第34話 一文の依頼
軽トラックの助手席で、灯は刷り上がったばかりの宿案内を膝に抱えていた。茶色のクラフト紙できっちり梱包したもの。揺れるたびに、それが膝の上で滑りそうになる。
「絶対、この車変えた方がいいでしょ」
荷台が開けっぱなしのこの軽トラでは、紙ものなど積めたものではない。風で飛ぶし、海沿いの道では潮も舞う。だから、こうして膝に抱えて運ぶしかないのだ。
「社長に言いな」
ハンドルを握ったまま、湊が短く返す。灯は窓を開けた。湾の奥へ漁船が一隻、白い航跡を引いていた。
*
南風は、海を見下ろす高台に建つ、小さな宿だった。玄関まで出迎えにきた女将が、湊の持った茶色い包みを見て、目を細める。
「わあ、きたきた」
女将に案内されて、廊下を奥へ進む。磨き込まれた板の間に、午後の光が落ちていた。その光の先、廊下の突き当たりに、人影が見えた。窓辺に立って、外の海を眺めている。
「……あれ」
灯は思わず足を止めた。横顔に見覚えがある。その人影が、こちらの気配に振り返った。
「あっ」
香代だった。
女将が立ち止まり、灯と湊、それから香代を交互に見る。
「ん? お知り合い?」
答えていいものか、灯は迷った。香代が印刷所に依頼していることも、その事情も、勝手に口にしていいものではない。言葉を選びかねているうちに、香代のほうが、廊下をこちらへ歩いてきた。
*
客間に四人で腰を下ろした。
香代は女将に向かって、ぽつりぽつりと話しはじめた。亡くなった父が遺した日記のこと。それを活版印刷で本にしようと、朝倉活版印刷所に依頼していること。父が、自分の三つの頃に船で出て、そのまま帰らなかったこと。
話すあいだ、香代の声はずっと低く落ち着いていた。女将は両手を膝の上で整えたまま、黙って聞いている。
「そうだったんですね」
香代が話し終えると、女将はしばらくしてそう言った。
「じゃあ、ここに来てくださったのも、何かの縁かな」
女将はやわらかく笑って、包みを開けたばかりの宿案内へ目をやった。その中の一文を、指でトントンと叩く。
——風待ち、潮待ちの宿。
「良い風と潮を待ってる間、どうぞ、ごゆっくり。……お二人も、せっかくだから、ゆっくりしてってね」
香代の分の宿案内を残して、残りの束を抱えた女将は、客間を出ていった。残された三人の上に、波の音だけが、遠く聞こえていた。
やがて香代は、膝の上に置いた鞄から、あの日記を取り出した。表紙に手を置いたまま、黙っている。
「改めて、読み返してみたんです」
窓の外へ、目を向けた。
「そうしたら、思って。……この日記は、父が出ていったきり、終わっていないんだなって」
『快晴。本日出港する』
そう書かれた最後のページで、日記は途切れている。香代の父はその日記を家に置き忘れたまま船に乗り、帰らなかった。書きかけのまま、何十年も、閉じられずにいた。
香代は、灯のほうへ向き直った。
「水瀬さん、コピーライターでしたよね」
「はい」
「この日記を、終わらせてくれませんか」
「……え?」
すぐには、意味が分からなかった。日記を、終わらせる?問い返すように見つめると、香代は言葉を探すように、ゆっくり続けた。
「最後のページに一つ、言葉を書いてほしいんです。父の言葉を。なんというか、うまく、説明できないんですけど」
鳶の鳴く声が遠く聞こえる。
灯は、すぐには答えられなかった。人の一生の、その終わりの言葉を自分が書く。そこに本人はいないのに。その重さの前で、声が出てこなかった。
黙り込んだ灯の視線の端で、湊の手が、ふと動いた。膝の上で開いていた指が、ゆっくりと握られる。湊は香代のほうを見たまま、何も言わない。けれど、その手を灯は見ていた。
やがて灯は、一語ずつ、確かめるように口を開いた。
「……すぐには、お渡しできないと思います。でも、大切に、言葉を探させていただきます」
*
最後の一文を書くためには、理解する必要があった。
机に向かって、何度も日記を読み返す。香代の父が遺した言葉を、端から端まで。香代の父が、どんな人で、どんな海を生きたのか。家族のこと。そして――蛍。
灯はどうしても、“蛍”の記述を無視できずにいた。
「湊さん。お父さんの手帳って、何か書いてあったりしませんか?」
「船と港のメモくらい。前に見せたやつだけ」
スマホの検索画面にも打ち込んだ。船の名前も、蛍のことも。しかし三十年以上も前のこと。この小さな島の出来事が、画面に情報として表示されることはなかった。
灯と湊の会話を、誠一は窓辺の机で聞いていたらしい。帳簿から顔を上げて、ふと宙を見る。
「昔の街の記録なら、2階にあるけどな」
灯は顔を上げた。
「表紙を活版で刷って、冊子にまとめる仕事を受注していた。毎年な。漁港の写真やら、役所の情報やら」
「それ、まだあるの?」
*
二階の一番奥は、長く使われていない物置になっていた。言われた場所を探すと、確かにそれらしき冊子が何冊か出てきた。色の褪せた焦茶色の表紙には、活版の凹みがある。
埃をはらうと、数冊抱えて明るい作業場へ降りた。事務机に一冊ずつ広げる。
秋祭りの行列。海開きの様子。古い街の暮らしが、ページの中に閉じ込められていた。何冊めかをめくっていた灯の手が、ある写真で止まる。港に並んだ漁船の、白黒の一枚。その船腹に、読み取れる名前があった。
第五昌運丸。
「あった」
隣から覗き込んだ湊も、その名を見ている。香代の父と、湊の父が乗った船。他の漁船より一回り大きな船。今は写真の中にだけ、その姿が残っていた。
ページをめくる。すると、見出しの一つに、その文字があった。
——蛍。
「えっ」
思わず声が出た。けれど、続く文字を追って、灯は肩の力を抜く。『蛍祭り』の見出しだった。川に蛍の舞う季節に、商店街が夜市で賑わう、この街の古い祭り。
「なんだ、祭りか。この蛍祭りって、今もやってるの?」
事務机のそばを通りかかった誠一が、冊子を覗き込む。
「長いことやってなかったな。人が減って、続ける者がいなくなって」
それから、思い出したように付け加えた。
「ああ、でも。今年はやるらしいぞ。和菓子屋の若いのが発起人になってな」
「へえ」
写真の中の夜の商店街は、アーケードの下で提灯が連なり、屋台が並び、浴衣の人波で通りが埋まっていた。
灯は窓の外へ目をやった。川の向こうに、商店街が見える。今は、シャッターを下ろした店が、いくつも目につく。これだけの人が集まっていた時代があったとは、今の通りからは、もう想像もつかなかった。
視線を手前の川へ落とす。
「この川、蛍見れる?」
「引いとる時は、見えるだろうな」
「えっ。満潮だと見えないの?」
灯の横で、湊が口を挟んだ。
「蛍って、水少ないほうがいいんじゃないの」
「えー。絶対きれいなのに。満ちた時の蛍」
灯は窓の外の川から、港に視線を移した。
「湊さん、一緒に確かめましょうよ」
「どうやって」
「……残業したらいい」
「悪い癖だぞ」
湊はそれだけ言って、活版機のほうへ歩いて行った。




