第32話 蛍
複写機の蓋を上げて、灯は日記を一枚ずつめくっていった。一枚ごとに緑色の光が走り、温かい紙が吐き出されてくる。それを順に重ねていくうちに、束は日記と同じだけの厚みになった。
数日ぶりに日記を持ってやってきた香代は、応接机で膝の上に鞄を抱えたまま、店の中を見るともなく眺めていた。誠一が玄米茶を出して、また窓辺の席へ戻り、広げた帳簿の数字を追いはじめる。湊は奥で印刷機を回していた。
複写を取り終えると、灯は応接机へ行き、本物の日記を両手で香代に返した。
香代はそれを受け取って、それから複写の束を見て言った。
「あの、ちょっとそれお借りできますか」
「どうぞ」と灯が複写を差し出す。香代は応接机に立てられたボールペンを手に取ると、束をめくりながら、いくつかのページの左上に、バツ印をつけていった。迷いのない手つきだった。
「これを、抜いて作っていただきたいんです」
灯は、印のついたページを目で追った。どのページにも共通して、『蛍』という名がある。
「……蛍さんって、お母様ですか」
香代は、少しだけ笑った。
「やっぱり、そんなふうに見えますか」
香代は複写の束をめくって、あるページを開いて見せた。妻に宛てた一節が、そこにあった。
「母ではありません。母のことは、こんな風にちゃんと別に書いてあるんです。それに私、兄弟姉妹もいなくて。一人っ子なので」
「では」これは誰なんですか、と続けかけて、灯はその言葉を飲み込んだ。
「この蛍という名前に、私、本当に身に覚えがないんです」
香代は、複写の束の上にそっと手を置いた。
「小学生の頃、引っ越しの荷造りをしていたときに、父が忘れていったこの日記を見つけて。それからずっと隠していました。母が、蛍という誰かの存在を、知ることがないように」
灯は、すぐには言葉が出なかった。
妻でもなく、子でもない。飲み込んだ問いの行き着く先を、灯は、それ以上は考えないようにした。
香代は複写の束に手を置いたまま、何かをやり終えたような顔をしている。バツ印のついたその複写をテーブルに残して、香代は本物の日記だけを鞄にしまった。
帰り支度の手を止めて、香代がふと顔を上げる。
「あの、佐伯さんは、いらっしゃいますか」
「あ、はい」
暖簾を分け、奥に声をかけたが、印刷機の音にかき消されて届かない。灯は機械のそばまで行き、もう一度湊を呼んだ。ようやく手が止まる。
湊が暖簾をくぐって応接スペースへ出ていく。灯もその後について行きかけた。けれど香代の目は、まっすぐ湊だけに向いていて、灯のほうへは一度も動かない。
灯は、暖簾を分けた手をそのままに、足を止めた。
「すみません、お呼び立てして」
「いえ。何か?」
香代の手が鞄にかかる。
「ちょっと、佐伯さんに見ていただきたいものがあって」
香代が言った後、ふいに湊が振り返った。
「灯」
来ないのかと問うように、小さく首を傾げる。灯はためらいながら、数歩を詰めた。香代は一度だけ湊を見上げ、それからまた鞄へ目を落として、やがて一枚の古い写真を取り出した。
「これ……父の遺品の中に見つけたものです。お父様も、もしかして写っていらっしゃるんじゃないかと思って」
湊は写真を受け取り見つめてから、一点を指で差した。
「これですかね。……おそらく」
香代が湊を見る。湊は、その問いを汲んだように続けた。
「写真でしか見たことがないので。船が出たのは自分が生まれる前で」
「……そうなんですね」
香代の声が、小さく沈む。
灯は横から写真を覗き込んだ。色褪せた写真の中で、日に焼けた船の男たちが、肩を並べて写っている。湊の指した男は、切れ長の目をまっすぐカメラへ向け、薄い唇を結んでいた。その顔立ちを、灯は、すぐ隣の湊と見比べる。
湊は写真に視線を落としている。そのまつ毛が微かに動いた。それから、目だけが灯を向く。
「似てますね」
灯が目を細めてそう言うと、湊は肘で灯の腕を小突いた。
「父は、これです」
香代が指したのは、湊の父のすぐ隣だった。引き結ばれた口元の男の横で、その人は大きく口を開けて笑っている。よく日に焼けた、人懐っこい顔だった。
「写真でも隣だなんて。やっぱり仲が良かったんでしょうね」
香代は写真を鞄へ戻し、立ち上がりながら続けた。
「日記、読んでみてくださいね。佐伯さんのお名前、何度も出てきますから」
ガランガラン、と大きなベルが鳴って、香代は出ていった。
ベルの余韻が消えると、店の中には湊の回す機械の音が戻ってくる。
灯は事務机に戻り、複写の束を揃えた。バツ印のついたページに付箋を貼りながら、順に重ねていく。
誠一が、その手元へ目をやった。
「やっぱり、随分あるな。見積もりは渡したのか」
「あの概算で伝えたよ。大丈夫だって」
誠一は小さく頷いて、帳簿へ視線を戻した。
活版機の作業を終えた湊が、奥から歩いてくる。灯の隣に立って、束を覗き込んだ。
「何、この印」
「ああ……」
灯は束をめくった。
「この蛍って人の出てくるページ、載せたくないんだそうです」
湊が束を引き寄せて、何枚かめくる。蛍。また蛍。ページのあちこちに、その名前がある。
『蛍は今日もぐずって動こうとしなかった。本当に手のかかる奴だ』
『蛍は俺がいないとだめだ。だが俺だって、蛍なしではどこへも行けやしない』
まるで、気難しくも愛おしい誰かのことを書くような筆致だった。
「お母さんでも、ご兄弟でもないそうです」
灯は声を落とした。
「蛍って人を、お母さんから隠したくて。小学生の頃からずっとこの日記を持ってたみたいです」
湊はページに目を落としたまま、すぐには何も言わなかった。
やがて、「へえ」と、それだけ言った。
しばらくして、湊が束をめくる手を止めた。あるページに、佐伯の名前があった。
『佐伯の奴、港にうまい珈琲牛乳のカフェがあると言って聞かない。俺はあんな甘ったるいものごめんだ』
灯は横からそれを覗き込んで、隣の湊を見上げた。それから、いたずらっぽく笑う。
「味覚って、似るんですね」
湊は何も言わずに目を細めた。
日記は、こう続いていた。
『だが、佐伯の見せたあのカードは良い。店名の凹んだ活版印刷。いつかこの記録も活版で残そうか。カヨに向けて』




