯は、活字棚の奥で文選箱を抱えたまま、暖簾の向こうの声を聞いている。香代の問いに、湊が答える。香代が笑う。
その日も、昼を過ぎたころ、湊が前掛けを外しながら誠一に声をかけた。
「藤本さんところに、打ち合わせ行ってきます」
「おう。外か」
「はい。来てもらってばかりなので」
灯は活字棚の前から、その背中を見送った。
湊との会話がなくなったわけではなかった。湊はいつも通り寡黙で、いつも通り仕事をこなし、必要があれば灯に声をかけてきた。
それでも、灯は自分で作った壁の向こうの静けさに、息が詰まるのを感じていた。
その日の仕事を終えて、印刷所を出ると、灯の足は自然と風待ちへ向かっていた。
扉を押すと、小さなベルが鳴る。コーヒーの匂いと、港の光。いつもの席に腰を下ろすと、高瀬がカウンターの向こうから、灯を見た。
「あれ、今日は一人?」
「はい」
高瀬は、少し意外そうな顔をして、それから、いつものようにグラスを拭きはじめた。
「今日はどっち?」
「コーヒーにします」
灯の答えに、高瀬は何も訊かなかった。ただ、少し間を置いてから、ぽつりと言った。
「カフェオレ、あるのになぁ」
灯は、小さく笑った。
高瀬が灯の前にカップを置きながら言う。
「本人の前で言うと怒られそうだから、あれだけど」
灯は、顔を上げた。
「湊くんはさ、表情が増えたよね」
「表情がですか?」
「灯ちゃんが来てからだよ」
「……それはないです」
灯は視線を落とした。
「私、湊さんのこと、何も知りませんし」
父のことも、どうやって生きてきたのかも、私生活のことも、ほとんど聞いたことがない。湊は語らないし、灯も訊かなかった。私の知らないことも、香代には話しているのだろうか。お互いの父が出会わせた、あの人には。
高瀬はしばらく黙っていたが、やがて、静かに言った。
「知らなくてもね。灯ちゃんの言葉は、ちゃんとあの子を支えてると思うよ」
灯は、何も言えなかった。
久々に飲んだコーヒーは、いつもより、少しだけ苦く感じた。




